7月1日。日曜日。

 晴れ。  最高気温32℃   最低気温25.4℃

 

陽射しが強く、暑い一日だったけど、風もあって日陰は案外快適だった。

 

きょうは

公園 → 区立図書館 → 公園 → 銭湯

で一日をつぶす。

公園では木蔭のベンチに座って

f:id:hibi333zakkan:20180702004831j:plainぼんやりと夏の空を見ていた。

 

図書館では新聞に目を通し(しかし、東京新聞以外の新聞(全国紙)はつまらんなあ・・・)、開架にあった「化石」関係の本に目を通していた。(「歯」は皮膚の変化したもの、という話は面白かった。)

 

しかし、少しばて気味なためか、もうひとつ読書に身が入らない。

 

図書館を出て、別の公園へ。

道路脇の花

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空き地の花

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こういう景色には心がなごむ。

 

今年はなんだか、どこに行っても花が目立つ。

厳しい現実を忘れるために、みんな、花を育てたり花の種を蒔いたりしているのかな?(笑)

(ホント、花を見ているとこの国の「現実」を忘れることができる)

 

銭湯は1年ぶりくらいのところに入ってきた。

 

実は、その銭湯は半年前に入りに来たら無くなっていて、跡地が駐車場になっているようだったので、“廃業したのかな?”と思っていた。

「その銭湯」にきょう、偶然「遭遇?」した。

 

前回はどうやら道をひとつ間違えていたようだ。

 

それにしても、無くなった、と思っていたものが「ある」というのはうれしいもので、少しホロリとした。(わたしの単なる勘違いだったわけだけど(笑))

 

銭湯からテクテク歩いて帰り、近くのイートインのある総菜屋さんでアイスコーヒーを飲もうと思ったら、何と!

 

こちらのお店が・・・

「閉店」していた

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大ショック!!

夜遅くまでやっていて、食事もできてコーヒーも飲める。

ここでコーヒーを飲みながら本を読むのが何よりの楽しみだったのに(悲)

 

うーん、個人商店のキビシさなのかなあ?

大手のチェーン店以外の店で長く営業できているところは少ないからなァ・・

 

けっきょくは「資本」なんだろう。

誰だって、せっかく始めた店を閉めたいなんて思う人はいないからね。

 

この日本で、個人経営を軌道に乗せて長く維持することは、難しい。

それでも、みんなチャレンジするんだよなあ。

「人間味」「個性」があるのは個人経営のお店。

 

この総菜屋さんも「人間味」があって、ヘルシーで安価な食事をさせてくれて、ゆったり落ち着かせてくれて、

頼りにしていた、というか、わたしの日常生活の「予定」のなかにきっちり組み込まれていたんだがなあ。

 

でも、まあ、仕方が無い。

「これまでありがとう」

と心の中で手を合わせて感謝。

 

しかし、なんだかアンバランスな社会だなあ。

 

「小資本」「個人」が生き生きと活躍できる、「資本」よりも人間の能力、個性、やる気、みたいな社会がこの国で実現できることなど、もう無いんだろうなあ。

 

・・・だから「花」を育てる???

 

 

 

 

 

 

 

 

今日は最高温度31.7℃、最低気温24.9℃

だったとか。

かなり汗をかいて、バテてしまったので、水風呂のある銭湯へ

f:id:hibi333zakkan:20180628013928j:plain←いいポスターが貼られていた。

少し早い時間だったが、銭湯はおじいちゃんたちで盛況。けっこう混んでいた。

 

銭湯に行くと欠かせないのが、風呂上りのおじいちゃんたちの世間話。これまでもけっこう貴重な話が聞けてきた。

 

しかし、きょう聞いた話は寂しく悲しかった。

 

話題は、「住居」。70歳代から80歳くらいと思われるおじいちゃん3人

「部屋はどうだい?」

「ダメさ。火事でおん出されてそれっきり。新しい部屋も借りられそうにないし」

「そうだよなあ・・・」

 

聞いていると、みんな「部屋」に「深刻な」悩みを抱えている様子。

その裏には「65歳になるともう部屋を借りられない」といわれる東京の借家事情があるのだろう。

「借りられない」だけではなく、老人になると、それまで住んでいた所から「追い出される」という問題もある。

 

そうか、トシをとるとこういう問題も起きてくるんだなあ、と、わたしも他人事ではない。

 

それにしても、昔はあまりそういう話を聞いたことがなかったのだが・・・

 

東京の借家事情が厳しさを増しているのだろうか?

 

わたしも今さら田舎には帰れないし、さて困った。

先々のことを考えると、目の前が真っ暗?になってきそうだ。

 

それにしても、「デフレ」「人口減少」「空き家の激増」といった状況なのに、一向に住宅事情が良くならないのはなぜなのだろう?

 

それに、どうも借家事情が厳しくなっているのは、老人だけではないようだ。

若者、若い層の人たちも「高家賃」に耐えかねて、家賃を「滞納」する人の割合が増えているのだとか。

学校を出て働き始めてもアパートを借りられず、実家にそのまま住み着くしかない若者も多いらしい。

 

当然だろう。

 

長年の「デフレ」、逆進税の増税、実質賃金の低下、国民福祉の削減、といった庶民の困窮化(庶民階級からお金が吸い上げられている)にもかかわらず、「家賃」はバブル時代から高止まりしたままなのだから。

いくら不景気でも「家賃」が下がることはなく、むしろ「上昇」していっている。

 

いったい、この国は何だ!

と、商店や工場をツブした跡地に次々と建設される「集合住宅」「共同住宅」を見ながら、怒りと絶望に襲われる。

「それら」は、日本の庶民のための住宅ではないのだ!

 

東京を見るかぎり、とても庶民階級が安心、安定して子どもを産み、育てられる環境ではない(劣悪な住環境、労働環境、国民福祉、等々)。

東京で子どもを産み、育てることのできる人たちはむしろ「特権階級」といっていいほどなのかもしれない。

 

これが、戦後延々と続いた自民党政治(いまは自公政治)の帰結なんだなあ、とつくづく思う。

絶望の庶民、弱者としての老人の「悲惨」。

 

・・・それにしても、銭湯で耳にしたお話しの「火事」。

貧しい人たちの住むアパートや、古い建物の「火事」がやたらと多いような気もする・・・(怖い噂)

 

ともあれ、東京のこの住宅事情をなんとか改善しようとした美濃部都政は大昔の話。

いま、その改善を主張して都知事選に立候補した宇都宮さんは、「当選」することができない。99%のためには最も良い候補だったにもかかわらず、ね。

 

銭湯での世間話までが絶望的なものになるようじゃ、この国もいよいよ、どうしようもない。

 

このままで行けば、近い将来、この国で「生きられなくなった」“ニッポン難民”が「他国」に助けを求めて逃げ出す事態も、荒唐無稽とはいいきれない(ありうる)んじゃないだろうか?

 

生存権」なき国、まともに「生存」できない国、からは逃げ出すしかないからね。

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ったく何だよ!ニッポンの資本家(経団連など)、政治屋、官僚、メディア・・・!      救われんなあ・・・

 

 

昨日、国会図書館に行ってきた。

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6月10日の集会以来の、「国会」、だけど、警戒姿勢がさらに厳しくなっている感じで、警察車両がしきりに走り回り、お巡りさんの表情も険しい。

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いちばん左の写真は首相官邸前。

 

この日、わたしは図書館で史料を閲覧するためだけに来たのだが、ムシムシしている上にこういう環境だったため、一気に気分がダウン。足取りが重くなってしまった。

国会議事堂前駅で降りたため)国会の前の歩道を歩いて国会図書館に到着。

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緑の多い庭を見て、少し心が和らぐ。

(真ん中の写真の女性は調べものに疲れて休んでいるのかな?)

 

実は、国会図書館を利用するのは今回が初めて。

利用者登録がややこしいんじゃないか?と思っていたけど、意外と簡単。

登録用紙に「氏名」と「生年月日」「住所」「電話番号」を記入して受付の人に渡すだけ。

ただ、(登録する)人数が多いので、登録カードを受け取るのは、椅子に座って番号札の番号が呼ばれる、運転免許の更新で免許証を受け取るような形。

 

登録カードを受け取ると、とりあえず6回の食堂に行って腹ごしらえ。

f:id:hibi333zakkan:20180622100757j:plainカレー470円。たっぷりのキャベツと福神漬けがうれしい。

 f:id:hibi333zakkan:20180622101008j:plain食堂の窓から見えるのは遠くのビル街と空だけ。下は見えないようになっている。

 

今回、国会図書館に来たのは、「旧唐書」と「新唐書」の全巻に目を通すため。

「あるかな?」

と思っていたら、「開架」で史記から始まる中国の「正史」(~明代)すべてが並んでいて、少し感動。さすがは国会図書館

 

しかし、「ムシムシ」は外と変わらず、3時間ほど史書に目を通していたら疲れて、少し気が滅入ってきた。

ので、また近いうちに来ることにして、今回はそれで打ち切り。

 

それにしても、国会図書館は、思っていたよりも利用しやすく工夫されていた。係員の人もプロフェッショナルというか、こちらの質問に明確に即答してくれる。

なんとなくニッポンを見直す気持ちになったのは、「国立国会図書館法」の精神が残っているためか?

 

国立国会図書館法 前文》

→「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立って、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、ここに設立される」

 

素晴らしいスローガンだと思う。

ただ、気になったのは、車椅子など、身障者の人の姿を見なかったこと。

しかし、これは国会図書館だけの責任(現象)ではなく、2005年の小泉政権による「障害者自立支援法」以来の政府の方針が大きいだろう。

 

障害者を邪魔者扱いにして、じわじわ追いつめる政府の施策。

わたしたちの若い頃はまだ、障害者が積極的に街に出てき、さらに明るい未来があるような雰囲気だったが、「障害者自立支援法」以降、障害者が家に閉じこもる(閉じこもらざるを得ない)状況になってしまっているようだ。

民主党の野田政権下で「障害者自立支援法」はいちおう廃止されたが、代わりの「障害者総合支援法」は「自立支援法」の骨格をそのまま残したため、安倍政権でさらに「改悪」が進み、障害者の人たちにネガティブな印象を与え、障害者の人たちも萎縮する、というか、消極的になってしまっているようだ。また、障害者支援施設の廃止、破綻も相次いでいる。)

 

ともあれ、国会図書館が思っていたよりも「使える」ことがわかったので、これからはちょくちょく利用させていただこう。

 

帰り道、国会裏の向かいの歩道で座り込みをしている人たちがいた。

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撮影していると、わたしより二十歳は年長といった感じの小柄な老婦人が、にこにこしながら、ビラというよりは、「美しい」パンフレットを手渡してくれた。

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写真をクリックすると、画像が少し大きくなるようなので、心ある方はぜひ読んでいただきたい。

この日、夕方にはこの近くで、「森友疑惑解明」を安倍政権に求める集会もあって、500人近い人たちが集まって声をあげたそうだ。

 

しかし、いまの国会に行くのはほんとうに疲れる。

わたしは、早々に帰宅し、コンビニで買ったサラダとカップラーメンを食べると、“バタン・キュー”

ぶっ倒れるように眠ってしまった。

 

国会あるいはその周囲?の「悪気」「妖気」「瘴気」に当てられたように、「夢見」も悪かった!

 

この重苦しく、ムシムシと身体を蝕むような空と気候の下、「不屈」の市民として声をあげ続ける皆さま、ほんとうにほんとうにご苦労さま。

体調に留意して、無理せず、がんばってください。

 

わたしも、気持ちを持ち直さなくてはなあ・・・



 

 

 

「なぜ日本人は幸せになれなかったの

だろう?」

 

「なぜ日本人は幸せになれないのだろう?」

 

ずいぶん長くこのことについて考えてきたのだけれど、いまだに、「これ」という回答が見つからない。

 

「日本の支配層が日本人を幸せにしようと考えたことがないから」

とか

専制的な官僚支配が徹底されてきたから」

などということは、たしかにあると思うのだが、どうもそれだけではないような気がする。

 

「日本人には自分や他者ともども幸せになろうというDNAがない?」

「そもそも日本人には幸せとは何かがわからない?」

なんて考え始めるともう袋小路(ほとんどビョーキ?)(笑)

 

他者より「お金」「社会的地位」「家族(子どもなど)」に恵まれていると感じること、つまり個人的な「社会的成功」だけが日本人の「幸福」なのだろうか。(たぶん日本人の唯一の「幸福」?)

とか・・・

 

一方、そうは考えず、「社会的」な幸福を目指して(つまり他者の幸福も願って)努力している人たちも、この国には存在する。

(のだが、この国はそういう人たちを弾圧迫害、そして「少数派」として「孤立」させているのではないか?)

政府も多くの国民も。

 

と、考えれば考えるほど「袋小路」。

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・・・梅雨時だし、ちょっとウツなのかな?

最近、ちょっぴり「絶望感」と「空しさ」を感じている。

 

「こういうとき」は気分転換が必要なんだけど、

「こういうとき」は気分転換の「散歩」に出かけても、こんな光景を見て、少し考え込まされたりする。

f:id:hibi333zakkan:20180613232444j:plainわたしの住居から歩いて20分くらいのところの歩道にある植え込みなんだけど、(たぶん)ツツジで「統一」された植え込みの中から、一本だけアジサイが首を出して咲いている。

これを見たとき、思ったのは「美しい」というより、「アジサイ君(ちゃん?)大変だなあ」。

でも人間世界みたいにいじめられないからいいよね、と言いたいところだが、

 

この植え込みは不思議な植え込みで、実はここで以前(去年?)こんなものも見た。

f:id:hibi333zakkan:20180613233722j:plainここは同じ植え込みの、ちょっと先に行った角のところ。

(たぶんここのツツジとは違う種類の)赤い花が、頭を寄せ合うように二つだけ咲いていた。

ふたつ、というより「ふたり」といった様子

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この写真を撮ったのは夕方だったんだけど、よく写っている。

 

周りとは「異質」なふたり?が身を寄せ合っているようで、思わず、「がんばるんだよー」と声をかけたくなった。

 

この日は夜遅くから雨になった。

なんだか嫌な感じがして、次の日また来て見ると

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花は二つとも落ちていた。

雨に降られれたためだろうか?からまり、しなびてすっかり小さくなっていた。

 

そのときは、雨に打たれて落ちたのかな?

と思って、少し悲しい気持ちになって立ちつくしていただけだったが、

今考えるとそんなことでしっかり咲いていた花が二つとも落ちるだろうか?

たぶん誰かが「異質」なものに「気づいて」花をちぎってしまったのではないだろうか?

もしそうならこれも「日本的」な出来事なのかもしれない。

 

そう考えると、一本だけしっかりと咲いていたあのアジサイ君のこれからの運命が心配だ。

 

う~ん。この日本にあっては、それがどのようなものであれ、「秩序を乱す?」ような少数派は「刈られる」べき雑草にすぎないのだろうか?

イヤな考えだが否定しきれない。

 

・・・それにしても、気分転換の散歩に出てもそんなことを「考えさせられ」てしまう。

いまの私の状態は何なんだろう?

 

袋小路?心の中にも梅雨空が広がって雨がしとしと?

 

いかんなあ。やばいなあ。。

 

 

・・・カラオケボックスに行ってアマチマリの曲でも歌うかな? ←意外と癒される \(^^;)

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

前回、6月11日の日記で

冒頭、「このあいだ」としたのは、ちょっと表現としてオカシクて、「しばらく前」とすべきではないか?

という指摘を受けた。

 

なるほど、たしかに「このあいだ」といえば、数日からいいとこ2・3週間前のことを指すんだったっけ?

と「若い頃」を思い出して「訂正」(笑)

 

というのが、ある年齢以上になると、3ヶ月から、ひどい時には6ヶ月前くらいまでが、「このあいだ」になってしまう。

記憶が「べたーーー」と一様に?なってしまって、4・5日前の記憶も半年前の記憶も変わらなくなってくるのだ。

 

「そういや、あれは・・・そんなに前だったかな~・・・」

という感じ。

 

・・・ついでに、何か指摘されても、なかなか素直になれず、なんだかんだと言い訳を並べたりもする ヽ(^。^)

 

まだそんな年じゃないと思うんだけどなあ・・・(笑)

 

ところで前の日記で、国会前の集会でもらったパンフレットを載せたけど、チョッキのポケットの中から濡れて乾いたパンフレットが出てきたので、追加

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こういうイベントには積極的に足を運びたい。3Sマインドコントロールテレビを見ていてもストレスが溜まる一方だものね。

何より、われわれ一般ピープルは本質的に「疎外」されているわけだから。

だから、「現実」にぶつかる、「現実」、「環境」に痛めつけられると、どうしてよいかわからなくなってしまい、自分を見失って、自殺したり、通り魔になっちゃったり、精神を病んだりする。

積極的に市民運動に参加することによって、そういった危機を回避することができる可能性は高まると思うんだ。

けっきょくは「コミュニケーション」の問題なんだよね。

ともに「困難」「障害」を乗り越える「運動」に参加することには、そういったメリットもあると思う。

 

・・・よく読ませていただいている「マスコミに載らない海外記事」というブログの6月11日の記事にこのような孫崎享さんのメルマガの文章が紹介されていた。

 

→『日本を覆う陰鬱な空気。

原発、被災地、憲法、そういう問題を飲み会等の集まりで話すことはタブーだ。

先ず会社員等組織で働く男性、大学生。

私は主婦等は発言で制裁を受けるわけでなく、話せるのではないだろうかと思ってきたが、話せば白い眼。

これも今や話せない』

 

うーん、耳をふさぎたくなるような(ある意味残酷な)お話しで、もとエリート外務官僚の孫崎さんでさえ絶望感に襲われるような状況みたいだけど、

ただ「一般社会」というものは昔からそうだったんじゃないだろうか?と生まれてから(おそらく)死ぬまで一般ピープルであるわたしは思う。

 

これ、全共闘運動、学生運動が完全に押さえ込まれて、「何もない」状態の学校でわたしがキャンパス生活を始めたころの状況に似ている。

まあ、右傾化は今ほどひどくなくて、いわゆる「しらけ」が行くところまで行き着いたといった感じの時代だったわけだけど。

 

それでも全共闘運動の「学費値上げ反対」闘争のおかげで、学費はまだ安く、奨学金は無利子。うちの両親も喜んでいた。わたしの生活もその分楽だった。

 

そこで、(学費値上げ反対運動をしてくれた)「先輩たちに感謝しなくては」ということで、学生自治会に参加。

学費値上げ反対闘争、を引き継ぐことにした。

 

最初は、全然、まったく。

われわれ「数人」のグループ以外はすべてノンポリに見えた。

ビラを配ってもほとんど受け取ってもらえない。

「まだそんなことやってんのかよ」

という「異物」を見るような目ばかり。

 

それでも、ぼちぼちやり続けたら、他の社会派サークルなどとの連携など、徐々に運動の輪が広がり始めた。

 

まあ、この話は始めると長くなるので、またの機会にブログで触れることにして、結果をいえば、わたしの在学中、2回学費値上げの動き(プレ発表)があり、2回ともそれを「撤回」させることに成功した。

一般学生も相当数が「学費値上げ反対」に動いた。

 

その「成功」原因を簡単にまとめると

① とにかく「やり続けた」こと。

ビラまき、集会の開催。講演会。そしてその中から新しいメンバーも加わっていった。

② 自治会を絶対に確保したこと(「選挙」対策w)

③ 仲間は絶対に守り(生活も含めて助け合い)、「敵」とみなした方々にはハードに対したこと(外部からは異様に見えたかもしれない(笑))

④ とにかく、ビラ、(学内)新聞などでの「情宣」は欠かさずやり続け、一般学生に情報を伝え続けたこと。

そして、なにより・・・

⑤ 自治会をしっかり確保することで、経済的に恵まれた状態であったこと(彼女ができて、自治会費を持ち逃げ、駆け落ちしたのもいたが・・・(笑()

⑥ 戦後のリベラル教授たちが作った「民主主義」そのものといった自治会規約が存在したこと(学校側と学生(自治会)の約束事でもあり、これはすごく有効に機能した。

この点、ほんとうに今の憲法は守るべき。少なくとも現・自公右翼政権中心の改憲は絶対NO!だろう)

 

とにかく思うのが、最初から一般学生ばかりを見てもダメだということ。彼らの「生活」に最初から割り込もうというのは無理がある。

まず、「特殊」だとか、「閉鎖的」だとか思われようが、目的を同じくするグループを充実させること。

そこから、「差別」「貧困」「社会保障」「ブラック企業」「性差別」「パワハラ」「非正規労働」「最低賃金」「年金」「医療」「教育」「基地」「原発」「住宅弱者」等々、「民主主義」と「人権」「平和」を必要とする「運動グループ」との連携をしっかりと構築していく、グループを育成していく(仲間内での争いは絶対タブー。・・・男女関係のもつれはあるかもだけど(笑))

 

そうやって運動を広げていくと、案外「一般大衆」だって「考えている」のだということもわかってくる。

最後に一部学内封鎖をやったのだけど、そういうことにはまったく関係がないようなクラスメートが、大きな椅子を運んできて、ドカッとバリケードの上に積んでくれたのは、驚いたし、うれしかったよ。

互いにニヤッと笑いあったりしてね。

 

それでも、わたしたちが卒業してから、すぐに学費の値上げが始まった。

たぶんそのころから(学生・学校の)ウヨ化も始まった?

 

市民(学生)の抵抗がなくなればどうなるか?

「見ての通り(今の「学費」「奨学金」ー「格差社会」)」だと思う。 




このあいだ、近くの図書館でちょっと変わった

本を見た。

 

戦前の社会主義者の埋もれた詩集を掘り起こす内容の本だったが、その本の1ページ目に、著者の署名のある「書き込み」のようなものがあった。

 

そこには細いサインペンのようなもので

“朝の来ない夜はない しかしあまりにも夜が長すぎる”

と書かれてあった。

 

その言葉には「うーん」とたいへん共感を覚えたのだけど、そのときは借りるところまではいかなかった。

一ヶ月ほどして、気になって、借りようかな?と思って捜したら、見つからず、そのままになっている。

 

その「朝の来ない・・・」の書き込み?だけが記憶に残った。

 

「・・・しかし、夜があまりにも長すぎる」

この言葉が、今のわたしに切実に迫ってくる。

長すぎる夜。そして朝が来るどころか闇はますます深く・・・

 

昨日、安倍政権の退陣を求める国会前の集会に行ってきた。

f:id:hibi333zakkan:20180611055340j:plain雨の中2万7千人が集まったという。

 

しかし、集まった2万7千人の市民はすべて歩道の奥に押し込められ、降る雨の下で身動きも移動もままならない苦しい状況に置かれていた。

 

つのる不愉快感、疲労感、そしてわたしは少し屈辱感も感じていた。

 

目の前には広く開いた「空白域」とも言うべき、国会前の車道。車は通れないようになっている。

しかし、その車道にわたしたち市民が出ることは許されない。

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歩道に押し込められるか、柵で周囲を囲まれ、少し隔離感のある国会前の公園にいるしかできないのだ。(1番左の写真は公園の中から歩道を写したもの)

 

登壇してスピーチする人たちの訴えは切実だ。

しかし、なぜかその訴えが耳に入らなくなってきて、わたしはステージから離れた、歩道の端へと移動した。

 

それぞれの思いを強く持って、雨にもかかわらず国会前に来た2万7千人の市民。

その人たちが(そしてわたしも)家畜のような扱いを受けている光景。

2万7千人の市民の、それぞれの人から伝わってくる熱い気持ちもなんだか辛くなって、いちばん端でぼんやりと、スピーカーから流れてくるスピーチに耳を傾けていた。

 

この国の「容易ならざる」現実がひしひしと身に迫ってくるようだった。

 

幸いなことに、わたしの隣にいたほぼ同年代の人がいい話し相手になってくれた。

彼は東京出身、わたしは地方出身。

しかし、学生時代から現代まで同じ時代を生きてきたことで話がよく合った。

市民運動学生運動なども含めた政治、社会に関する知識は彼のほうがはるかに上だった。

 

話はある程度はずんだが、現代の状況に話が及ぶと、やはり暗い話題にならざるを得なかった。

わたしが若者の右傾化について話すと、彼は「それは元をたどれば1969年に高校生の政治活動が禁止されたことから始まっているんだよ」

と言った。

(1969年)当時すごい田舎者だったわたしが首をかしげると(そんなことは知らなかった・・・)、彼は「そこから教師も変わっていったんだ」といった。

どうも絶望感でも彼のほうが上、というか先輩のようだった。(ひょっとして1969年から絶望している?・・・ホテルカリフォルニアの歌詞みたいなのだが、なるほど1969年。奥が深いかも・・・)

 

わたしががらんとした車道を見ながら

「これで安倍三選が阻止できますかねえ」

と言ったときは彼は口をつぐむように無言だった。

 

それでも、ほぼ同世代の人からいろいろな話が聞けて、集会の後半は気分が落ち込むことなく過ごせてありがたかった。集会への参加はこういうメリットもある。

 

新潟県知事選の「予測」についても彼は口をつぐんだが、

この国会前の様子を見て、わたしは内心、

新潟県知事選もやられちゃうだろうな」

と、思っていた。

(いまのウヨ自公政権は何でもやる・・・)

 

事前のマスコミ調査では野党統一候補が自公候補を2%ほどリードしていたが、その前の反原発知事二人の「仕掛けられた失脚」を見れば、何が何でも自公は自公の官僚候補を知事にするはずだ、と考えていた。

 

帰って自宅近くの惣菜屋さんのイートインで軽く食事。そのあともらったパンフレットの整理。目を通す。

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けっこうある。みんな頑張っている!

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もらい損ねたものもかなりあるかな?

なにはともあれ、市民の皆さま、お疲れさまでした、ご苦労さまでした。「不屈の民衆」!\(^-^)/

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(追)

案の定?・・・新潟県知事選、自公官僚候補が当選。

かなりの差がつくと予想していたけど、票差はそれほどなかった様子(笑)

若い層が自公官僚候補に多く投票し、年配層は野党統一候補に投票した人が多かったとか(ネット情報)

 

若者が右翼ファシストに投票して年配者が民主主義候補に投票する。

まったく、ナチス台頭時代のドイツそのまま。

闇はさらに深くなる・・・か

 







 



 

 



 

わたしは安部政権に対し、批判的な姿勢を

とっていて、国会前の集会などにも何回か足を運んでいるのだが、最近ちょっと驚いているのが、

 

集会とかには足を運ばない、非常に保守的と見えていた人たちの「安倍嫌い」が、わたしよりも強いこと。

正直、わたしも「えっ?」と驚いている。

 

たまに政治のことに話題が及ぶと、誰もが「安倍はもういいかげんにしてほしい」とか「安倍はダメ」とか、とにかく「否定」「拒否」、なかには憎しみをあらわにする人もいる。

わたしもおたおたするほど。

びっくりする。

(わたしの周囲の安倍拒絶率は100%。政治的な話をする「仲間」以外でだよ)

 

ほんとうに安倍政権を支持しているのは、特別に利益を享受しているとか、特定の(日本会議などの)宗教団体で「活動」している人とか、「特殊」な人たちだけ、という気がする。

 

つまり、一部の人たちだけが利益を得て、ほとんど大多数の人々は苦しめられているということなんだろうな。

 

声を出している市民より、声なき声のほうが「怨念」が強いようだ。

 

よくこれで政権を続けていられるよなあ・・・

 

考えてみれば、本当の弱者は声もあげられない抑圧された酷い状態に置かれているわけだから、その人たちの心はもう傷だらけ、といっていいだろう。

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 (><)

                それをなんとか耐えているのだ。

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その苦しみを代弁して、政府に社会に訴えかける心ある人たちも、安倍政権は無視し、攻撃・弾圧し抹殺しようとする。

(直近では、世界最高級の賞をとった映画監督への、ネトサポの攻撃、安倍政権の無視、抹殺行為(マスコミなどへの圧力)があった)

 

民衆の声にまったく耳を貸さない。一方的に国民、民衆の生活を厳しいものへと追いつめ、国民・弱者を分断、抹殺、地獄へと落としこめる。

これがこのかんの自民党公明党政権、とりわけ安倍政権のやってきたことだろう。

 

いまや99%に属する老人も弱者だ。安倍自公政権の老人いじめは凄まじい。

自民党公明党政権下で、障がい者、貧者、そしてついに老人が切り捨てられた。

国民の立場に立とうとする政治家、知識人、文化人なども根こそぎ、という感じだ。

 

この国の政治にはもう期待できない、という人が圧倒的多数になっている。

 

最近では国民の知らないうちに進めたTPP。

自由貿易ねえ。

消費税などの国民にかける重税は、関税撤廃と法人税減税のため。

もはや誰もがわかっている。

 

シャープなどの破綻は自由貿易のため、というのも明々白々。政府が国民資本を潰している。

国内で競争を繰り広げている企業・産業の商品の関税を下げて、開発途上国などからの安い商品を入れれば、日本企業が潰れるのはあたりまえじゃないか。

 

国内で「競争」が機能している産業の商品に対しては外国からの輸入にしっかり関税をかける。

関税の壁を低くするのは、国内で独占的立場にあぐらをかいている、「競争」が機能していない職種だけにすべきなのだ。

しかし、日本政府のやっていることはその真逆。

むしろ「独占」に外国資本を入れ、ほんとうの国内「競争」のない部門に支配的立場を与えて国民を収奪、国民を苦しめている。

 

実質幸福度が世界の90位以下といわれる日本国民をさらに地獄に落としているのが安倍自民党公明党政権なのだ。

 

国民を偽り、平気でウソを通し、国民の分断を図り、人権を奪い、(正式採用)公務員の報酬は増しつつ、その公務員を使って一般国民を押さえつける。(人権侵害を行わせる)

 

大多数の国民の怒りは大きい。

これは、「理屈」ではなく、生活の「実際」からきているものだから、根が深いのだ。

 

これまでの日本でこれほどまでに国民を怒らせた「首相」はいない。

もはや「裏切り」とさえいえない(国民に対する)「敵対」政治ー自民党公明党

 

世論調査」?(笑)「選挙」?(笑)

そういったものの「正体」をさらした、というか、信用をなくさせたのも、安倍政権だ。

 

「#安倍政権の悪行」はもはや書ききれないほど?

読んでいても、その「量」「質」にくらくらする。

 

こんな政治を招き、続けさせていることを、日本人は恥じるより「怒って」いる。(恥じるべきは安倍自公政権に寄っている取り巻きウヨたちだ)

 

国民の苦しみ・怨嗟の声、弱者の断末魔に近い悲鳴。

いま、安倍政権をもたせているのは国民の屈辱的な「忍耐」のみ。

 

おそらく、この弊害は後々まで尾を引くことだろう。

 

「分断支配」、「パワハラ強圧」、国民無視の反・日本国民政治 = 安倍自民党公明党政治。

 

悪いことは言わない。もう退場すべきときだ。

「驚き」とともに、ここでそう「警告」しておく。

これ以上「日本・日本人」を破壊してはいけない。

売国、国民破壊政治に終止符を。