最近、気分がもうひとつぱっと

しない。

ややウツ状態。

こういうときは暖かいコーヒーを飲んでポケッとするか、寝転んでウトウトしとくのがいい。

焦って無理したり、ジタバタ動き回るのは逆効果。

 

きょうは昼から雨。

帰ってパソコンを開くと、党首討論があったらしい。

 

ネットの書き込み→「【党首討論安倍総理、聞かれたことには答えない。ヤジに反応してテレビ目線でクレームを長々と言う」

「安倍首相「枝野さんの言われたことはもう何回も質問されたこと。今、うしろから100回聞いたとヤジが辻本さんからありましたが、同じことを聞かれれば同じことを答える ~」」

党首討論。「辻本さんからのヤジが」って、安倍首相は本当に意地悪だね。わざわざ名指しで皮肉。話し長いし質問に答えないし・・・イライラする」

 

いちいちヤジに反応する安倍首相(笑)

 

ヤジで思い出した。

 

まだわたしがメチャクチャ若かったころ、阪神甲子園球場に巨人ー阪神戦を見に行ったことがあった。

プロ野球を見に行くのはそれが初めてだった。

早い時間に行ったのだが、もうかなりな数のフアンが球場につめかけていた。

 

外野席のちょっと前のほうに席をとると、周りは阪神フアンばかり。

すると、ナント!王選手がこちらのほうに歩いてきて目の前でキャッチボールをはじめたではないか!

すると、「おー、上等だ」とばかりに、阪神フアンのすさまじいヤジがはじまった。

 

いや、当時の阪神ファンのヤジといったら・・・

アンチ読売、アンチ巨人だった(阪神ファンでもなかったけどね(^皿^))わたしでさえ茫然自失、あ然とするばかりの「質」と「量」。

卓抜な気の利いたものから罵詈雑言まで、まあ実にバリエーション豊かに人々の口から出てくるわ出てくるわ。

 

これでは王選手もたまらないだろう、と思って見ていると、ナント、来たときと同じニコニコ顔のまま。

まったくヤジが耳に入っていなくて、そよ風に吹かれているような気持ちのいい表情のままだった。

そのまま、ごく普通のしぐさで去っていく王選手に、ヤジり疲れた?阪神フアンの間からも、「まあ、がんばれや」という声がかけられていた。

 

でも試合は阪神の勝ち v(^^)v

最後を締めたのは江夏投手で、キャッチャーは田淵選手だった。

王選手も三振していたな(笑)

巨人は、たしか長島監督の一年目じゃなかったかな?

 

六甲おろしが夜空に鳴り響いて、阪神フアンが大喜びでメガホンをたたきながら録音(歌は立川澄人さんだった?)といっしょに歌っていたっけ。

 

という思い出話しはともかく(笑)

王選手と安倍首相の「洗練度」「大人度」の差もともかく(笑)

 

当時の?阪神甲子園球場で本物のヤジを聞いたわたしからすれば、国会でのヤジなどヤジとは思えない。

 

自民党議員がたまにする「問題」発言には、議員として、良識ある人間としてどうか?というものがあるのだけれど、それはヘイト、差別、等「問題発言」の内容が問題になるので、ヤジとは言い難いし、

 

野党議員のものは、権力づくで強権を押し通す安倍自公政権の「圧力」に抗するところから出てくるものだから、これもヤジとは言えない。

 

野党のものは、これは「ヤジ」というより、安倍政権による強権、強圧、横暴に対する「悲鳴」といったほうがよいものではないか?

 

野党はこのあたり、しっかりと主張しておいたほうがいい。

安倍首相「ヤジはやめてください」

野党「それはヤジではありません。国民と野党の悲鳴なのです」

 

こういっておけば今回のものだって

 

野党の女性議員「100回やられた」

安倍首相「同じことをやるだけですよ。100回やっても101回やっても同じこと。・・・!ちょちょっと、おとなしくしろ!」

野党の女性議員「あーーーれーーーーーーーーーーーーーーーーー」

ということになって、安倍首相の実態が国民によく伝わるのでは?

え?

一部違うところがある?

そうかなあ・・・

 

ともあれ、今日は(きようも)なんだかじめじめ。すっきりしない。

 

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東京は雨の日が多いなぁ・・・

 

薄月というのかな?

薄い雲の後ろになって、鈍く光っている月。明日は雨の予報。

 

帰りに公園に寄って鉄棒にぶらさがる。(ぶらさがり健康器の代わり)。

 

公園のベンチに座って薄く光る月をながめていると、隣のベンチに一人の男性がやってきて寝転んだ。

誰かと話しをしているので、あれ?二人だったかな?と思って見ると、やはり一人。

ひとりごとだった。

 

けっこう大きな声で早口。

よく聞こえるので聞いていると、どうも日本語ではない。

最近よく聞く中国語でも韓国語でもない。英語でもない。

どこの国の言葉かはわからないが、とにかく早口。ちょっと怒っているような調子。

 

声の感じからすると40代50代くらいの年齢か?

よほどストレスや不満が溜まっているんだろう。

そう思って少し同情的な気持ちになる。

 

わざわざこんな国に来てくれてごくろうさま。

われわれ日本人にだってけっこうキツイ国。外国から来て働いているのだとしたら、ほんとうに大変だろう。

 

少し前のデータでは、外国からの労働者がいちばん行きたくないアジアの国はニッポンだった。

まあ、思う存分ひとりごとで不満などをぶちまけて、明日から元気に働いてください。

 

ということで、わたしは早々に公園を後にして帰宅(笑)

 

昨日の日記でキリスト教系の学校をディスったみたいになったことを少し反省。

たしかに、冷酷非情な「新自由主義グローバル資本主義世界」ではキリスト教、いや、仏教もその存在感を薄めているように見える。(宗教すべてが後退?)

つまりは、「神も仏もない世界」。

 

それでいて世界の紛争の火種は宗教対立であるという。

こういうときこそ、カトリックバリバリ、あるいは名門プロテスタント派ぞろいの日本のキリスト教系大学の奮起を求めたい。

 

学生さんもキリスト教を学ぶのはいいことだと思う。

世界を覆った「シオニズム」を越えるきっかけを作ることのできる最有力候補は日本だと思うので。

 

それにしても(平和に)逆向きな安倍政権(シオニスト?)

 

 

とりあえずダイエット挫折 \(^-^;)/

それでも体重が2キロちょっと減ったので、歩くのが少し速くなった。

わたしの場合、「食べなければ」快調。

なんだけど、中高年にさしかかってこらえ性がなくなったようで、なかなか昔のようには断食、節食ができない。

それでも、動物性のものを絶った(牛乳、タマゴ(平飼い)除く)おかげで、ダイエット時の体重の減り方が早くなっているような気がする。復食もラク。

 

それにしても、現在の政治状況を見ていると、お腹に泥水をぶち込まれたようないやな感じに襲われる。

「働かせ放題」の高プロ制やTPP、種子法廃止、水道民営化など、

そして、それをを覆い隠すような「報道」でテレビを一色に染め上げる情報統制。

 

3S(スポーツ、スクリーン(ドラマ等)、セックス(芸能など))漬けで国民を馬鹿にしておくクラシックな手法が行われているわけだけれど、

でも、まあ、内容がお粗末なので、それほどの効果はあげていないようにも見える。

NHKをはじめテレビ局も国民から馬鹿にされるようになった。

「そんなもん」としてテレビを見ている日本の市民はけっこうたいしたものかも(笑)

 

いまの日本で最も馬鹿にされ笑いものになっているのはテレビとネトウヨ、ネトサポ、

ということで  \(^-^;)/ ・・・

 

それにしても、日本大学アメリカンフットボール部の交流戦ラフプレーでテレビの「報道」が何日も埋められたのは驚いた。

しかも、世間の注目度も高かったという・・・

これは、その「違法(ルール無視)」ぶり」「乱暴」さ、「首脳部の“圧政”、“強圧”」ぶりが安倍政権と二重写しになったところから起きた社会現象だったと思うんだけど、

さらに突っ込んで、今の日大のウヨ経営陣(首脳)と安倍ウヨ政権が瓜二つというくらいに似ていた、というところまで行けば、安倍政権にとってはヤブヘビ?

 

これに関してはマスコミはよくやったというべきか・・・

マスコミから政府へ → 「どうですー、ご注文どおり報道をスポーツの話題で埋めちゃいましたよー」

政府「・・・むむ・・・」

といったところか?(笑)

 

ところで、話題になった当事者の大学は、どちらも東の日大、西の関西学院大学といわれるくらい全共闘運動が盛り上がった大学であったようだ。

 

わたしは全共闘運動世代より下の世代だが、学生時代に行きつけだったビルの地下にあるジャズ喫茶のトイレ(ドアから壁、天井までびっしりと落書きされていた)の壁に大きく「日大の全共闘関学全共闘よどこに行った?」と落書きされていたのを覚えている。

 

それを思い出して、「なんだか因縁話のようだな」なんて思っているのはわたしだけか?(笑)

 

それにしても、コルトレーンなど重いジャズばかりがかかっていて、タバコの煙がもうもう。暗い社会の予感に、誰もが沈んだ表情でモダンジャズに耳を傾けていた、あのジャズ喫茶が懐かしい。

(もうとっくの昔になくなっちゃったけど)

 

その日大もすっかり全共闘以前の日大に戻った、というか、さらにヒドイ状態になっている様子。

対する西の関学は?よくわからないが、キリスト教系の大学も全般的に右傾化、学問レベルも低下しているということなので、やはり全共闘以前か、あるいはそれよりもっとヒドイ状態なのかもしれない。

 

なんといっても、政治が、全共闘以前でさえ想像もつかなかっただろうほどに右傾化してしまっているんだから。

あのころの自民党議員さんでさえ、80%くらいの人は、今ならネトウヨやネトサポに「サヨク」と罵られていたかもしれない。

 

わたしも全共闘運動は無くなっていたけど、「学費値上げ反対」の運動には関わったな。

わたしが学生のころは、なんだかんだ言って学費は安かった。

しかし、当時すでに、政府、大学?がむちゃくちゃな値上げをやっていきそうだ、という情報は入っていた。

けっきょくわたしの在学時には値上げはなく、学費が上がり始めたのは、卒業してすぐくらいのときだったかな。

(たぶんわたしらくらいの頃を最後に学生運動もほぼ完全に姿を消したと思う)

 

それでも、まさか、学費の高騰もだが、奨学金サラ金化させるまところまでやるとは思わなかった!

やはり、学生運動にしろ市民運動にしろ、民衆の抵抗がなくなれば、政府・官僚・財界=権力は好き勝手なことをやるものだ、ということがよくわかる。まさに(民衆が)権利のために闘う姿勢を失えば(民衆のための)権利は失われるのだ!

 

といっても、今の若者の多くの人にはピンとこないかもしれないが。

(そういう(ウヨ)「教育」(ウヨ)「環境」で育てられてしまった、という面はあると思う)

 

ともあれ、おじさん(わたし)はまだまだやることがあると思っているので、市民運動に参加して声をあげていくぞー! 若者ももっともっと目覚めろー! \(^○^)/

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5月2日の日記から断続的に続けて

いた、「コピー」の転写。

ラスト!

 

『サー・ジュリアン・ハクスリーにとって、生物の競争は大した意味をもたぬ陳腐な所見にすぎない。

1963年、ハクスリーはこう書いている。

「生存競争は単に、各世代の一部が子を残せぬまま死ぬ運命にあることを示しているだけだ」

 

つまり現代の立場としては、自然選択と適者生存は毒にも薬にもならないトートロジー(※)にすぎず、生存競争は進化に関して重要な役割を演じてはいないのである。

 

では、総合進化論の見地はどうなるのか。

ジョージ・シンプソンが次のように述べている。

 

「遺伝的に赤毛の親が金髪や黒い髪の親よりも平均して多くの子どもを生むとしたら、進化は赤毛に向かって進む。

また、遺伝的に左利きの親のほうが多くの子どもを生むとしたら、進化は左利きに向かって進む。

形質そのものは問題ではない。問題なのは、何世代にもわたって誰がより多くの子孫を残すかである。

自然選択が適者に有利にはたらくというのは、多くの子孫を残す者を適者と定義した場合のみ言えることだ。

実際に遺伝学者はそのように定義しており、他の者にとっては紛らわしいかもしれない。

遺伝学者のいう適性は、健康や力強さや見た目のよさなどとは無関係で、生殖効率のよさだけが関係している。」

 

これはたしかにしっかりとした考えのように思えるし、従来の落とし穴をすべて回避している。

自然選択とは、それぞれの形質がどうであれ、多くの子孫を残す者が世界を占め、あまり子孫を残せないものが死滅していくプロセスである。 』

 

※ トートロジー = 同義語反復。

同じ意味の言葉を繰り返すこと。詭弁のテクニックとしてこれをやられると、議論が循環して真偽を問うことなく終わってしまう。

 

欧米ではよく知られたもので、あるレベル以上の場所でこれが詭弁として使われることはないが、日本では、「国権の最高機関」=国会でこれが使われた。

いまや「歴史的」となった、イラク派兵をめぐる野党の質問者と小泉首相(当時)のやりとり

              ↓

質問者「戦闘地域とはどこか」

 

小泉首相「それは自衛隊が出動していない地域だ」

 

質問者「では、自衛隊はどこに出動しているのか」

 

小泉首相非戦闘地域だ」

 

質問者「では非戦闘地域とはどこか」

 

小泉首相自衛隊が出動しているところだ」

 

・・・

自衛隊が出動しているところ = 非戦闘地域   

戦闘地域 = 自衛隊が出動していない地域

 

見事な「循環話法」(詭弁)。まさにこれによって憲法違反のイラク派兵という真実が隠蔽されてしまったわけで、まさか、こんなものが国会で行われようとは!?という、「トンデモ」の世界。

 

わたしは恐らくこれは、ニッポンのレベルを見越したCIAあたりの外国機関の脚本だろうと思っている。

一度バカにされたらオシマイで、

安倍政権においては、公然とウソやゴマカシがまかり通るようになってしまった。

・・・日本人のレベルが見抜かれてしまった?・・・

市民運動のみなさん頑張って!(>-<)

 

閑話休題(それはさておき)

ダーウィンにおける「自然選択」と「適者生存」がトートロジーであることは、今西錦司博士も、いまから40年以上前に書かれた「ダーウィン論」(中公文庫)ですでに指摘していた

→『さてこうなると、「自然淘汰」(※自然選択)という言葉と、「適者生存」

(わが国では習慣上 the Survival of the Fittest に対する訳語として、最適者生存とはいわないで、これを適者生存と呼んできた)

という言葉とは、同義語ともとれるし、あるいは適者の生存することを自然淘汰というのであるならば、適者の生存しない場合は自然淘汰でない、あるいは自然淘汰のはたらかなかった場合と解してもよいであろう』(第二章 ダーウィニアン・ドクトリン)

 

「(最)適者生存」については「[図説]偽科学・珍学説読本」グレイム・ドナルド 著

にこう書かれている。

チャールズ・ダーウィンは自分の著書が後々にまで影響をおよぼすことになるとは思ってもみなかっただろう。早い話、その予想外の影響はひどいものだった。

~(中略)~

~ さらに長い目で見ると、その影響ははるかに破壊的だった。(中略) 「(最)適者生存」は専横的な輩(やから)に利用され、さまざまな差別政策のなかでも特に優生学という新しい「科学」を正当化するために引き合いに出された。』

 

 

ともかく、転記終了\(^^)/

            ほっ

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これからは本のコピーをとるときには必ず書名を記入するようにしなければ。。

 

 

 

 

 

5月24日の日記で触れた「天上のキリスト」

の姿について。

 

田川氏は「註」でこう書いている。

『~ キリスト像を描く時に、この文を下敷きにして描いているものが多い。中世絵画のキリストで剣を口にくわえるものが多いのはそのせいである。その他、髪の毛を真っ白にしたり足を輝く金属みたいにしたり、目から燃える炎が出てきたり・・・。

 

しかし、これまたその種の中世絵画をごらんになるとすぐにわかるが、この文のまま絵にしようとすると、絵としてまるでさまにならない。どうしても、非常に下手くそな漫画になってしまう。

 

それは、そもそもこの書き手の描写が、おどろおどろしく大げさな表現を並べるだけで、絵画的にさまになるように書いてはいないからである。 ~ 』

 

!まさに、わたしの思ったこと、疑問を、しっかりと文章化していただいている。

 

「絵にもならない」こと(イメージ?)を言ったり文章に書いたり・・・

やっぱりそれは精神が未分化(幼稚)だからではないでしょうか?

 

いっぽうの「原著者」の文について田川氏は

『~ たとえば4章3~6の天上の神の座の描写。

どちらも幻想文学だから、一見似ているように思えるかもしれないが、まるで趣味も質も違う。

そちらは絵画的にうまく成り立っている。

~が、まさに雄大にうまく絵画化している。これなら絵になる。 ~

 

両者のこの文章力の決定的な違い、また文章上の趣味の違いも、非常にはっきりと、両者が別の書き手であることを示す。』

 

たしかに、4章3~6はわたしでも抵抗なく読める。

ただ、この部分を読むと、どうしても「阿弥陀経」を思い出してしまうのだけれど(笑)

(4章3 その方は、碧玉(へきぎょく)や赤めのうのようであり、玉座(ぎょくざ)の周(まわ)りにはエメラルドのような虹が輝(かがや)いていた。

 

4章6 また、玉座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。)

 

 

さて、コピーの続き転書

『しかし、最適者生存の概念はこうした細部に欠陥があるだけではなく、概念そのものが間違っている。

 

敗者が死に絶え、勝者が生き残って繁栄するという厳しい生存競争が、果たしてその種にとって本当に有益なのだろうか。

前述のとおり、ある個体が生き残るためには運もふくめてあらゆる要因がかかわってくる。

種子が肥えた土の上に落ちるか石だらけの地面に落ちるかは運不運の問題であり、スズカケの種子が波に洗われたむき出しの岩の上でも発芽して育つようになるといった突然変異はない。

 

厳しい環境が弱者を淘汰して種を強くしていく貴重なプロセスになるという考えは、19世紀の進化観において暗黙のうちに認められていた部分である。

自然は各々の種が鍛え上げられたり脱落を余儀なくされる巨大なトレーニングセンターだった。

過酷なプロセスの中で弱い者が敗れていっても、お気の毒さまというしかない。

そうやって自然は適者だけが生き残るようにしているからだ。

 

この考え方の根本にあるのは、生まれても成熟して交配できるようになる前に死んでしまう何百万という個体に対する自然の冷酷さである。

当たりくじの数は限られている。

当たりくじをつかめなかった者は死ぬ運命だ。

強く賢い者だけが残酷な自然の手中から命のパスポートをもぎ取ることができるという。

 

生存競争の概念は19世紀の進化学説の中心であったが、重要性は薄れてきた。

今日では、進化に関与しない要素とみなされたり、逆に進化に不利益な要素とさえ言われている。

シンプソンが以下のように書いている

 

<生存競争が関係することもあるが、関係しない場合のほうが多く、関係している場合でも自然選択に反する影響を持つことさえある。

 

繁殖率差における優位は概して競争という概念とは無関係な平穏なプロセスの結果であることが多い。

 

生態環境へのとけこみのよさ、自然の均衡の維持、食物の効率的な利用、行き届いた子どもの世話、繁殖を妨げかねない同種内の争い(競争)の排除、競争の対象にならない環境または他の種によって充分に利用されていない環境の開拓、等々。> 』

 

今日はここまで。

次回でコピー分は書き終わりそう\(^-^)/

「優生思想」国家ニッポンを告発してやろうという試み。

いずれブログで。

 

今日は終日雨。

夕食はおろしうどんにゆで卵。

いまダイエットの一時中断を考えている。今回はなぜだかこれまでより精神的にキツイ!

それにしても、ダイエット時にいつも気がつくことなのだが(ダイエットが終われば忘れる)、人間が欲している「うまいもの」って、結局は「油」と「塩分」と「糖分」じゃないだろうか?

外食の魅力もそこらへんにあるような・・・?

 

ところで、

田川建三訳著「新約聖書 訳と註 7」も挫折しそう(笑)

こちらのほうはなんとか頑張って読破したいけど・・・

 

それにしても、ほっとしたというか、安心したのは、第1章の14~20、「天上におられるキリストの姿」が「編集者S」のものとされていること。

この部分は、わたしがこれまでどうしてもなじめなかった、というか、抵抗のあった部分だから。

 

これが天上のキリストの姿?

→『その頭その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、

足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き、声は大水のとどろきのようであった。

右の手に7つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった』1.14~16(新共同訳)

この部分、今だから言うけど、イメージがあまりにも幼稚すぎる気がして、読むたびに顔をしかめていた。

田川氏は主に言語学の面から批判されているが、わたしはイメージそのものが、ダメ、たまらん。

とくに「口から両刃の剣が出て」というところなど、子どもの遊びからしか出てこない発想のような・・・

こういう表現も一言一句正しい、と考えることのできるキリスト教原理主義者の人たちは凄すぎる。恐るべき信仰心というか・・・

((注)田川氏はこの「新共同訳」の訳文じたいも厳しく批判されている(笑)が、1-14の註の冒頭でこの(自ら訳した)「原文(ギリシャ語)」について、「この表現も嘘みたいに下手くそ」と書いておられる。だいたい、訳よりも原文のほうがヒドイようだ)

 

それにしても、聖書、キリスト教関連ではこういう思いきった本の出版も許されるようになっている世界だが、いまだに日本語に訳されていないのがユダヤ教の重要聖典である「タルムード」。

わたしはそれを読まないとユダヤ教キリスト教イスラム教もほんとうには理解できないのではないか?と感じているのだが、どうも、死ぬまで読めそうにないみたいだ。

ユダヤ教には「タルムード」を異邦人に見せてはいけない、という掟のようなものがあるらしい)

 

 

ところで、「優生学」関連の「最適者生存」のコピーの転書が中断している。

今日からまた、少しづつでも進めていこう

→『ダーウィニズムの概念には、もうひとつ暗黙の了解を得た前提が含まれている。

生存を保証するのは個々の行動力であるという考えだ。

たとえば、ナワバリ内の獲物が絶えた場合、強く、賢く、決断力と積極性に満ちたライオンが、新たなナワバリと新たな獲物を探し求めて生き残るという。

だが、旱魃、火事、洪水といった自然災害によって獲物が絶えることも多いはずだ。

ライオンが、災害の直接の影響を免れたとしても、新たな獲物がなく、どんな行動をとっても生き残れない可能性はある。

また、積極性のない臆病で愚かなライオンが、旱魃などの自然災害に見舞われなかった地域で生き残り、繁殖するかもしれない。

要するに、生き残るのは最適者ではなく最も運のよい者だ。

運が遺伝するという考えはあまり見あたらない。』

 

今日はここまでにしよう。(オナカがすいた(笑))

 

おやすみなさい

 

宗教の影響というのは

わたしが思っているよりも大きいのかなあ、と、昨日から断続的に?考えている。

 

わたしのように無宗教で、時に触れて、仏教、キリスト教イスラム教などの宗教関連の本を読む程度の者からはちょっと理解できない世界ではある。

 

これまでわたしは、世の中というか世界を動かしている要因としては、宗教よりも人間の欲望のほうが大きいだろうと考えていたのだが、どうもこれはわたしのような“ど庶民の”考えであって、権力者や超大富豪になってこの世の栄華を極めたような人たちにとっては案外宗教の問題は大きいのかもしれない。と考えるようになった。

 

なんといっても、いくら権力があったって、富を持っていたって、あの世までは持っていけないもんねえ。

誰もが言うとおり(笑)

「死」は誰に対しても平等。必ずやってくる。死なない人間なんていない。と。

 

あと、権力者や大金持ちはわれわれ貧乏人よりも神さまから(この世で)恩恵を受けている、と見えないこともないので、信仰心が強いのかも(笑)

 

と、それはともかく、

宗教が原因の迫害、暴力、殺人なんてのはいただけない。

が、歴史をたどっても、現在の世界をみても、そう見えるものが実に多い。

 

田川氏はキリスト教ユダヤ教の「異邦人」を「異教徒」に変えただけ、と書いておられたが、なるほど、キリスト教イスラム教もユダヤ教の分派と言えないこともないので、これらの「一神教」にはすべて(形を変えた)「シオニズム」があるのかもしれない。

・・・というか、「宗教」と呼ばれるものにはすべて程度の差はあれ、「シオニズム」はあるんじゃないだろうか?

 

要は「程度」の差。

「宗教性」が強くなればなるほど、「シオニズム」というか「排他性」は強くなる、というわけで、

敬虔な信仰者ほど知らず知らずのうちにそういう「排他性」の道にはまっていくのはやりきれない思いがする。

 

熱心な宗教「信仰者」ほど尊敬できる人たちはいないんだけどなあ。

 

仏教、キリスト教イスラム教、それぞれの「聖典」をそれなりに読んだものとしては、それぞれが「最高」で、究極的に求めているものに大きな差があるわけではないと思う。

ただ、知識としてはそうでも、「信仰」はまた全く違うものでそのあたりが難しい。

 

いくら知識や資産を持っていたとしても、欲望にかまけた(道に外れた?)強欲・贅沢生活、悪党的な所業をしている者よりも、それぞれの宗教を(真剣に)信仰している(貧しい)人のほうが「はるかに上等」、というのは、わたしの経験上の真実だし。

 

 

ほんとうに難しい。

 

ところで、日本人がキライ、という日本人のなかには、日本人の「無宗教性」「信仰心の薄さ」「宗教的小賢しさ」が嫌い、という人がいる(わたしにも幾分そういう面がある)。

では、日本人がより所としているものはナンダ?

ということになるのだが、それはここでは避けて(笑)

 

かつて日本人、日本社会の宗教性の薄さと「シオニズム(性?)」が激しくぶつかった例としては江戸時代のキリスト教禁止がある。

最初にキリスト教を禁止したのは豊臣秀吉だが、このとき秀吉は「なぜキリスト教は仏教のように他の宗派と共存していこうとしないのだ?」とキリスト教の宣教師に問うている。

秀吉はまた、キリスト教とともにやってきたキリスト教徒の商人?たちが日本人を(領主たちから)奴隷として買い(火薬などとの交換)、東南アジアあたりで売っていることも問題にした。そのような人間(日本人)を物のように売り買いすることなど当時にあっても許されないことだったからだ。

「異教徒」をそのように扱って平気なのは、まさに「シオニズム」のなせることだったわけだが、さすがにこれはいけなかった。

 

この秀吉のキリスト教禁令を徳川幕府が受け継いで、国家政策としてキリスト教禁止を徹底させた。

このころにはキリスト教徒による新大陸での原住民大量虐殺(コルテス・ピサロによるアステカ帝国インカ帝国の征服など)の情報も幕府に入っていたようだ(その情報をもたらせたのはおそらくオランダ(当時の新教国))。

江戸幕府による改宗しないキリシタンへの残酷な刑罰の数々は新大陸でのキリスト教徒の原住民への残虐行為と似ていた)

徳川幕府が禁止したのはまさしく「異教徒」とは絶対に妥協しない、また、異教徒を自分たちと同じ人間とは見ない「シオニズム」だった。

 

そのことがよくわかるのは、「日蓮宗不受不施派」がキリスト教と同じ「禁教」とされたこと。

日蓮宗不受不施派というのは、

法華経信者以外の人から布施を受けたり、法華信者以外に供養を施さない」という日蓮さんの「不受不施義」を固く守っていた日蓮宗の流派。

この方針は権力者に対しても不変で、仏教各宗派が集まった豊臣秀吉の供養にも参加しなかった。

 

これが幕府の方針に引っかかり、禁教となってしまったわけだ。

弾圧はキリスト教とあまり変わらず、棄教(日蓮宗の他の宗派への変更など)しないものは斬首、入牢、島流しなど、厳罰に処された。

 

不受不施派シオニズムというほどのものではないが、その「宗教性」が他の仏教宗派と比べて格段に強かったため、キリスト教と同じような危険性を幕府に感じさせたのが厳しい禁教の理由だろう。

不受不施派は僧侶が妻帯しないから子どもが無く、僧侶が死ねば信者の中で選ばれた人が僧侶になった。

また、絶対に肉食はせず、汁物でも鰹節など動物性のものが使われていると、手をつけなかったという。

僧侶、信者ともに仏教の戒律を厳しく守っていたようだ。

 

こちらも隠れキリシタン同様、江戸時代を通じて細々と信仰をつないでいて、明治5年に禁教が解けると、何人かの僧侶、信者が現れて、宗派を再興した。

ちなみに江戸時代、この宗派は自分たちの宗派を「不受不施派」ではなく、「日蓮正宗」と名乗っていたという。

(いまの日蓮正宗との関連はない)

 

わたしは隠れキリシタンにしろ隠れ日蓮宗不受不施派にしろ、この国の厳しい弾圧下で信仰を貫いた人たちはとてつもなくエライというか、立派だったと思う。

そういう人たちがこの日本にいたことに誇りを感じる。

 

正義も公正も倫理も、人間性さえ無くしてしまったような腐った頭(政・官・財・マスコミ)の支配下で、民衆が苦しみ互いにいがみ合う現代日本にあってはなおさらだ。

 

しかし、庶民(民衆)の中にはまだまだ「宝」のような人材が埋もれている、

そう信じたい。

市民運動の盛り上がり等、日本人のほんとうに良質な部分ははまだまだ死に絶えてはいないのだ。(よく耐えている)

 

まだまだ日本には再生の芽がある

と、希望を口にしつつ眠りたいけど、・・・・眠れない(笑)