午後から雨の降り続いた昨日の

夕方、

サンダル履きで某コンビニに行ったのだが、その入り口ですべって尻もちをついてしまった。

 

ふつうならすぐに立ち上がるのだが、このあいだから右ヒザを痛めていて湿布薬を貼っている状態だったため、すべった際、右ヒザをかばって、右足は腰から下がほぼ真後ろ?に。ヒザは太ももにくっつくように曲がっている。

そしてすべった左足はまっすぐ前に伸びている。

 

180度開脚とは言わないが、両足の角度は相当なもの。

 

一瞬、股関節脱臼?したか?と、ショックで呆然としていた。

 

ふと、コンビニのカウンターを見ると、30歳くらいの若い男性店員がひとり。

一瞬目が合ったが、

え?

その店員さん、何も見ていないかのようにまったく無表情。なんら行動を起こす様子も無くふつうに?立っていて、お客が来れば、やはりふつうに応対している。

ただそれだけ。

 

わたしのほうは、とにかく右ヒザを痛めている上に、そんな姿勢なものだから、尻もちをついたままどうすることもできない。

 

しばらくすると、太った別の店員さんが来て、わたしの片腕をとって立ち上がらせようとするのだが、結構重いわたしのこと、身体はビクともしない(悲)

 

そこに、店内にいた80歳くらい?のおばあちゃんがやってきて、店員さんに

「そんなことをしてもだめだよ。体の後ろに回って両手で・・・」

とテキパキと指示。

おばあちゃんの言うとおりに店員さんがすると、あら不思議。

スッと立ち上がれた。

 

一瞬腰に痛みを感じたが、どうやら股関節は無事な様子。

 

呆然と立ちすくむわたしに、おばあちゃんは

「ダメだよ。雨の日にサンダルなんか履いてちゃ。こういう靴でないとね」

といって、自分が履いていた運動靴の裏を見せてくれると、

スタスタと立ち去って行った。

 

いやあ、素晴らしいおばあちゃんだった。

日本のお年寄りはたいしたもんだ、と感心、感謝。

 

立ち上がりをサポートしてくれた店員さんも去って、

カウンターの中の、あの若い店員さんを見ると、それまでとは表情が違う。

わたしが立ち上がれないうちは、冷淡というか無関心というか、とにかくまったく心が無いかのような無表情だった店員さんだが、

それが、立ち上がったあとは「人間を見る目」に変わっている?

 

ただし、ふつうのお客に対する態度、といった感じだけど。

 

そのまま、回れ右をしてコンビニ店を出てしまったけど、

あのおばあちゃんの人間力?もさることながら、

最も強く印象に残ったのは、その店員さんの、心が全く無いかのような表情。

 

「困った奴だ」

という気持ちがあったのかも知れないが、

しかし、目の前で尻餅をついて難儀している人間を見て、まったく無表情、無関心?でいられるかなあ???

少なくとも、わたしの学生時代頃には、そういうタイプの人間はいなかったと思うのだが?

ちょっとプチ・トラウマになるような経験だった。

 

しかし、若者や子どもにしかできないような大開脚を「突発的」にやってまったく無事だった、というのは自信になった^^

まだまだ関節が柔らかいんだなあ♪って

 

それでも、もう尻もちをついたり転んだりしないようにしなければ。

今回も下手をすればどうなっていたかわからない。

 

それにしてもそれにしても、

最近の若者の「心」の状況はどうなっているのだろうか?

と、考えさせられた一事ではあったなあ。

 

ちょっと痛みが出ている腰よりも、そっちのほうが不安

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きょうこの日記の表題を少し変えた。

「hibi333zakkanの日記」から「ひぐらし無常(hibi333zakkanの日記)」へ

 f:id:hibi333zakkan:20180908114125j:plain都会の片隅で、カナカナカナ・・・・・(笑)

 

それにしても、この夏は悲惨、残酷な出来事が多かった。

200人以上の犠牲者を出した西日本豪雨。それと同時期に行われたオウム真理教の教祖・幹部7人の同日処刑。20日後には残った6人の幹部もやはり同日処刑された。

 

それだけでも暗い気分になるのに、追い討ちをかけるように、列島を縦断した強い台風21号、それと同時に起きた北海道での震度7地震

北海道ではいくつかの(というより多くの?)山が信じられない崩れ方をして、こちらも数十人の犠牲者が出ている。

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大都市では、大阪がこの夏、相当やられたが、東京は無事といえば無事。大きな災害に襲われることはなかった。

 

そんな東京に住んでいても、気分は暗い。

程度に大きな差があるとはいえ、救いようの無い絶望感は被災地の人々と変わらない。

将来にまったく希望を見出せない絶望感。

 

政府の示す政策も絶望感を増すものばかり。

日本政府は、国民をいかに不幸な状態に置いておくか?を基本方針にしているように思える。

一握りの者だけが巨富を得て、大多数の国民が余裕なき奴隷状態におかれる国。

 

そんな国で、さらに災害に見舞われるなど、地獄というしかないだろう。

 

カナカナカナ・・・・(笑)

 

わたしらのような貧しき庶民から見れば、いまの日本の「財」「政」「官」「マスコミ」といった支配体制は凶暴な野獣=絶望のカタマリとしか見えない。

 

・・・それでもなんとか生きている。

日本人は「なんとか生きている」ことでそれなりに満足できる人種なのかもしれない。

 

このあいだから『世界幸福度ランキング 上位13カ国を旅して わかったこと』(マイケ・ファン・デン・ボーム・著)という本を読み始めたが、いま止まっている。

そういった「国民の幸福」を目指す国々の指導者や国民の考え方、人間性と、日本のそれとがあまりにも違っていて、読んでいて空しくなったからだ。

 

またホームレスが増えている。

夜、いつもの街を歩いていても、ホームレスの人たちが目につくようになってきた。

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わたしがこの夜に見たホームレスのほとんどが老人・年配者であったのは、安倍政権の特徴を現しているのか?

その安倍自公政権に合わせるように、野党・国民民主党の党首さんが、「高齢の労働者には最低賃金規定を適用しないよう」な「立法」を提言していたけど、それでどうなるの?って話。

この国のエリートさんの頭の中は、どうも「均一」らしい。

 

上の写真の最後の、公園で寝ていたホームレスさん。

ホームレスとしては新米らしく、落ち着きがなく、あたりを見回したり、そわそわしていた。もう70代後半くらいに見えるおじいさんで、ときどきゴホゴホという変なセキをしていた。

f:id:hibi333zakkan:20180908124758j:plainそれにしても、地面に布団を敷いて寝る気分て、どんなものなんだろう?

 

(住宅事情、住環境最悪の)

この国で貧しく老いていくということは・・・(怖)

 

・・・わたしは、もしも将来そういう状態に追い込まれた場合、東京にいるより、テントをかついで「樹海」に行って寝るかなあ・・・(ハァ・・・笑)

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でも

人間、生きるときは生きるし、死ぬときは死ぬ。神のみぞ知る人生。

その点、エリート大富豪も貧乏庶民も変わりはない。

 

・・・よく考えたら、どうってことない(笑)

この先、自分を偽らずに生きていくのみ。うん。

後悔なんて無いもんな \(^皿^)/

 

 



 

 

 

テレビはほとんど見ないのだけれど

テレビのワイドショーなどでは今、どうやら体操業界の内紛?がメインの内容のよう。

 

わたしらの子どものころにヒーロー、ヒロインだった体操の塚原夫妻がお偉いさんになっていて、パワハラだとか体操協会での専制?とかでバッシングの対象になっている。

 

わたしはどちらかといえば、週刊誌やテレビからバッシングを受けている人たちに味方したいほうなのだが、

今回のような場合、協会内部だとかの特定の業界の問題になると、内部事情を知っているわけではないので、何とも言えない。

 

ただ、塚原夫人の体型を見ると、もう引退すべきときじゃないかな?

とは思う。

 

わたしなんかも油断しているとすぐに太る体質なので、肥満とダイエットを繰り返しているのだが、

そのわたしの経験から言わせてもらうと、

“肥満は不運を呼ぶ”

 

これまでのわたしの人生を振り返ると、

太っているときは運が悪く、何をやってもダメで、体が引き締まっているようなときは好調、というか不運も近寄ってはこない、

という傾向が顕著なのだ。

 

たぶん、“不運は太っているわたしが好きなんじゃないだろうか?”

と思えるくらい、

 

不運、不幸は体重が増えているとき、体重が増加傾向にあるときに集中している。

 

トシを食って、もう痩せる努力も空しくなれば、そのときが引退の潮時なんじゃないか?

と思っている。

 

自分が不調なら周りにもいい印象を与えないし、トラブルも起きてくるしね。

 

“ダイエットできなくなったら引退”

これでいいんじゃないかな?

 

まあ、人さまざまだけど。

 

それにしても、日本の老人?の大罪は“後継者”を育てられなかったことだな。

それがすべてを物語っている。

いまの老人だけではなく、すでに亡くなっている人たちも含めて。

その結果が、現在の政・財・官・マスコミ・教育界・スポーツ界???(笑)なんじゃないかと思う。

企業も政府も国会も官僚もマスコミも教育界(とくに御用学者ばかりで占められた大学など)も酷いじゃない。

 

などととりとめのないことを考えつつ、

 

まだ、あの「13人の処刑」にこだわっている。

 

ほとんどの「オウム関連本」が政府・捜査機関・司法などに忖度した内容となっているなかで、インパクト出版会から出ている「獄中で見た麻原彰晃」がリアルに事実を伝えていて面白く読めた。

 

オウム裁判の当初、マスコミで麻原氏の「不規則発言」が報じられ、「わけのわからないことを言っている」ということだったが、

この本ではじめてその内容の一部を知ることができた。

その中で、印象に残った麻原氏の言葉は

 

「(裁判官に対して)どっちが被告人だ。あなたのほうが被告人だ」

 

「ここは裁判所じゃないでしょう。劇場じゃないかここは」

 

そして、沈黙を始める直前の言葉が

「早く逃げろ。もう危険だから」

この言葉を最後に「廃人化」していったようだ。

 

いずれも「わけのわからない発言」とは言えなくて、それぞれに意味のある言葉だと思うのだが、

とりわけわたしの印象に残った言葉が

 

「ここは裁判所ではないでしょう。劇場じゃないかここは」

 

これ、すごい言葉だと思うんだよね。

わたしは、これは、後世にしっかり伝えれば、歴史に残るようなセリフになるんじゃじゃないだろうか?と思っている。

たとえば、ハムレット

生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」

とか、カエサル

「ブルータスよ、おまえもか」

(言葉自体は)肩を並べるような「セリフ」になるのではないだろうか?

 

演劇などで使ったら、すごいインパクトを与えられるんじゃないだろうか?

 

「ここは裁判所ではない。ここは劇場だ」

英語にしたら

(He said)

“This isn’t a courthous.It’s a 

theater.”

とでもなるのかなあ・・・

英語苦手、のわたしの訳ではたぶん「英語」になっていないと思うので、誰か、この言葉を英語(外国語)の名文句にしてもらえないだろうか?

 

・・・ヒゲを生やした「教祖」が法廷を見回し、両手をあげて天を仰いだあとでこう言うのだ

 

「・・・ここは裁判所なのか? ・・・いや、違う。ここは・・・ここは劇場なのだ。いくつもの茶番劇の演じられた、嘘と偽りと詐術に満ちた狂言綺語の空間なのだ」

 

・・・うーん。劇のシナリオのひとつでも書いてみたい気分だけど、そういう「創作」に関しては、若い頃に一度挫折しているからなあ・・・(笑)

都会の歩道の真ん中で

アゲハチョウが大往生

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仰向け、大の字(?)になって。

 

じつに満足げ、「生きたぞー」って感じ      (に見えた)

死んでも美しいその姿に、しばし感動して見入っていたが、誰かに踏みつけられるとその姿も台無しなので、拾い上げて線路脇の草の陰に置いてあげた。

 

てくてく歩いて行く目的地の近くには、6月14日の日記で触れた、あの植え込み。

さて、あの孤独なアジサイの花

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はどうなった?

 

みごとに「花」として咲ききり、枯れていた\(^^)/

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それぞれ、その「命」を全うした「虫(蝶)」と「花」。

悲しみ、というより尊敬の念が起き、羨ましささえ感じる。

 

「天」から与えられた命=寿命を全うする。

これこそが「命あるもの」すべての目的であり喜びなんだな、と改めて思う。

 

しかし、そんなわたしも部屋に帰ると、最近大量に?買い込んだバナナの匂いに引かれてやってきたらしい小バエに殺虫剤をシュッシュッ・・・

勝手なものだ(笑)

 

「虫」相手にでもそんなことを思ったりするのに、ましてや人間を殺すなど、と思うのだが、それが平気な人というのも、人間の中には存在するらしい。

 

で、また大量処刑の安倍政権と同月13人処刑の上川陽子法相に思いが及ぶ(本当は、思い出すのも考えるのもイヤなんだけどなァ。そういう人たちの事は)。

 

幾多の「冤罪処刑」を行ってきた日本政府という権力の中にあって、死刑制度を支持・維持し、自ら積極的に「囚人」を殺す。

しかも「大量」に。

 

これ、人間を「虫けら」として見ることのできる人にしかできない行為だよねえ。

また、徹底した「差別者」でもあるだろう。

 

まあ、わたしら「ど庶民」も権力者・エリートの彼、彼女らからしたら「虫けら」同然なのだろうから、このかんの(安倍自公政権による)「大量処刑」を見せつけられると、心の平穏が乱される。

 

どうしたら人間はいちおう「同類」である人間を平気で殺せるほどに思い上がることができるのか?

 

超大富豪、独占企業エリート(経営者)、政治家、東京大学法学部閥官僚&OB、エリート公務員、メディア幹部、といった、日本を支配し、カネと権力において、一般民衆とは隔絶した環境にある人たちが、

 

日々の生活に苦しむ庶民を、自分たちと同じ人間とは思えない、ということはたしかにあるだろう。

 

しかし、「蝶」や「花」の「死」にさえ心を動かされるのが人間だ

 

が・・・、むっ、あっ、そうか、日本の支配者さんたちは、「害虫」を殺している感覚なんだな!!

 

たとえば、縊り殺している「死刑囚」はネズミかゴキブリの感覚。

そして、彼らの「富」にまとわりついているような、われわれのような「生産性がない?役立たず?」(=老人、障害者、貧乏人のような弱者)の一般民衆は、「小バエ」のようなものなんだ!

 

そう考えると、「富」と「権力」というものは恐ろしいものだ。

それは人間をどこまでも傲慢にさせる。

それが二代、三代・・・と続いたら、どんな人間が出来上がるか?

 

もっとも、現代はそういう人たちのために作られたような社会であるので、特段の不都合はないのだろう。

(われわれ庶民にとっては恐怖以外の何ものでもないが)

 

あと、「人間を平気で殺せる」ということでは、「宗教」によってもそれが可能になるようだ。

 

近年、日本政府は法務大臣キリスト教徒をあてることが多いようだ。

歴代死刑執行数ベストスリーの、上川氏、鳩山氏、谷垣氏はいずれもキリスト教徒で、他にも処刑法務大臣にはキリスト教徒が何人かいて、

「う、ひでえ」とわたしが思った死刑執行(子ども三人を育てた母親)をやったのはキリスト教系の大学を出た法相だった。

 

キリスト教徒だと日本人を平気で処刑することができる?

異教徒だと殺しても平気?

なんだか「日本人」に対する差別意識さえ感じてしまうほどの政治状況なのだが・・・

 

キリスト教というか、旧約聖書を基本聖典としている「一神教」の宗派(キリスト教イスラム教、ユダヤ教)にはたしかに「シオニズム」あるいは「シオニズム的」なものはあると思う。

 

たとえば、旧約「申命記」にはこんな一節がある

 

→『七つの民を滅ぼせ

 あなたが行って所有する土地に、あなたの神、主があなたを導きいれ、多くの民、すなわちあなたにまさる数と力を持つ七つの民、

~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ 人

をあなたの前から追い払い、あなたの意のままにあしらわさせ、あなたが彼らを撃つときは、彼らを必ず滅ぼしつくさねばならない。

 

彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない。

彼らと縁組をし、あなたの娘をその息子に嫁がせたり、娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない。(もしそんなことをすれば神の怒りにより滅ぼされる)』

 

また、モーセの後継者であるヨシュアについて書かれた「ヨシュア記」にはこんな記述もある

 

→『祭司が角笛を吹き鳴らすと、ヨシュアは民に命じた。

 ときの声をあげよ。

主はあなたたちにこの町を与えられた。

町とその中にあるものは、ことごとく滅ぼしつくして主にささげよ。

金、銀、銅器、鉄器はすべて主にささげる聖なるものであるから、主の宝物倉におさめよ。

角笛が鳴り渡ると、民は一斉にときの声をあげた。

城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。

彼らは、男と女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼしつくした』

 

ヨシュア記を中心に、他にもこういった表現は旧約聖書に多い。

伝わって来るのは「シオニズム」の恐ろしさだ。

 

この「自分たち以外(=異教徒)みなごろし」の考え方が、「終末論」に大きな影響を及ぼしているのは間違いないと思う。

終末において生き残るのは、キリスト教にあってはキリスト教徒のみであり、ユダヤ教ではユダヤ人だけだからだ。

(・・・「ヨハネの黙示録」による終末思想もそう)

 

・・・ちょっと話しが大きくなった。

 

日本での暴虐は、そこまで考えないでも、ただ、(支配者たちの)「おごり高ぶり、傲慢」がおおっぴらに許されるようになった社会状況からきた「差別意識」とそれに伴う、残酷、冷酷な感情、人間性から来ているだけの話だろう。

 

その背景には、われわれ一般民衆からすれば絶望的ともいえる「格差」がある。

これはこの国だけの問題ではなく、「カネ」がすべての価値判断の基準となっているような「宗主国」の影響も大きいだろう。

 

まるで世界が「資本主義シオニズム」に覆われているような状況下で、

日本では、政府が法相にキリスト教徒を任命し、日本人を大量に処刑し続けている・・・

 

正直、われわれ日本人一般民衆にとっては、目の前真っ暗、といった状況なのだ。

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わたしも、もう「生産性」で認められるトシでもないしなあ・・・



 

 

 

猛暑、台風、集中豪雨、天災による多くの人の死、そして

政府による大量処刑。

 

ただでさえ生きるのがしんどい国なのに、今年の夏はその「しんどさ」を増幅させるようなことばかりが連発。 

 

そろそろ8月も終わりだというのに今日も猛暑日

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いいかげんうんざりするが

どうも、このぶんじゃ、秋になってもいいことはありそうにない。

 

いまこの国はさらに悪い方向に落ち込んで行っているように見える。

ほとんどの日本人はただ黙々と憲法をも踏みにじるような強権政府に従うだけ。

 

家畜的民族というのかな?日本人は。

ただただ飼い主(資本家、政府)に従ってその利用に供されるのみ。

理不尽な扱いを受けても抗議することも抵抗することもなく、その反応も家畜そのもの。

 

それでも、動物の家畜なら、進む先に断崖絶壁があったり、暴風や雷が荒れ狂っていたりすると、それを見ないうちから警戒したり、回避行動をとったりすると思うんだけどね。

日本人にはそれもない。

 

そういう人間はいくらでも利用の仕方があるようで、近年では実験用のモルモットとしても使われているらしい。

 

・・・オウム真理教事件にも、そういった「実験」の部分があったようにわたしには思える。

事情の多くを知る人たちが根こそぎ?処刑されてしまった後では、すべてが闇の中。もはや真実を知るすべはないのだが。

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それにしても、法廷闘争ひとつすることなく、ただひたすらに国の行為に従いっておとなしく殺されていった13人。

これもわたしの目から見れば日本的、つまり家畜的な光景に見えるのだが、彼らから言わせれば「仏教的」な態度、ということになるのだろう。

 

1995年の阪神大震災と一連の毒ガス・殺人事件以降、日本が坂道を転げ落ちる速度は倍加したように思う。

「自由」「人権」「平和」「民主主義」「公平」「平等」といった観念が国民から(あからさまに)取り去られていったのも、このときからではないだろうか?

(文明・文化、精神=知・情・意 面における没落も加速化された)

 

うまく「巨大な闇勢力?」に利用されたかのような麻原彰晃氏=オウム真理教だが、なるほど、「闇勢力」に目をつけられるのは仕方がない、というようなことばかりをやっていたように見える。

 

なんといっても、「ノストラダムス」と「ヨハネの黙示録」。

この二つのワードが出てきたら、わたしならその宗教教団から“即行”で逃げる。

 

これ、「われわれはカルトですよ」と言っているに等しいから。

 

仏教理論に精通していたはずの麻原氏、なんでそんなものにとらわれたかねえ?

 

あと、空中浮揚とかも

「もしそれができたからといって、それがどうしたの?」

としか言いようがない。

それが、どうわたしたちの「救済」と結びつくのか?

 

それでわたしたちの病気が治ったり生活上での悩みが解決するなら別だけど。

(けっきょく、人間が宗教を信じる動機というのはそういうことだと思う)

 

ただ、ネットでオウム真理教のビデオを見ると、麻原氏が空中浮揚にこだわったのは「仏教の経典」に書いていたから、ということだったので、それは半分くらい納得がいった。

 

仏教ではこの世界や自分について、とことん「分析」を積み重ねる「修行」をやるようだけど(瞑想、ヨガ等)、これは現代科学にも通じるやり方だろう。

 

そのためか、仏教は現代物理学と親和性があるように見える。

たとえば、最近その存在が証明され、その発見者がノーベル賞を受けた「ヒッグス粒子」だけど、その実在が証明されたことによって、この宇宙には「完全な無」「虚無」である場所などない、と考えられるようになった。

これは、「観念上」ではあるけれど、やはり、この世界には「完全な無」「虚無」など存在しない、という大乗仏教の「空」の考え方との親和性を感じさせる。

 

わたしが宗教やオカルト系以外の本で、「空中浮揚」の文字を見たのはこの「ヒッグス粒子」の解説書が初めてで、

なるほど、ヒッグス粒子というのは他の物質(粒子)に重さを与える「場」だから、そこから「空中浮揚」の可能性を論じることは可能らしい。(ただ体は破裂、バラバラになる?(笑))

 

そのほかにも、不確定性原理は仏教の「無常観」につながるように思えるし、一部の仏教指導者が言うように、仏教というのはなかなか「科学的」なものであるようだ(考え方として)

 

ともあれ、麻原氏が「空中浮揚」にこだわったのは、オカルト的だけではない理由もあったのだろう?けど、今となっては、その真意はわからない。

 

ただ、「ノストラダムス」と「ヨハネの黙示録」。

これだけはどうしても理解ができない(笑)

 

「1999年7の月」の「騒動」にしても、(笑)で終わったし、何より、ノストラダムスの「予言」が当たったといわれているのは、そのほとんどが「後付け」の解釈ではないか?

 

「信じている」人は、たとえば1999年の予言が外れたのは「翻訳者」のせいだ、と言ったりしているらしいけど、そもそも「ノストラダムス」というのはそういった「誤解」と「後付けの“的中”」といった解釈の歴史だったと思うのだけど。

 

ヨハネの黙示録」に至っては、これまで「中った」ものは何一つ無い、といっていいだろう。

ヨハネの黙示録」を読むに際しては、日本人なら田川建三氏の「聖書の「註、解」」を読んでからにしたほうがいい(笑)

 

それでも、自分たちに都合よく解釈した「ノストラダムス」や「ヨハネの黙示録」の「予言」をそのままに「実現」させようとしている人たちがこの世界には多いわけで、

なかんずく、「ヨハネの黙示録」では世界で1億人近い人たちが、その「予言」が一字一句正しい、と信じているのだとか。

 

一説によると日本を実質的にコントロールしているCIAや米軍の一部もそういう人たちの勢力であるらしいので、

もしそれが本当だとすると、かなり恐ろしい。

 

ともあれ、オウム真理教が「ノストラダムス」や「ヨハネの黙示録」をそのまま信じていたのであれば、まさに、そこに「破滅」の原因が潜んでいた、ということになるのだろう。

 

(そういう世界の狂信的なカルト勢力が何を考えているのか?という危険予知的な観点から「ヨハネの黙示録」などを研究するのはアリ、だと思うんだけどね ー (将来的な)日本滅亡の可能性も合わせて)

 

それにしても、暑い

 

いまこの日本で生きている者たちの、眼前の課題

= 人を殺すことを何とも思っていないような、

国民の生命や生活を二の次以下に考えているような、

強権政治を、どうしたら民主主義的な体制に戻せるか?

 

「家畜の国」にあっては、考えることすら空しい?

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考えたら、眠れなくなってしまう・・・



 



 

 

 

8月10日のブログで、「ポア」とは呪殺のことだろうと

書いた。

しかし、これは間違っていたようで、いま読んでいる正木晃・著「性と呪殺の密教」によると、呪殺は「ドル」というらしい。

そして「ドル」は呪殺ではなく「度脱」と訳すようだ。

(なるほどたしかに、悪人を(死なせて)文殊菩薩の浄土に導く、という一種の「慈悲」?である「ドル」を呪殺とするのは適切ではないわけで、適切な「訳」だと思う。)

 

いっぽう「ポワ」のほうは

『「遷移」(せんい)と訳され、自分の意識を風に乗せて体外に出し、目的の本尊と合体させる瞑想法である』

とあり、呪殺とも殺人とも関係のない言葉であるようだ。

 

こうしてみると、オウム真理教事件以後の日本人が、全く誤った意味で「ポア」「ポア」といっているのは問題だろう。

(日本人、全員が「ばか」状態?「殺人」の意味で「ポア」と言っているのは仏教をバカにしているだけではなく、「自分もとてつもないバカ」と言っているに等しい)

f:id:hibi333zakkan:20180820132655p:plain日本人、総バカ状況?ここまでみんないっしょにバカになるのも珍しい?

 

ところで、そういう馬鹿でアホでおろかな日本人を操ろうとしている?人たちは非常にアタマが良いようで、「何を考えているのか?」さっぱりわからない。

 

どうも、そういう「超優秀」なエリートから見ると、日本人はおろかであるとともに、「救い難い」ほどに「醜悪」な者たち、と見えているのかもしれない。

 

たしかに、ある程度生きてきたわたしの経験からも、日本人を「醜悪」と見る人がいても不思議ではない、と思う。

(極端と言っていいほどの「エゴイズム」と、それをあからさまに誤魔化そうとする「偽善」。「強欲」「非倫理性」「非論理性」「「想像力の欠如(=差別性、思いやりの心がない)」「弱い者いじめ」等々)

 

そういう者たちは滅んでもいい?むしろ滅ぶべき?

 

日本が外国のように死刑を廃止できないのも、そういう日本人の「醜悪さ」「邪悪さ」のためかもしれない?

 

そんな、この国にあっても、オウム真理教事件での死刑囚13人の同月一斉処刑は多くの日本人にとってショックだったろう。

 

そう、まさしく、今回の「大量処刑」は日本人そのものに対する、いわば「われわれ」に向けた死刑執行だったと感じられるのだ。

 

今回の大量処刑を行った上川陽子法相はカトリック信者だという。

これで、上川陽子法相は日本人16人を殺した。

 

これは、日本人にはなかなかできることではない。

 

ただ、そういった「処刑」のできる「エリート」が存在しているのも事実だ。

まず、「東京大学卒」。(ほとんどが官僚。官僚OB)

1980年以降、5人以上の人たちを処刑した法務大臣は一人の例外を除いて(一人だけ慶應大学卒)、すべて東京大学卒だ。

(ヘンサチ教育脳についてはまた別の機会に)

 

処刑数のベストスリーを見ると、上川法相16人。故鳩山法相13人。谷垣法相11人、となっていて、とうぜん?全員東京大学卒なのだが、この三人にはもう一つ「共通項」がある。

 

それは、この三人がすべてクリスチャン=キリスト教徒である、ということだ。

 

キリスト教徒といえば、麻生財務相カトリック教徒だということだが、麻生政権の森英介法相(東京大学卒)は短い間に9人を処刑。その中には飯塚事件での冤罪処刑(どさくさにまぎれての、疑惑の処刑)も含まれる。

 

要は、日本の死刑執行は、冤罪であろうがナンであろうが、「日本人を殺す」「この国で死刑を執行する」ことに意義があるようなのだ。

このことは、われわれ「国民」、肝に銘じておかなければならないだろう。

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「日本政府」にとって、日本人(庶民)の「命」は「ゴミ」に等しい、ものなのだ(たぶん「本音」においては)。

 

それにしても、「キリスト教徒」のエリートはなぜ、日本人をいくら殺しても平気なのか?

これはちょっと問題だと思う。

 

今回、上川法相がカトリックだと聞いて、なぜか思い出したのが、過去にあった「西口彰」事件。

西口彰氏というのはカトリック教徒の家庭に生まれ、自身生涯を通じてカトリック教徒だった人で、頭も風采もスマート、「エリート」を装いつつ、詐欺と殺人を繰り返した。

 

何の罪もない「善意?」の人たちを5人殺したところで、ひとりの「少女」に正体を見破られ逮捕された、という劇的な経緯から(もしそこで逮捕されていなかったら、何人殺したかわからないという)、「復讐するはわれにあり」という「聖書」の言葉で小説になり、映画化もされた、という事件だ。

 

多くの人を詐欺にかけ、5人も殺していながら、西口氏本人はまったく反省の色を見せず、つかまったときもニヤニヤ笑っていたそうで、担当した刑事は「人間ではない」と思ったという。

 

どうも、わたしの頭の中で、この西口彰と先の大量処刑法相たちが結びついてしまうのだ。

 

ひょっとして、キリスト教徒としてこの国で生き、生活していると、日本人に対して、何か「許し難い」ものを感じてしまうのではないか?

 

これは、キリスト教徒ではないものの、中学生のときから聖書を読み始め、以来ずっと聖書を折に触れて読んできたわたしも、「半分」くらいはわかるような気がするのだ。

 

現代において、日本人のそういった(悪い方向への)性向はますます強まっているように思える。

そして、社会で追いつめられて凶悪犯罪に走った日本人庶民の死刑囚よりも、彼らをそこまで追い込んだ(世俗的に力のある)日本人のほうがより問題であって、「死刑」で世の中が良くなるわけではないだろう。

 

いまこの国で問題なのも、息を潜めて生きている日本人庶民ではなく、権力と富の上にあぐらをかき、冷酷と不正義と抑圧によって国を支配しているエリート層なのだ。

 

長くなった。

じつは、今日は「チベット仏教」について書くつもりだったのだが、これは次回以降にしよう。

 

チベット仏教」といえば、(チベット仏教に大きな影響を受けた)松本智津夫氏らオウム真理教の主要幹部7人が処刑された7月6日はダライラマ十四世の誕生日だった。

 

ここで一瞬頭をよぎったのは、先の大戦での日本人戦犯のうち、東条英機元首相をはじめとしたA級戦犯7人が処刑されたのが皇太子(現天皇)の誕生日だったということ。

 

いまの「日本政府」が何か?

ということを含めて、興味深い事実ではないだろうか?

 

また、上記死刑執行数ベストスリーの法相を任命したのは、すべて安倍現首相だ。それに次ぐ10人処刑の長勢元法相も第一次安倍政権の法相で、安倍政権の死刑執行数は(戦前も含めた)歴代内閣でも、突出している。

 

書いていると、また長くなってしまう・・・・・

 

ちなみに、死刑執行を忌避して、ネトウヨやネトサポや右翼から攻撃された法相は、すべて仏教徒だ、

ということを書いて、今日はここまでにしておこう。

f:id:hibi333zakkan:20180820151834j:plainいつものCafeで「貸本まんが復刻版」で「墓場鬼太郎」。

ここに、チベットの高僧の出てくるマンガが載っている。

大昔に読んだ記憶があるのだが、いま読むと、また別の意味が読み取れる。

 

‘日本での異質・異様なもの(妖怪・怪物)の支配’を描いたマンガにチベットの僧を登場させた水木しげる氏の先見性というか、予言性?はすごいと思う。

 

・・・暑さが一段落したのは嬉しい。

空には火星?

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なんだか火星も元気がない?(笑)

 

 

 

 

オウム真理教の13名の死刑執行以降

オウム真理教に同情的なことばかり書いてきたので、「お前はオウム真理教のシンパか?」なんていわれそうだが、わたしは「死刑」とそれを平然と行う傲慢な政府に抗議しているだけであって、「宗教」としてのオウム真理教に引かれているわけではない。

 

なにより、真実にフタをしたまま13人も同月に処刑した、明らかに民衆をバカにしている日本政府=安倍政権に対する怒りが、このかんの一連の文章をわたしに書かせている。

 

しかし、絶望と怒りにとらわれているばかりでは血圧が上がり、痛風発作もおきかねないので、ここはひとつ気を休めよう

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台風13号が接近しているということで、きょうは雨。涼しい。

昨日も、とても涼しくて、いつも歩いている線路沿いの道の脇にススキが穂を出しているのを見て、一気に秋の気分

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しかし、この台風が過ぎると、また暑くなるそうだ。

 

前回の日記で、安倍政権の人たちや官僚さんたちには、日本で伝えられているような地獄よりスエデンボルグの地獄のほうが合っているのではないか?というようなことを書いた。

 

たしかに、日本人が古来伝える仏教的な「地獄」のイメージというのは、中国的な官僚制国家の延長というか、反映であり、「往生要集」などで読む「地獄落ち」の理由も現代人のわれわれから見ると、ややずれているように思える。

f:id:hibi333zakkan:20180808160315j:plain地獄での「審判」。上で見ているのは不動明王

 

何より、仏教は権力者に甘い、というか権力者にとって都合のいい宗教、という一面もある。

社会性がない、というのは言いすぎだが、一神教に基づく宗教に比べて社会性が弱い、ことは事実だろう。

 

でもまあ、宗教がある程度大きくなって権力からも認められるようになると、権力と癒着し、民衆を軽んじ(=権力のほうが大事)バカにし始めるのは仏教であろうが、一神教であろうが他の多神教であろうが同じだろう。

 

そこでは「地獄の沙汰もカネ次第」で、権力者や大金持ちのココロを慰め、民衆には安易な信仰を与えて、カネをまきあげる、ということが行われている(民衆の切捨ても)。

 

まあ、宗教もこの世の〔「自分への愛」と「この世への愛」byスエデンボルグ〕に縛られなくては、いまの世の中では存続しえないから、それも仕方のないことなのだろう。

 

社会観も古い。

 

その点、キリスト教徒ながら、18世紀という近代の人で、「実際に霊界とこの世を往来していた」と公言するスエデンボルグの描く「天界と地獄」は面白い。

(現代では「実際に」「あの世」とこの世を行き来していたというスエデンボルグは統合失調症だった、という学者さん?もいるようだが、それはさておいて(笑))

 

スエデンボルグによると、「地獄落ち」の原因は(上に書いたように)まさに「自己への愛」と「この世への愛」にある。

 

「この世への愛」というのは、地位、権力、富といったものだろう。

「自己への愛」はその延長としての「親族への愛」や「取り巻きへの愛」も含まれるだろう。

(それ以外のものに対する憎悪、残酷な感情)

 

東洋的に言えば、(具体性は欠くけど)「執着」と「欲望」というところかな?

 

「天界との均衡」で語られるスエデンボルグの地獄は単純なものではないだろうが、いちおう、「地獄」を語ったスエデンボルグの文章のいくつかをここで書き出しておこう。

わたしが、今の日本の政府関係者や高官さんたちにはスエデンボルグの語る「地獄」のほうが合っている、と考えていることが(少しでも)「もっともだ」と思ってもらえるように(笑)

 

『世で自己愛(自分自身の栄光と名誉)から支配した者たち(権力者)は、世の生命の後では、地獄におり、そこで卑しい奴隷となる。

私は世で自己愛から主権をふるった高官連が最も卑賤な者のあいだにさえ斥(しりぞ)けられ、ある者は排泄物の堆積(たいせき)の中にいる者の間にさえ斥けられるのを見たのである』

 

「排泄物の堆積?」これは日本の古い地獄絵にもあるなあ・・・

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大きなうじ虫が這い回る、糞尿の地獄?

 

『自己への愛から悪にいると同時に心の内部から詐欺(サギ)をたくらんだ者はすべての者の中でも最悪の者である。

なぜなら詐欺は思考と意図の中へさらに深く入って、人間の霊的生命のすべてを破壊するからである。

・・・・

死後こうした性格の人間が他生に入ると、すぐさまその地獄へ投げ込まれる。

こうした魔鬼は、その詐欺と狡知(こうち)を暴露(ばくろ)されると、蝮(マムシ)のように見える』

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『地獄の霊らの中に、いかような邪悪があるかは、彼ら彼女らの凶暴な術策から明らかになるであろう』

 

さらに詳しくはスエデンボルグの「天界と地獄」の地獄篇を読んでくだされ。

 

わたしは、(戦争と抑圧弾圧の)近現代の日本政府関係者、現代の政治家、官僚、資本家(とその手先)、大メディアや、パワハラなんかをやっている人たちを頭に浮かべながら読んでいる(笑)

 

ところで、実際に「地獄」を見たというスエデンボルグさん。

こんなことも書いている

『(地獄に落ちる者は)頭を下に、足を上にして、まっさかさまに投げこまれるかのように見える』

 

地獄に落ちる人は頭が悪の知恵で重くなっているからかな?(笑)

 

こちら、日本の地獄絵

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やはり、みなさん、頭を下にしてまっさかさまに落ちている・・・

 

 

どうも、地獄の責め苦のイメージは西欧もアジアも似通っているようだ

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やはり「地獄」を実際に見た人たちがいたのだろうか?

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