昨日からずっと雨。

長く続く右翼半独裁政権で憂鬱が続いているところに、天気まで悪いとなるとまったく救いようのない気分になってくる。

 

元気なく最近また吸いはじめた煙草をふかしていると、なぜか、昔の忘れていた「ある」光景がまざまざと蘇えってきた。

わたしの脳みそも、こんなときどうしたらいいのだろうと、頭を悩ませているのだろうか???(笑)

 

「なんでだろう?」というような、現状とは無関係なことを思い出させる。

 

思い出したのは、わたしがまだ30歳代の頃、関東北部の公団住宅に3年ほど住んでいたときのことだ。

 

わたしがそこに住んだのは、家賃が安かったから。

そこから都内の職場まで1時間半ほどかけで通勤していた。

 

駅から団地までは歩いて十数分くらいで、それほど広くない一本の道が続いている。

道に沿って片側は小川。水際から道路の際まで雑草が茂っていた。

 

川の反対側は畑も無い殺風景な荒地。それが団地まで続いている。

 

その道の途中に小さな雑貨屋さんがあって、パンなどの食料品や日用品をおいていた。

店のご主人は40代前半くらいでまだ若く、奥さんと中学生くらいの娘さんの三人家族のようだった。

 

当時のわたしは帰宅がいつも夜遅く、その時間には店が閉まっていたので、めったに利用することはなく、いつも通り過ぎるだけだったのだが、

このお店というか、家で飼っている犬がいけなかった。

 

雑種の中型犬なのだが、わたしが通りかかると、必ず吠えやがる(笑)

わたしは犬に吠えられるのが好きではない(たぶん誰でもそうだと思うが)

 

吠えられるたびにわたしは心の中で小さく「くっそ」。

気分の悪いときは犬をにらみつけた。

 

それでも、犬は毎日毎日、わたしが通りかかると必ず吠えた。

吠え続けた(笑)

 

ところがある日の夜、帰宅を急ぐわたしが閉まった店の前を通っても、犬が吠えない。

「あれっ?」と思って立ち止まっていつも犬のいるところを見ると、犬小屋の前に犬はいる。

 

しかし、犬は、犬小屋の横にある店(家)の方を向き、前足を立てて座った姿勢のまま、うなだれていた。

家を見ると、ガラス戸越しに、ふたつのお盆ちょうちんのようなものが立てられていて、そのあいだに壇が設えられ、ご主人の写真がおかれていた。

 

この家のご主人が亡くなったのだ、ということはすぐにわかった。

犬はそのご主人の写真のほうに向いてうなだれていたのだ。

 

いつもの、掛け合いの敵役のようなわたしがうしろで見つめていても、犬は微動だにせず写真のほうに体を向けていた。

 

その姿は、人間が肉親の死を悲しんでいるのと変わらないように見える、

というか

犬の背中からは、それ以上の「悲痛」ともいえる思い?さえ感じられるのだ。

 

わたしはしばらくその様子を見ていたが、犬はずっとそのままだった。

 

その日以来、犬がわたしに向かって吠えることはなくなった。

わたしが通りかかっても、こちらを見ようともせず、気だるそうに地面に寝そべっていることが多かった。

 

それから何週間かすると、犬はいなくなった。

多分、死んだのだろう。

 

空になった?犬小屋はずっとそのままだった。

 

・・・これはすっかり忘れ去っていたことなのだが、なぜ今頃、こんなことがまざまざと思い出されたのだろう?

 

脳の勝手な配慮?

たしかに気分は少し変わった。

 

犬も人間も不思議、

ということで、雨も止んだようなので、これから外出(^^)

 

 

 

なんだかニッポンも世界も資本主義が

ひどく残酷な方向に行っているように思えるので、

 

学生時代に読んだ、マルクスの「ドイツイデオロギー」をン十年ぶりに読んでみようと思った。

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わたしにとって難解至極なマルクスの著作の中で、この「ドイツイデオロギー」と「共産党宣言」と「経哲草稿」だけは理解できたように思っていて、とりわけ、「ドイツイデオロギー」(当時は「ドイデ」と言っていたっけ)はわたしの学生時代の座右の銘のようになっていた・・・

 

はずなのだが、いま、その「ドイツイデオロギー」を読み始めて、驚いた。

さっぱり理解できないのだ。

「ええ???」と思った。

 

わたしの脳みそがしなびてしまったからだろうか?

いやいや、必ずしもそうではないだろう。

学生時代に理解できなかった難解本も、人生の経験を積めば、「なーんだ」というくらいに解ってくる、というのがわたしの経験で、実際、他の哲学書思想書、古典の類は、年齢を重ねるほど、良く理解できるようになっている。

 

しかし、マルクスの著作だけは、そうはならないようなのだ。

学生時代に理解できなかった著作は今でも理解できない。学生時代に理解したつもりになっていたものも、今はわからなくなっている。

いったいわたしは何がわかっていたのだろう?何をわかったつもりになっていたのだろう?

 

そういう意味で、マルクスの著作は今のわたしにとって、苦いものになっている。

 

それでも、その後の人生経験のおかげで、マルクスの著作について一部理解できたことがある。(トシ食ってから「資本論」などを少しかじってみたりしていたので)

それは、

マルクスは「歴史」と「革命」については語っているが、「革命」後の世界については何も語っていない、ということ

つまり、

マルクスは「かくあれかし」という「理想の社会」などまったく「提示」していないのだ。

 

今回、ドイツイデオロギーが理解できなくなっていることで、あわてて、共産党宣言を(これまた学生時代以来ン十年ぶりに)読んで見た。

こちらはマニフェストとして、タイヘンわかり易く書かれているので、ドイデみたいなことはなかったが、ただ、理解の内容はまったく違った。

 

学生時代は「来るべき素晴らしき世界」を示しているように思っていた(思い込んでいた)「共産党宣言」だが、こちらも、「革命」のためのマニフェストであって、革命後の世界のマニフェストではないのだ。

 

どうも、わたしの学生時代のマルクスの読み方は間違っていた、というか、誤解して読んでいたようなのだ。

理解したように思っていて、実はまったく理解できていなかった!

 

わたし程度のアタマでは、ほんとうにマルクスは難しい・・・

 

そして、学生時代のわたしがやっていたもうひとつの間違いは、

聖書に書かれていることが一言一句正しいと信じるキリスト教福音派の人たちのように、マルクスの著作を一言一句すべて正しい、と思い込んでいたこと。(思い込まされていたこと)

それを「武器」に「論争相手」を屈服させようとしていたこと。(ザンゲザンゲ・・・ゴメンナサイ)

 

マルクスにだっておかしなところはいくつかあるのだ。

 

なんて書いたら、「反動だ」「修正主義だ」なんて言う人が今でもいるのかもしれない。

しかし、ニッポンの偉い経済学者さん(下記の宇野弘蔵さん)も言っているとおり、「修正主義」なんて言葉があること自体、おかしいのだ。

 

だいたい、「マルクス主義」って何なのよ?って話。

 

ハイデガー

マルクスは歴史を書いているだけなのだ」

と言ったが、この見方が最も的を射ているように思われる。

実際、そうなのだ。

 

マルクスは「歴史」を書くことによって「資本主義」がいかなるものであるかを明らかにした。

そして、当時の歴史の最終形態であった「資本主義」が「革命」によって滅ぼされるべきものであることまで見通した。

 

しかし、マルクスが語ったのはそこまでなのだ。

たとえば、

私たちを縛り苦しめている資本主義という「縄」がある。

マルクスはその「縄」がどのような由来で出来、どのような性質でわたしたちを苦しめているか?

マルクスはその「縄」の正体を暴き、その縄を断ち切ってわれわれが「縄」から解放されるべきことまでを語る。

 

しかし、「縄」から開放されたわれわれがどのような社会を作るべきか、は言っていないのだ。

「矛盾の解消」と「資本主義からの開放」。

とりあえずそれでオーケー?

それで「理想の」社会が到来する、というのは、(わたしの経験に基づくアタマでは)やはり「おかしい」と思う。

 

はたして来るべき社会の具体像をしっかりと示していないものが「マルクス主義」と言えるのかどうか?

 

マルクスが、べつに自分が作ったり主導したわけでもない「マルクス主義の運動」なるものに対して、

「あんなものをマルクス主義というのなら、私はマルクス主義者ではない」

と言ったというのは、重要なことだと思うのだが、それが取り上げられることはほとんど無い。

 

その、マルクスが否定した「マルクス主義」「マルクス主義の運動」がその後の「マルクス主義」の主流になってしまったというのが、ほんとうのところではないだろうか?

 

ただ、マルクスの著作にも「?」という面がいくつかあって、それが現代において、マルクスが○○○の陰謀の一味、などとグローバル資本家の手先のようにいわれることにつながっているように思う。

(このことについては、後日また)

 

とまあ、わたしのプアなアタマではこの程度のマルクス理解がやっとで、これ以上の「進歩」も期待薄。

わたしは死ぬまでマルクスを理解した「マルクス主義者」にはなれないだろうと思う。

 

それでも、わたしの学生時代に「世界先進国同時革命」なんていうことが主張されていて、わたしは「なんてアホなことを言ってんだろ」くらいにしか思わなかったのだが、現代のグローバリズムを見ていて、その意味がやっと理解できた。

(革命は先進国で同時的に起きる。そうしなければいけない。というのは、今の世界ではリアルに理解できる)

 

インターナショナリズムにしても、リビアやべネズエラを見ていると、「万国の人民の結束」が必要なことがよくわかる。

(小さな国が人民のための体制作りをしようとしても、グローバル資本家に(世界規模の圧力、攻撃で)潰されてしまう。ソ連がしばらく一国社会主義でやれたのは、それなりに強力な大国だったからだろう)

 

あと、現代を支配するグローバル資本家はマルサス人口論の信奉者のようで、人口削減ということに熱心なようだけど、(ニッポンの政・財・官もね)

 

(じつはわたしはマルクスも19世紀の人ということで、マルサスのような考えを持っていると思い込んでいたのだが)

 

宇野弘蔵さんの「資本論に学ぶ」を読むと、マルクスはとうに、マルサス人口論など越えていたようなのだ。

宇野弘蔵さんは

マルサス人口論なんかいうのはいい加減なもので、ネズミの繁殖率を計算したような人口論なのです」~

マルサスの「人口論」を論破、一蹴したうえで、

マルクスにも人口論があって、これこそがほんとうに人口論なのです。マルクスのは資本主義に特有な人口法則なのです」

と、(資本主義が)生産能力を上げながら、相対的過剰人口を作る、「つまり、生産能力が上がると、資本に対して人口が相対的に過剰になるような傾向を持っている」ということをマルクスが明らかにした、

と書かれている。

 

(つまり、「過剰人口」(余分な人間???)を発生させるのは資本主義の特性であって、人間が人間を産むからではない、ということだ。

 

詳しくは宇野弘蔵さんのこの本「資本論に学ぶ」(ちくま学芸文庫)で)

 

宇野さんは

「この人口法則を発見したマルクスは、とてもうれしかったのではないかと思うのです」

と書いているが、グローバリズムと日本政府・財界による人工削減政策に恐怖感を抱いているわたしもうれしい(涙・笑)

 

まさに、マルクスが見通していたのは現代のグローバリズム資本主義。

しかし、マルクス以後の「歴史」をマルクスがやったように対象化し、分析しきれていなかったことが、現代の「左翼」の低迷につながっているのだと思う。

 

「旧態依然」の運動ではダメなのだ。

 

それに、いくら偉大と言っても、マルクスは昔の人、「19世紀の科学」の時代の人だ。

西郷隆盛が十歳の子どもだったとき、二十歳の成人だった人だ。

 

ひとにぎりのグローバル大資本家が99%の世界人類を殺せる大量破壊兵器を手にしている現代、99%の人類はどうすればいいのか?

 

マルクスを越えるマルクスのような偉大な才能の持ち主(思想家)と、偉大な人民の指導者(政治家あるいは革命家)、人民の救済者が現れるよう祈っている。

 

 

いつものカフェ地下でDAYS JAPANの9月号を

読む。

知り合いから借りてきたものだが、いい内容。

f:id:hibi333zakkan:20180924223328j:plain どの記事もよかったが、とりわけ印象に残ったのは、『「大逆事件」と高木顕明 - 国家権力による思想弾圧の歴史』と『人間の支配 動物工場・消える大地』だ。

 

高木顕明というのは、大逆事件で逮捕され、獄中で自殺した真宗大谷派の僧侶。

 

大逆事件」というと、どうしてもわたしは今回の「オウム真理教事件」での大量処刑と重ね合わせてしまう。

 

丸木俊・位里夫妻・作の画、「大逆事件」の写真をさらに転写させてもらって保存(スミマセン)

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12人処刑の大逆事件は今日、冤罪であったことが明白になっているのに、この現代で13人の処刑をやった、安倍自公政権というのは、わたしにはとてもまともな人の集まりとは思えない。

 

大逆事件での大量処刑は、やはり長州閥桂太郎内閣。

桂太郎首相は、アメリカの鉄道王・ハリマンとの南満州鉄道に関する「契約」で、日米戦争の遠因を作ったが、この桂太郎首相と安倍首相は、明治末期と平成末期での相似形。

同じようなものが、また現れた、という感じだ。

 

ところで、麻原氏の宗教をまだ信じている人たちがいるなら、いい画家さんを見つけて、上記の丸木夫妻の描いた絵ようなスピリッツある、「13人処刑の図」を描いてもらったらどうだろうか?

将来に向けて、けっこう意義ある絵画になると思う。

 

「人間の支配 動物工場」のほうは、とにかく、写真が衝撃的。

「タイの鶏(ニワトリ)加工工場」「アメリカの乳製品製造工場の雌牛」「ラテンアメリカ最大の養鶏場でのケージ飼いの鶏」「ブラジルの大規模養豚場」等々、

 

動物たちはいずれも、「生命」というより、「物」としか見えない。「悲惨」「残酷」といった想像力の入る余地さえなくしてしまう?まさに「工場」。

 

これらの「家畜」の運命が、未来の「人間」の運命でない、とはいいきれない。

「資本家の支配 人間工場」

 

現代において、(自民党議員による「生産性」発言など)その「兆候」はすでに現れてきているような気がするのだが?

 

「DAYS JAPAN」、なかなかのクォリティで、定期購読すべきなのだが・・・やっぱりこれからも(定期購読している)知人から借りるようにしよ

(節約・工夫しなければ生きていけない低年金プア~(いつまで生かしておいてもらえるかワカラナイ?)だかんね(^^;))

 

知人といえば、われわれが時々会ってワイワイやっている

『おっさんやじいさんが過激に語り合うブログ』

も見てください ヽ(^皿^)ノ

 

 

 



政治状況が悪いので、私も体調が

悪い!

 

そういうことがあるのかどうか知らないけど(笑)、とにかくこのところ体調がすぐれない。

 

わたしの場合、「太りすぎ」ということもあるのだろう。

それでなくとも、やや太り気味だったところに加えて、やたら「食欲」が増進。

「食べる量を抑えなくては」と思いつつ、我慢できず、食欲の要求どおりに食べ続けてしまった。

おかげで、体重は、これまでの最高を記録している。

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体重が増えると、体調が悪くなるだけでなく、運も悪くなる、というのがわたしのこれまでの経験なので、

なんとかしなければ、ということで、断食を考えているのだが、これも、「食」への未練のほうが勝っているために、「あさってから」「後三日したら」などと、ずっと先延ばしし続けて、一ヶ月以上が経過。(ナサケナ)

 

30代の後半に、思うところあって35日間断食(固形物を一切食べないという断食)をしたことがあるのだが、その頃とは雲泥の差の精神状態だ。

 

老齢になると、人は子どもに返っていくというが、「明日」「明日」と、やるべきことを先延ばしにしていたら、ふと、小学校時代の夏休みのことを思い出してしまった。

 

小学生時代の夏休み。

夏休みの宿題に、わたしはぎりぎりまで手をつけなかった。

「やらない」と決めていたわけではない。

「明日からやろう」と思いつつ、毎日、遊びが優先で、ずるずると、夏休みの終わりまでその状態が続いた、というだけのこと?だったのだ。

 

おかげで、夏休み最後の2~3日は、現代のブラック企業で働く人なみの状態になった。

小学生時代は、毎年そうだった。

中学に入って、少し改まって、以後はまあまあ意志も強くなっていたのだが、ここに来てまただらしなくなっているのかもしれない。

 

トシをとって、子どもに帰っている?

ハアァ???

ま、まだそんな年齢じゃない~~~~~~~~~~!!!!!(^□^;)

 

ともあれ、どこかで思い切って3日断食から始めなくては・・・

(でも断食って、それなりにタイヘンなんだよなあ・・・ ←なかなか決心がつかない)

 

わたしはそういう状態だけど、

世の中を見れば、「欲望」のままに際限なく太り続けて、自分の状態には無自覚でいながら、人々を不調に追いやっているものもある。

 

自分(たち)は「不調」を感じることもなく、やりたい放題で「超肥満体」になっている、いまの自民党。安倍自公政権・・・

 

自民党が太り続けて「超肥満体」になっていることは、国民、ひいては日本という国にとってもいいことではないと思うんだよなあ。(実際、そうなっている)

おととい安倍首相が自民党総裁として再選され、さらに「超肥満体」路線の長期独裁体制が続くのだとか。

 

わたしは、わたしの身体以上に、自民党のダイエットが必要だと思っている。

しかし、自民党は絶対に自分からダイエットしようとはしないだろうから、これは、国民がダイエットしてあげるしかない。

 

自民党のダイエットは、この国、国民にとって、いま喫緊の課題だろう。

自民党が「超肥満」のままだと、自民党だけではなく、国や国民までも「死ぬ」恐れがあるのではないだろうか?(笑)突然死の可能性も含めて(怖)

 

自民党にエサ(食べ物)をこれ以上与えてはいけない。自民党に投票してはいけない》

 

国もわたしたちも、元気で幸運でいたいものです。

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(追:自民党の超肥満体路線を続けさせている公明党という食物(票)提供政党も、ちょっと悪魔的だと思いません?←「もっと食え、もっと食え」)



 

 

 

 

 

9月11日の日記の

冷たく見えたコンビニの若い店員さん。

 

あれ、「ひと声」かけることで、まったくイメージが違ってくるんだよなあ。

 

「あっ、大丈夫ですか?もうすぐ店の者が来ますので」

 

その一言をかけることで、自分のポジションをそのまま維持しながら、こちらにも配慮してくれたことになる。

 

それが「完全無視」で一言も無い、となると、やはりこちらとしては「え~?」

お店の印象が違ってくる。

 

まあ、よほど虫の居所が悪かったのか、心の余裕がなかったのか?

どちらかだろう。

 

彼によらず、近年、心の余裕のない人が増えてきた。

経済界や政府が、ぎりぎりまで国民を追いつめてこき使っている現状では、それは仕方のないことなのだけど。

 

心、気持ちの余裕というのは、人間にとって大切なものだと思うんだけどね。

 

東アジアでは儒教に基づく「仁義礼智信」ということが昔は言われていたんだけど、これらはいずれも心に余裕がないと持てないものだ。

 

それが持てていないのは、孔子さんも言っていたように

「衣食足りて礼節を知る」

ということになっていない・・・

 

つまり、生活に余裕が無いからだろう。

これは、「奴隷労働」からは生まれない。

企業利益第一主義の日本社会、労働環境、においては、そういった「礼節」「仁」の世界からは遠ざかる一方だ。

 

「人間として」、心充実した人生を送るには現代の環境はあまりにも厳しい。

 

では、「礼節」や「仁」を実現できる、人間的な社会を作っていくにはどうしたらいいか?

 

革命!リボリューションしかないんじゃないだろうか?(笑)

 

それはともかく(笑)、なんだかここ数日で一気に涼しくなった。

あまりにも酷い政治を見せつけられたこの夏だったけど、少し、楽しかったことなどを思い出して、この夏を見送ろう(「夏」には責任はないからね)

 

うーん(笑)・・・

 

そうそう、8月の後半、最高気温35度の暑い日の昼過ぎに、弁当を買って、入場料150円の某「庭園」に行ったっけ。

 

“こんな日の日中では、あまり来園者はいないだろう”と踏んで、「静かな」気分にひたるために行ったのだが。

 

期待以上!

なんと、庭園内、人っ子一人いない。

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(^ェ^)

歩いても、誰一人会わない。いない

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どこまで行っても、誰もいない

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ということで!

 

この昔の大金持ちさんが作ったという「名園」を独り占めして

f:id:hibi333zakkan:20180914014022j:plain 休憩所で、足を思いっきり広げて座り、王様になった気分で、380円の弁当を食す・・・と。(^^)

食後には、園内の自動販売機で買った120円の冷たい缶コーヒー。

 

いやー、これ、最高のゼイタク、といっていいんじゃないかなあ。

(いまだけ)すべて自分のものー。

ふんぞり返って庭園を眺めていても、誰も「ヘンな人」だとは思わない、というか「誰も」いない(笑い)

f:id:hibi333zakkan:20180914022605j:plain ひとり夏空を見上げたり

 

小さな秋を見つけてほんのりした気分に浸っていると

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小さな悩みなんて吹っ飛んでしまう。

 

こういう経験って、できるようでできないんじゃないかなあ。

田舎でひとり裏山に登れば、これに近い気分は味わえるかもしれないけど、なんといったって、東京の有名な「庭園」だもの。

入場料150円。そこをひとり占め?

 

この夏、とっておき、最高のゼイタクだった、と言える。

 

重苦しい政治状況だけど、ネガティブな気分ばかりに捕われていてはね、

 

たまには、いやなことをすっぱり忘れて、頭を空っぽにしてリフレッシュするのもいい。

 

工夫をすれば、お金をあまりかけずにストレスを解消することのできる場所、施設が、この国(東京)にはけっこうある。

 

そういう点は、日本はとてもいい国だと思う。

安全だしね。

 

「いいもの」はしっかり守っていきたいけど、現代は、そういった「いいもの」「良い点」の多くが無くなる危機のときでもあるだろう。

 

行き過ぎた民営化で、庶民が負担無く(少なく)楽しめるものが消えていかないよう、そこでも「市民」が踏んばらないとね。



午後から雨の降り続いた昨日の

夕方、

サンダル履きで某コンビニに行ったのだが、その入り口ですべって尻もちをついてしまった。

 

ふつうならすぐに立ち上がるのだが、このあいだから右ヒザを痛めていて湿布薬を貼っている状態だったため、すべった際、右ヒザをかばって、右足は腰から下がほぼ真後ろ?に。ヒザは太ももにくっつくように曲がっている。

そしてすべった左足はまっすぐ前に伸びている、

という状態。

 

180度開脚とは言わないが、両足の角度は相当なもの。

 

一瞬、股関節脱臼?したか?と、ショックで呆然としていた。

 

ふと、コンビニのカウンターを見ると、30歳くらいの若い男性店員がひとり。

一瞬目が合ったが、

え?

その店員さん、何も見ていないかのようにまったく無表情。なんら行動を起こす様子も無くふつうに?立っていて、お客が来れば、やはりふつうに応対している。

ただそれだけ。

 

わたしのほうは、とにかく右ヒザを痛めている上に、そんな姿勢なものだから、尻もちをついたままどうすることもできない。

 

しばらくすると、太った別の店員さんが来て、わたしの片腕をとって立ち上がらせようとするのだが、結構重いわたしのこと、身体はビクともしない(悲)

 

そこに、店内にいた80歳くらい?のおばあちゃんがやってきて、店員さんに

「そんなことをしてもだめだよ。体の後ろに回って両手で・・・」

とテキパキと指示。

おばあちゃんの言うとおりに店員さんがすると、あら不思議。

スッと立ち上がれた。

 

一瞬腰に痛みを感じたが、どうやら股関節は無事な様子。

 

呆然と立ちすくむわたしに、おばあちゃんは

「ダメだよ。雨の日にサンダルなんか履いてちゃ。こういう靴でないとね」

といって、自分が履いていた運動靴の裏を見せてくれると、

スタスタと立ち去って行った。

 

いやあ、素晴らしいおばあちゃんだった。

日本のお年寄りはたいしたもんだ、と感心、感謝。

 

立ち上がりをサポートしてくれた店員さんも去って、

カウンターの中の、あの若い店員さんを見ると、それまでとは表情が違う。

わたしが立ち上がれないうちは、冷淡というか無関心というか、とにかくまったく心が無いかのような無表情だった店員さんだが、

それが、立ち上がったあとは「人間を見る目」に変わっている?

 

ただし、ふつうのお客に対する態度、といった感じだけど。

 

そのまま、回れ右をしてコンビニ店を出てしまったけど、

あのおばあちゃんの人間力?もさることながら、

最も強く印象に残ったのは、その店員さんの、心が全く無いかのような表情。

 

「困った奴だ」

という気持ちがあったのかも知れないが、

しかし、目の前で尻餅をついて難儀している人間を見て、まったく無表情、無関心?でいられるかなあ???

少なくとも、わたしの学生時代頃には、そういうタイプの人間はいなかったと思うのだが?

ちょっとプチ・トラウマになるような経験だった。

 

しかし、若者や子どもにしかできないような大開脚を「突発的」にやってまったく無事だった、というのは自信になった^^

まだまだ関節が柔らかいんだなあ♪って

 

それでも、もう尻もちをついたり転んだりしないようにしなければ。

今回も下手をすればどうなっていたかわからない。

 

それにしてもそれにしても、

最近の若者の「心」の状況はどうなっているのだろうか?

と、考えさせられた一事ではあったなあ。

 

ちょっと痛みが出ている腰よりも、そっちのほうが不安

                            

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午後から雨の降り続いた昨日の

夕方、

サンダル履きで某コンビニに行ったのだが、その入り口ですべって尻もちをついてしまった。

 

ふつうならすぐに立ち上がるのだが、このあいだから右ヒザを痛めていて湿布薬を貼っている状態だったため、すべった際、右ヒザをかばって、右足は腰から下がほぼ真後ろ?に。ヒザは太ももにくっつくように曲がっている。

そしてすべった左足はまっすぐ前に伸びている。

 

180度開脚とは言わないが、両足の角度は相当なもの。

 

一瞬、股関節脱臼?したか?と、ショックで呆然としていた。

 

ふと、コンビニのカウンターを見ると、30歳くらいの若い男性店員がひとり。

一瞬目が合ったが、

え?

その店員さん、何も見ていないかのようにまったく無表情。なんら行動を起こす様子も無くふつうに?立っていて、お客が来れば、やはりふつうに応対している。

ただそれだけ。

 

わたしのほうは、とにかく右ヒザを痛めている上に、そんな姿勢なものだから、尻もちをついたままどうすることもできない。

 

しばらくすると、太った別の店員さんが来て、わたしの片腕をとって立ち上がらせようとするのだが、結構重いわたしのこと、身体はビクともしない(悲)

 

そこに、店内にいた80歳くらい?のおばあちゃんがやってきて、店員さんに

「そんなことをしてもだめだよ。体の後ろに回って両手で・・・」

とテキパキと指示。

おばあちゃんの言うとおりに店員さんがすると、あら不思議。

スッと立ち上がれた。

 

一瞬腰に痛みを感じたが、どうやら股関節は無事な様子。

 

呆然と立ちすくむわたしに、おばあちゃんは

「ダメだよ。雨の日にサンダルなんか履いてちゃ。こういう靴でないとね」

といって、自分が履いていた運動靴の裏を見せてくれると、

スタスタと立ち去って行った。

 

いやあ、素晴らしいおばあちゃんだった。

日本のお年寄りはたいしたもんだ、と感心、感謝。

 

立ち上がりをサポートしてくれた店員さんも去って、

カウンターの中の、あの若い店員さんを見ると、それまでとは表情が違う。

わたしが立ち上がれないうちは、冷淡というか無関心というか、とにかくまったく心が無いかのような無表情だった店員さんだが、

それが、立ち上がったあとは「人間を見る目」に変わっている?

 

ただし、ふつうのお客に対する態度、といった感じだけど。

 

そのまま、回れ右をしてコンビニ店を出てしまったけど、

あのおばあちゃんの人間力?もさることながら、

最も強く印象に残ったのは、その店員さんの、心が全く無いかのような表情。

 

「困った奴だ」

という気持ちがあったのかも知れないが、

しかし、目の前で尻餅をついて難儀している人間を見て、まったく無表情、無関心?でいられるかなあ???

少なくとも、わたしの学生時代頃には、そういうタイプの人間はいなかったと思うのだが?

ちょっとプチ・トラウマになるような経験だった。

 

しかし、若者や子どもにしかできないような大開脚を「突発的」にやってまったく無事だった、というのは自信になった^^

まだまだ関節が柔らかいんだなあ♪って

 

それでも、もう尻もちをついたり転んだりしないようにしなければ。

今回も下手をすればどうなっていたかわからない。

 

それにしてもそれにしても、

最近の若者の「心」の状況はどうなっているのだろうか?

と、考えさせられた一事ではあったなあ。

 

ちょっと痛みが出ている腰よりも、そっちのほうが不安

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