「なぜ日本人は幸せになれなかったの

だろう?」

 

「なぜ日本人は幸せになれないのだろう?」

 

ずいぶん長くこのことについて考えてきたのだけれど、いまだに、「これ」という回答が見つからない。

 

「日本の支配層が日本人を幸せにしようと考えたことがないから」

とか

専制的な官僚支配が徹底されてきたから」

などということは、たしかにあると思うのだが、どうもそれだけではないような気がする。

 

「日本人には自分や他者ともども幸せになろうというDNAがない?」

「そもそも日本人には幸せとは何かがわからない?」

なんて考え始めるともう袋小路(ほとんどビョーキ?)(笑)

 

他者より「お金」「社会的地位」「家族(子どもなど)」に恵まれていると感じること、つまり個人的な「社会的成功」だけが日本人の「幸福」なのだろうか。(たぶん日本人の唯一の「幸福」?)

とか・・・

 

一方、そうは考えず、「社会的」な幸福を目指して(つまり他者の幸福も願って)努力している人たちも、この国には存在する。

(のだが、この国はそういう人たちを弾圧迫害、そして「少数派」として「孤立」させているのではないか?)

政府も多くの国民も。

 

と、考えれば考えるほど「袋小路」。

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・・・梅雨時だし、ちょっとウツなのかな?

最近、ちょっぴり「絶望感」と「空しさ」を感じている。

 

「こういうとき」は気分転換が必要なんだけど、

「こういうとき」は気分転換の「散歩」に出かけても、こんな光景を見て、少し考え込まされたりする。

f:id:hibi333zakkan:20180613232444j:plainわたしの住居から歩いて20分くらいのところの歩道にある植え込みなんだけど、(たぶん)ツツジで「統一」された植え込みの中から、一本だけアジサイが首を出して咲いている。

これを見たとき、思ったのは「美しい」というより、「アジサイ君(ちゃん?)大変だなあ」。

でも人間世界みたいにいじめられないからいいよね、と言いたいところだが、

 

この植え込みは不思議な植え込みで、実はここで以前(去年?)こんなものも見た。

f:id:hibi333zakkan:20180613233722j:plainここは同じ植え込みの、ちょっと先に行った角のところ。

(たぶんここのツツジとは違う種類の)赤い花が、頭を寄せ合うように二つだけ咲いていた。

ふたつ、というより「ふたり」といった様子

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この写真を撮ったのは夕方だったんだけど、よく写っている。

 

周りとは「異質」なふたり?が身を寄せ合っているようで、思わず、「がんばるんだよー」と声をかけたくなった。

 

この日は夜遅くから雨になった。

なんだか嫌な感じがして、次の日また来て見ると

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花は二つとも落ちていた。

雨に降られれたためだろうか?からまり、しなびてすっかり小さくなっていた。

 

そのときは、雨に打たれて落ちたのかな?

と思って、少し悲しい気持ちになって立ちつくしていただけだったが、

今考えるとそんなことでしっかり咲いていた花が二つとも落ちるだろうか?

たぶん誰かが「異質」なものに「気づいて」花をちぎってしまったのではないだろうか?

もしそうならこれも「日本的」な出来事なのかもしれない。

 

そう考えると、一本だけしっかりと咲いていたあのアジサイ君のこれからの運命が心配だ。

 

う~ん。この日本にあっては、それがどのようなものであれ、「秩序を乱す?」ような少数派は「刈られる」べき雑草にすぎないのだろうか?

イヤな考えだが否定しきれない。

 

・・・それにしても、気分転換の散歩に出てもそんなことを「考えさせられ」てしまう。

いまの私の状態は何なんだろう?

 

袋小路?心の中にも梅雨空が広がって雨がしとしと?

 

いかんなあ。やばいなあ。。

 

 

・・・カラオケボックスに行ってアマチマリの曲でも歌うかな? ←意外と癒される \(^^;)

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

前回、6月11日の日記で

冒頭、「このあいだ」としたのは、ちょっと表現としてオカシクて、「しばらく前」とすべきではないか?

という指摘を受けた。

 

なるほど、たしかに「このあいだ」といえば、数日からいいとこ2・3週間前のことを指すんだったっけ?

と「若い頃」を思い出して「訂正」(笑)

 

というのが、ある年齢以上になると、3ヶ月から、ひどい時には6ヶ月前くらいまでが、「このあいだ」になってしまう。

記憶が「べたーーー」と一様に?なってしまって、4・5日前の記憶も半年前の記憶も変わらなくなってくるのだ。

 

「そういや、あれは・・・そんなに前だったかな~・・・」

という感じ。

 

・・・ついでに、何か指摘されても、なかなか素直になれず、なんだかんだと言い訳を並べたりもする ヽ(^。^)

 

まだそんな年じゃないと思うんだけどなあ・・・(笑)

 

ところで前の日記で、国会前の集会でもらったパンフレットを載せたけど、チョッキのポケットの中から濡れて乾いたパンフレットが出てきたので、追加

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こういうイベントには積極的に足を運びたい。3Sマインドコントロールテレビを見ていてもストレスが溜まる一方だものね。

何より、われわれ一般ピープルは本質的に「疎外」されているわけだから。

だから、「現実」にぶつかる、「現実」、「環境」に痛めつけられると、どうしてよいかわからなくなってしまい、自分を見失って、自殺したり、通り魔になっちゃったり、精神を病んだりする。

積極的に市民運動に参加することによって、そういった危機を回避することができる可能性は高まると思うんだ。

けっきょくは「コミュニケーション」の問題なんだよね。

ともに「困難」「障害」を乗り越える「運動」に参加することには、そういったメリットもあると思う。

 

・・・よく読ませていただいている「マスコミに載らない海外記事」というブログの6月11日の記事にこのような孫崎享さんのメルマガの文章が紹介されていた。

 

→『日本を覆う陰鬱な空気。

原発、被災地、憲法、そういう問題を飲み会等の集まりで話すことはタブーだ。

先ず会社員等組織で働く男性、大学生。

私は主婦等は発言で制裁を受けるわけでなく、話せるのではないだろうかと思ってきたが、話せば白い眼。

これも今や話せない』

 

うーん、耳をふさぎたくなるような(ある意味残酷な)お話しで、もとエリート外務官僚の孫崎さんでさえ絶望感に襲われるような状況みたいだけど、

ただ「一般社会」というものは昔からそうだったんじゃないだろうか?と生まれてから(おそらく)死ぬまで一般ピープルであるわたしは思う。

 

これ、全共闘運動、学生運動が完全に押さえ込まれて、「何もない」状態の学校でわたしがキャンパス生活を始めたころの状況に似ている。

まあ、右傾化は今ほどひどくなくて、いわゆる「しらけ」が行くところまで行き着いたといった感じの時代だったわけだけど。

 

それでも全共闘運動の「学費値上げ反対」闘争のおかげで、学費はまだ安く、奨学金は無利子。うちの両親も喜んでいた。わたしの生活もその分楽だった。

 

そこで、(学費値上げ反対運動をしてくれた)「先輩たちに感謝しなくては」ということで、学生自治会に参加。

学費値上げ反対闘争、を引き継ぐことにした。

 

最初は、全然、まったく。

われわれ「数人」のグループ以外はすべてノンポリに見えた。

ビラを配ってもほとんど受け取ってもらえない。

「まだそんなことやってんのかよ」

という「異物」を見るような目ばかり。

 

それでも、ぼちぼちやり続けたら、他の社会派サークルなどとの連携など、徐々に運動の輪が広がり始めた。

 

まあ、この話は始めると長くなるので、またの機会にブログで触れることにして、結果をいえば、わたしの在学中、2回学費値上げの動き(プレ発表)があり、2回ともそれを「撤回」させることに成功した。

一般学生も相当数が「学費値上げ反対」に動いた。

 

その「成功」原因を簡単にまとめると

① とにかく「やり続けた」こと。

ビラまき、集会の開催。講演会。そしてその中から新しいメンバーも加わっていった。

② 自治会を絶対に確保したこと(「選挙」対策w)

③ 仲間は絶対に守り(生活も含めて助け合い)、「敵」とみなした方々にはハードに対したこと(外部からは異様に見えたかもしれない(笑))

④ とにかく、ビラ、(学内)新聞などでの「情宣」は欠かさずやり続け、一般学生に情報を伝え続けたこと。

そして、なにより・・・

⑤ 自治会をしっかり確保することで、経済的に恵まれた状態であったこと(彼女ができて、自治会費を持ち逃げ、駆け落ちしたのもいたが・・・(笑()

⑥ 戦後のリベラル教授たちが作った「民主主義」そのものといった自治会規約が存在したこと(学校側と学生(自治会)の約束事でもあり、これはすごく有効に機能した。

この点、ほんとうに今の憲法は守るべき。少なくとも現・自公右翼政権中心の改憲は絶対NO!だろう)

 

とにかく思うのが、最初から一般学生ばかりを見てもダメだということ。彼らの「生活」に最初から割り込もうというのは無理がある。

まず、「特殊」だとか、「閉鎖的」だとか思われようが、目的を同じくするグループを充実させること。

そこから、「差別」「貧困」「社会保障」「ブラック企業」「性差別」「パワハラ」「非正規労働」「最低賃金」「年金」「医療」「教育」「基地」「原発」「住宅弱者」等々、「民主主義」と「人権」「平和」を必要とする「運動グループ」との連携をしっかりと構築していく、グループを育成していく(仲間内での争いは絶対タブー。・・・男女関係のもつれはあるかもだけど(笑))

 

そうやって運動を広げていくと、案外「一般大衆」だって「考えている」のだということもわかってくる。

最後に一部学内封鎖をやったのだけど、そういうことにはまったく関係がないようなクラスメートが、大きな椅子を運んできて、ドカッとバリケードの上に積んでくれたのは、驚いたし、うれしかったよ。

互いにニヤッと笑いあったりしてね。

 

それでも、わたしたちが卒業してから、すぐに学費の値上げが始まった。

たぶんそのころから(学生・学校の)ウヨ化も始まった?

 

市民(学生)の抵抗がなくなればどうなるか?

「見ての通り(今の「学費」「奨学金」ー「格差社会」)」だと思う。 




このあいだ、近くの図書館でちょっと変わった

本を見た。

 

戦前の社会主義者の埋もれた詩集を掘り起こす内容の本だったが、その本の1ページ目に、著者の署名のある「書き込み」のようなものがあった。

 

そこには細いサインペンのようなもので

“朝の来ない夜はない しかしあまりにも夜が長すぎる”

と書かれてあった。

 

その言葉には「うーん」とたいへん共感を覚えたのだけど、そのときは借りるところまではいかなかった。

一ヶ月ほどして、気になって、借りようかな?と思って捜したら、見つからず、そのままになっている。

 

その「朝の来ない・・・」の書き込み?だけが記憶に残った。

 

「・・・しかし、夜があまりにも長すぎる」

この言葉が、今のわたしに切実に迫ってくる。

長すぎる夜。そして朝が来るどころか闇はますます深く・・・

 

昨日、安倍政権の退陣を求める国会前の集会に行ってきた。

f:id:hibi333zakkan:20180611055340j:plain雨の中2万7千人が集まったという。

 

しかし、集まった2万7千人の市民はすべて歩道の奥に押し込められ、降る雨の下で身動きも移動もままならない苦しい状況に置かれていた。

 

つのる不愉快感、疲労感、そしてわたしは少し屈辱感も感じていた。

 

目の前には広く開いた「空白域」とも言うべき、国会前の車道。車は通れないようになっている。

しかし、その車道にわたしたち市民が出ることは許されない。

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歩道に押し込められるか、柵で周囲を囲まれ、少し隔離感のある国会前の公園にいるしかできないのだ。(1番左の写真は公園の中から歩道を写したもの)

 

登壇してスピーチする人たちの訴えは切実だ。

しかし、なぜかその訴えが耳に入らなくなってきて、わたしはステージから離れた、歩道の端へと移動した。

 

それぞれの思いを強く持って、雨にもかかわらず国会前に来た2万7千人の市民。

その人たちが(そしてわたしも)家畜のような扱いを受けている光景。

2万7千人の市民の、それぞれの人から伝わってくる熱い気持ちもなんだか辛くなって、いちばん端でぼんやりと、スピーカーから流れてくるスピーチに耳を傾けていた。

 

この国の「容易ならざる」現実がひしひしと身に迫ってくるようだった。

 

幸いなことに、わたしの隣にいたほぼ同年代の人がいい話し相手になってくれた。

彼は東京出身、わたしは地方出身。

しかし、学生時代から現代まで同じ時代を生きてきたことで話がよく合った。

市民運動学生運動なども含めた政治、社会に関する知識は彼のほうがはるかに上だった。

 

話はある程度はずんだが、現代の状況に話が及ぶと、やはり暗い話題にならざるを得なかった。

わたしが若者の右傾化について話すと、彼は「それは元をたどれば1969年に高校生の政治活動が禁止されたことから始まっているんだよ」

と言った。

(1969年)当時すごい田舎者だったわたしが首をかしげると(そんなことは知らなかった・・・)、彼は「そこから教師も変わっていったんだ」といった。

どうも絶望感でも彼のほうが上、というか先輩のようだった。(ひょっとして1969年から絶望している?・・・ホテルカリフォルニアの歌詞みたいなのだが、なるほど1969年。奥が深いかも・・・)

 

わたしががらんとした車道を見ながら

「これで安倍三選が阻止できますかねえ」

と言ったときは彼は口をつぐむように無言だった。

 

それでも、ほぼ同世代の人からいろいろな話が聞けて、集会の後半は気分が落ち込むことなく過ごせてありがたかった。集会への参加はこういうメリットもある。

 

新潟県知事選の「予測」についても彼は口をつぐんだが、

この国会前の様子を見て、わたしは内心、

新潟県知事選もやられちゃうだろうな」

と、思っていた。

(いまのウヨ自公政権は何でもやる・・・)

 

事前のマスコミ調査では野党統一候補が自公候補を2%ほどリードしていたが、その前の反原発知事二人の「仕掛けられた失脚」を見れば、何が何でも自公は自公の官僚候補を知事にするはずだ、と考えていた。

 

帰って自宅近くの惣菜屋さんのイートインで軽く食事。そのあともらったパンフレットの整理。目を通す。

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けっこうある。みんな頑張っている!

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もらい損ねたものもかなりあるかな?

なにはともあれ、市民の皆さま、お疲れさまでした、ご苦労さまでした。「不屈の民衆」!\(^-^)/

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(追)

案の定?・・・新潟県知事選、自公官僚候補が当選。

かなりの差がつくと予想していたけど、票差はそれほどなかった様子(笑)

若い層が自公官僚候補に多く投票し、年配層は野党統一候補に投票した人が多かったとか(ネット情報)

 

若者が右翼ファシストに投票して年配者が民主主義候補に投票する。

まったく、ナチス台頭時代のドイツそのまま。

闇はさらに深くなる・・・か

 







 



 

 



 

わたしは安部政権に対し、批判的な姿勢を

とっていて、国会前の集会などにも何回か足を運んでいるのだが、最近ちょっと驚いているのが、

 

集会とかには足を運ばない、非常に保守的と見えていた人たちの「安倍嫌い」が、わたしよりも強いこと。

正直、わたしも「えっ?」と驚いている。

 

たまに政治のことに話題が及ぶと、誰もが「安倍はもういいかげんにしてほしい」とか「安倍はダメ」とか、とにかく「否定」「拒否」、なかには憎しみをあらわにする人もいる。

わたしもおたおたするほど。

びっくりする。

(わたしの周囲の安倍拒絶率は100%。政治的な話をする「仲間」以外でだよ)

 

ほんとうに安倍政権を支持しているのは、特別に利益を享受しているとか、特定の(日本会議などの)宗教団体で「活動」している人とか、「特殊」な人たちだけ、という気がする。

 

つまり、一部の人たちだけが利益を得て、ほとんど大多数の人々は苦しめられているということなんだろうな。

 

声を出している市民より、声なき声のほうが「怨念」が強いようだ。

 

よくこれで政権を続けていられるよなあ・・・

 

考えてみれば、本当の弱者は声もあげられない抑圧された酷い状態に置かれているわけだから、その人たちの心はもう傷だらけ、といっていいだろう。

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 (><)

                それをなんとか耐えているのだ。

                                                                                    f:id:hibi333zakkan:20180426002300p:plain

 

その苦しみを代弁して、政府に社会に訴えかける心ある人たちも、安倍政権は無視し、攻撃・弾圧し抹殺しようとする。

(直近では、世界最高級の賞をとった映画監督への、ネトサポの攻撃、安倍政権の無視、抹殺行為(マスコミなどへの圧力)があった)

 

民衆の声にまったく耳を貸さない。一方的に国民、民衆の生活を厳しいものへと追いつめ、国民・弱者を分断、抹殺、地獄へと落としこめる。

これがこのかんの自民党公明党政権、とりわけ安倍政権のやってきたことだろう。

 

いまや99%に属する老人も弱者だ。安倍自公政権の老人いじめは凄まじい。

自民党公明党政権下で、障がい者、貧者、そしてついに老人が切り捨てられた。

国民の立場に立とうとする政治家、知識人、文化人なども根こそぎ、という感じだ。

 

この国の政治にはもう期待できない、という人が圧倒的多数になっている。

 

最近では国民の知らないうちに進めたTPP。

自由貿易ねえ。

消費税などの国民にかける重税は、関税撤廃と法人税減税のため。

もはや誰もがわかっている。

 

シャープなどの破綻は自由貿易のため、というのも明々白々。政府が国民資本を潰している。

国内で競争を繰り広げている企業・産業の商品の関税を下げて、開発途上国などからの安い商品を入れれば、日本企業が潰れるのはあたりまえじゃないか。

 

国内で「競争」が機能している産業の商品に対しては外国からの輸入にしっかり関税をかける。

関税の壁を低くするのは、国内で独占的立場にあぐらをかいている、「競争」が機能していない職種だけにすべきなのだ。

しかし、日本政府のやっていることはその真逆。

むしろ「独占」に外国資本を入れ、ほんとうの国内「競争」のない部門に支配的立場を与えて国民を収奪、国民を苦しめている。

 

実質幸福度が世界の90位以下といわれる日本国民をさらに地獄に落としているのが安倍自民党公明党政権なのだ。

 

国民を偽り、平気でウソを通し、国民の分断を図り、人権を奪い、(正式採用)公務員の報酬は増しつつ、その公務員を使って一般国民を押さえつける。(人権侵害を行わせる)

 

大多数の国民の怒りは大きい。

これは、「理屈」ではなく、生活の「実際」からきているものだから、根が深いのだ。

 

これまでの日本でこれほどまでに国民を怒らせた「首相」はいない。

もはや「裏切り」とさえいえない(国民に対する)「敵対」政治ー自民党公明党

 

世論調査」?(笑)「選挙」?(笑)

そういったものの「正体」をさらした、というか、信用をなくさせたのも、安倍政権だ。

 

「#安倍政権の悪行」はもはや書ききれないほど?

読んでいても、その「量」「質」にくらくらする。

 

こんな政治を招き、続けさせていることを、日本人は恥じるより「怒って」いる。(恥じるべきは安倍自公政権に寄っている取り巻きウヨたちだ)

 

国民の苦しみ・怨嗟の声、弱者の断末魔に近い悲鳴。

いま、安倍政権をもたせているのは国民の屈辱的な「忍耐」のみ。

 

おそらく、この弊害は後々まで尾を引くことだろう。

 

「分断支配」、「パワハラ強圧」、国民無視の反・日本国民政治 = 安倍自民党公明党政治。

 

悪いことは言わない。もう退場すべきときだ。

「驚き」とともに、ここでそう「警告」しておく。

これ以上「日本・日本人」を破壊してはいけない。

売国、国民破壊政治に終止符を。

 

 

最近、思い出にひたることが多いのは

目の前の現実に失望しているからかな?

 

ま、昔もロクなもんじゃなかったけど(笑)

それでも人々が今よりは少し誠実だったような気がする。いい意味で個性的でもあった。

 

これまでの人生で最も楽しかった時は?と問われると中学生時代かなあ。友人に恵まれ、先生も個性的で人間性むき出しというか偽善を感じさせられるようなことはなかったし、人間的に素晴らしく、いい影響を受けた人もいた(敬虔なクリスチャンだった先生とかいたな)。

 

部活(ブラスバンド部)も楽しく、学校の成績もそのころが最高だったかな?

 

友人といえば、同級生の、1年生のときから周囲の学校まで知られていたような「番長」、ともなぜか気が合って、(いまは「番長」も死語かな?(笑)

べつに子分というんじゃなくて、わりと対等に話ができていた。

 

気が合うというのかな、彼はケンカも正々堂々、陰湿さが全くない、キップのいい男だった。

何より良かったのが、絶対に弱い者いじめをしないこと。

むしろ、弱い者いじめをするような奴が「制裁」の対象だったな。

 

それでも1年坊主のとき、朝、彼と通学路の途中であって、「おう」ということで話しながら学校に行っていたときのこと、

前を歩いていた3年生の、こちらも有名な「不良さん」が菓子パンが2,3個入った袋をぶらさげて、パンをかじりながら歩いていた。

 

すると、彼はその「上級生」をつかまえて

「おお、いいもの食べているじゃないか」

と、そのパンの入った袋を取り上げて、

「ほいよ」

袋からパンを取り出して、その一つをわたしにくれた。

 

あれにはちょっとまいった(笑)

後ろで舌打ちをしている3年生の方をふり返って、「スンマセン」という顔をして頭をちょっと下げて、パンにかじりついたんだけど、おいしいパンだったなァ(あの上級生、パン屋さんの息子だったような記憶が・・・・?(笑))

 

彼は、中学校を出て、しばらく土木関係の仕事に従事していたようだけど、その後、農業をやるということで沖縄に行き、そこで結婚したという話を聞いた。

今でも元気にしているかなあ?(笑)

 

部活も楽しかった。

小学校時代の音楽の成績が「2」だったわたしがなぜブラスバンド部なんかに入ったのか?今でも謎なんだけど(というか「動機」を忘れた)

 

楽器を与えられて、その楽器をやっている3年生の先輩が素晴らしくて、あっというまに「部」になじめた。

 

最初、その先輩を見たときは、その日限りでやめようと思った。

無口な感じで、何より「顔」が怖かった(笑)

「いやー、こりゃあハンパなくやられるぞ」

と怖さに体を固くした。

 

ところが、教えはじめると、教え方がすごく上手い。

楽譜に向かうとにこやかになって、話し方もすごく優しい。

教え方は・・・たぶんそこらへんの音楽教師よりはるかに上手だったんじゃないだろうか?その中学3年生は。

 

まず、絶対に怒らない。

楽譜と楽器の説明をして、自分で模範を示してから、こちらにやらせるのだけれど、下手でもつまっても、それなりにいいところを指摘してほめてくれる。

そしてとにかく熱心。こちらまで引き込まれる。

 

何日かしたとき、練習しているわたしたちのところに顧問の音楽の先生がやってきて、

「どうだ?進んでいるか?こいつ(その先輩)は音楽は天才だからな。しっかり教えてもらうんだぞ」

とニコニコした表情をしてわたしの肩をポンと叩いた。

 

その先輩は音楽で身を立てようとしていて、

「急いでばかりで悪いけどな。俺はやることがあっていつまでもブラスバンド部にいられないので、早く覚えてもらわないといけないんだ」

と言っていた。

 

歌が非常に上手だった(東京のエライ先生から「この中学生は並みのプロの歌手よりはるかに(歌が)上手だ」というお墨付きをもらっていたとか)

 

その言葉通り、先輩はわたしが独り立ちできるようになると、部にはまったく顔を出さなくなった。

その先輩は、中学校を出て、歌手になるために上京したのだけど、歌手としてはまったく芽が出ず、相当苦労したらしい。(歌のうまさだけではダメだったんだろうなあ)

 

しかし、その後、プロの作曲家として有名になった!

カラオケでその人の作曲した歌を何曲か歌っていると、当時のことを思い出して、ふと泣けそうになるときがある。

「よかったですね、音楽で身が立てられて」

(先輩のおかげで、わたしもブラスバンド部の部長を2期やらしてもらって、中学校の3年間は音楽の成績がずっと「5」だった!ええ格好できて女の子にももてたし? \(^0^)/ありがとうございますー(笑))

 

天網恢恢、疎にしてもらさず、というのかな?

いいものを持っている人は、苦労はしてもやはり報われることが多いのだと思う。

 

そういえば、わたしの小学校時代の担任教師。

1・2年を担当してくれた先生はけっこう大きな規模の小学校の校長先生になったな。

いっぽうあの二人の先生は教頭にも校長にもなれなくて、男性教師は近くの小さな学校で嫌われながら教師生活を終え、女教師は、途中から消息も聞かなくなった。元の県にでも戻ったのかな?

 

小学校から高校まで教えてもらった先生たちのその後を見ると、わたしが

「あ、この先生はいいなあ」

と思った先生は、だいたい校長になっていたりしていて幸せな教師生活を送ったようだ。

 

(ただ、高校時代気の合った先生は、後年その高校の校長になったのだけれど、生徒が不祥事(大事件)を起こしてマスコミにいじめられていたのは気の毒だったな。問題(部活関係)はわたしらの頃からあって、その先生は関係ないというか、どうすることもできなかったと思うんだ・・・)

 

そういう意味では、なかなか公正な人事が行われていたのかな?昔のわたしが高校生まで暮らした県では。「左翼」だからって差別されていたような形跡もないし。

 

ただ、いまの「いじめ」の隠蔽だとか子どもの自殺だとかでの、学校や教育関係上層部の卑劣な対応を見ると、昔とは違っているな、と感じる。

 

政、財、官、教育関係、いずれも「悪貨が良貨を駆逐」した結果の社会になってしまったようにも思える。

そして事態は悪化の一途?

 

とりあえず、わたしは6月10日は国会前に行って声をあげてこよう。

(きょう6月8日も国会前で「定額働かせ放題」に対する反対集会があるみたい、だけど、うーーん、今日はむりかな?)

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6月10日は雨みたいだけど

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まあのんびり行ってこよう

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(再び思い出)
・・・しかし、天網恢恢かあ・・・

わたしはいったいどんな悪いことをしたんだろ?(笑)

 

ま、罪滅ぼし、罪滅ぼし(笑)

少しでもいい世の中が来るように、声をあげに行ってこよう。

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夏近し \(^^)/

f:id:hibi333zakkan:20180606035657j:plainということで、ちょっぴりウキウキしてしまうのは、子どものころ、遊びまわった夏休みの記憶のため?

 

たしかに、小学生時代の夏休みは楽しかった。

住んでいた田舎が海沿いの町だったので夏休みの始まる7月20日からお盆までの間は、毎日のように町営の海水浴場に行って泳いでいた。

 

海水浴の帰りにはかき氷を食べたり、ぶつ切りにして氷水に浸けられていたサトウキビをかじったり。サトウキビはかき氷よりもずいぶん安かった記憶がある。

 

嫌な教師の顔を見ないで済むのも嬉しかった(笑)

なにせ、小学3年生から6年生にかけて、担任教師との関係が最悪だったもので。

 

小学1年2年のときは、同じ町の出身の美人で優しい先生でね。

いいところはきっちり評価してくれて楽しかった。

通信簿も4と5だけだった。

 

ところが3年になると、新しく赴任してきた少し年配の女教師が担任になった。

これがどうもわたしの不運のはじまりみたいで(笑)

その女教師は隣県から二時間近くかけて通っていたのだけれど、

四月だったか五月だったかな?

隣県の某都市にいる親戚を訪ねるために母親と二人で電車に乗ると、偶然その女教師と一緒に乗り合わせた。

 

そこでのわたしの母親と女教師の「会話」が悪かった!

わたしの母親はけっこう明け透けな人だったので?その女教師が片道2時間もかけて隣県から通っている理由を(しつこく?)聞いちゃったのだ。

教師は困ったような顔をして、はっきりとは答えなかった。

 

ぶっちゃけ、性格も合わなかったんだろうなァ。

やがて二人とも黙ってしまった。

 

そんなことすっかり忘れてしまっていた1学期の終わり。

なんだか前年度よりテストの点数が全般的に上がっているような気がしていたので、期待して通信簿を見ると、

ナント、2と3が半々!5どころか4もひとつも無し。子どもながら大ショック!

 

青い顔をして家に帰り、台所仕事をしていた母親に通信簿を手渡すと、母親は「フン」と言う感じで、ふり返りもせず、何も言わず、後ろ手に通信簿を返してくれただけ。

 

夕食時、事情を知らない父親が、「何でだ?」という顔をして首をひねっているのをしり目に、会話ひとつ無い暗い食事が終わりましたっけ。

 

でも、次の日からは夏休みv(^-^)v

通信簿のことなんか忘れて海水浴に出かけていました。

そのときの夏休みはとくに楽しかったような(笑)

 

しかし、成績は6年生までずっとそのまま。

3年4年とその女教師に引っぱられて、5年生からはなんだかその女教師のお仲間のような一癖ある中年の男教師の担任になり、こちらも6年生まで担任を続けられ、みっちりのいじめ(笑)

 

中学生になってやっと「開放」され、最初にあったテストの成績を友だちと見せっこすると

「あれ?○○君、そんなに成績よかったっけ?」(笑)

 

中学校以降はもうヘンな教師にあたる事もなかったのだけれど、このときのトラウマはその後の人生にもやや尾を引いたなあ。

 

あのころの「地方」での子どもに対する公立小学校教師の権威、権力というのは絶対的なものがあって、いわゆる「先生」さまだったものなあ。

今からはちょっと想像できないんじゃないだろうか?

 

世の中変わった?

といっても、今でもお役所や警察などのお役人と民間人の関係は基本的にそう変わっていないんじゃないか?と思うときがある。

 

官は強く民は弱し。

官民格差は、待遇などの面では、あの頃よりもさらに広がっているような気がする。

基本、日本はやはり変わっていないのだろう。

どころか、「実現目標」でもあった日本国憲法の「基本的人権」「民主主義」「法の下の平等」そして「平和」までもが危機にさらされる時代になってしまった!

 

庶民はさらに「ものが言えない」状況にさらされている。

 

ということで(^-^)

庶民も自分の立場を主張できる時代が来るように!

改憲日本国憲法の理念を実現してからにせー!

権力ずくでウソをつくなーーーー!事実を隠蔽するなーーーー!

権力犯罪最悪!

民営化は民のためならず!強者のための政治!すべてそう!

 

などと、声を上げるために

6月10日、わたしは国会前に行く!

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お友だち、取り巻き政治。力ずく。批判封じ。批判者の排除。

安倍政権はやはり最悪だーーーー!

 

声をあげるぞーーーーーーーー \(^0^)/

都合のつく人、みんな行こーーーーーーーーーーーーーー!

昨日は夕方から少し足を伸ばして

隣の区にある温泉施設というかスーパー銭湯に行ってきた。

入浴料は税込みで800円。

これで時間無制限で温泉に入れ、寝転がったりもできるのだからありがたい。

国民切捨ての政府官僚系や独占企業系と違い、ニッポンの民間資本は民衆のために頑張っているのだ

                                (^-^)v

わたしが風に吹かれて、気持ちよく露天風呂に浸かっていると、ひとりの老人が話しかけてきた。

「きょうは暑いかなと思ったら案外涼しかったねえ」

一見、70歳代後半かな?と見える老人。

「ええ、陽ざしは強かったけど風が涼しかったですから、それででしょう」

わたしもそれに応じて答えた。

 

老人は

夏至は一年でいちばん昼が長くてお日様が照っているのに、7月や8月に比べてそう暑くないというのは不思議だねえ」

という話から始まって、地球の緯度や経度の話を始めた。

「ずいぶんと詳しいですね」

とわたしが言うと

「戦争中、海軍に4年間いたからねえ」

ちょっと驚いた

「え?戦争に行っていたんですか?じゃあもう相当なお年?」

「90歳を越えているよ。16歳で志願兵の一期で海軍に入って、終戦まで足掛け4年間海軍にいたんだ」

「へええ、4年間も。よく戦死しませんでしたね」

わたしの微妙な反応に、老人は苦笑しただけ。

それから、戦争の話になった。

 

しかし、それまでとは違って戦争の話になると、老人の口はやや重い。

だいたい、戦争体験者というのは戦争の話はあまりしたがらない。とくにその体験の内容は語らない。これは一般の空襲体験者なども同じで、やはり話すとトラウマになるというか、口にできないほどの辛い体験だったからだろう、と思う。

 

老人はずっと駆逐艦に乗っていたらしいが、その内容についてはあまり聞けなかった。

ただ4年間の「従軍」体験を通じて、政府や軍に対する疑問はずっと抱いていたようで、

「よくあんな戦争を始めたもんだ」。

「国力が全然違っていましたもんねえ。まだいまの北朝鮮のほうが当時の日本よりマシですよ。核を持っているだけ」

老人は少しうなずいて

山本五十六真珠湾で飛行機を使ってあんなことやっちゃったものだから、アメリカは、じゃあ飛行機でお返ししろとばかりに、飛行機をどんどん作って・・・」

老人の口からは当時のアメリカ軍の飛行機の名前が次々と出てきたのだが、わたしが憶えているのはP51くらい。そのあたりのわたしの戦争知識は薄いのだ(笑)

 

わたしが最初70歳代と見たくらい、まだ体型も表情もしっかりした、おそらく戦争中は精強そのものの兵隊サンだったろう老人。

しかし、その話には、もう戦争はしてはいけない、という気持ちがにじみ出ていた。

はっきりとは言わないが、「日本政府」に対する疑問もずっと内面に秘めていたように思えた。

 

「しかし、(北朝鮮の)キム・ジョンウンと安倍首相の(政治家としての能力の)差は・・・」

最後にそういって老人は苦笑した。

 

ぬるめのお湯だったが、長話になってしまって、わたしも湯から出ると少しふらっとしたほど。元気に立ち去っていったが、あのご老人、大丈夫だったろうか?(あとで倒れていやしないか?)とやや気になる。

 

それにしても、少し反省したのだが、年長者との話は聞き役に徹するのがいちばんいい。

わたしの話はあまり意味がなかった気がする。

まだ聞いておきたい話があったんだけどなァ

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少し残念・・・