昨日の日曜日に

図書館に行く途中、近くの公園に寄った。

公園では小学校低学年くらいの子どもを中心に、多くの子どもたちが活発に遊んでいた。

子どもたちの交わしあっている会話をそれとなく聞いていると、ほとんどがアニメや漫画をもとにしたものだ。遊びもアニメ世界の「戦い?」やスポーツものに影響されたもののようだ。そのあいだに「サザエさん」の話題が出てきたりしている。

 

昔もいまも、子どもたちはそういった物語りの世界にどっぷり浸かっている。

 

その光景を見ながら、わたしはバッグの中から袋に入った玄米を取り出した。

 

じつは、先週、散歩の途中にこの公園で休んだ際、目の前を歩き回る何羽かの鳩が気になったからだ。

「木々が葉を落とし、餌となるものも身あたらないこの時期は、鳩も生きるのが大変だろうなあ」

なんてことを思ったからだ。

 

わたしはベンチの前を行ったりきたりしていた一羽の鳩に数粒の玄米を投げてやった。

たちまち数羽の鳩が集まる。

わたしは鳩たちが食べるのを確認しながら、数粒づつ、玄米をなげてやる。一気にやらないのは食べ残しを心配するのと、わたしの「楽しみ(あるいは喜び)」を長引かせるためだ。

 

生きものにエサをやるのは楽しい。

 

と、夢中でエサやりをやっていると、‘異様な雰囲気’。

鳩たちから目を離して顔を上げると、近くにいたすべての?!子どもたちがこちらを見ている。

しかもその視線は、鳩ではない。わたしだ!

 

子どもたちの「目」はこう語っている。「いけないおじさんだ」「してはいけないことをしている」「これがテレビや(自分たちの周りの)大人たちがいっている‘悪い人’なんだ」???!!!

そう、「ブキミなもの」「異質なもの」を見るような、子どもたちの子どもなりの非難の「目」。

 

いや、さすがにあせった。長く生きてきたが、こういう、子どもたちの「非難」の目線にさらされたのははじめてだった。

「異質なものがいる」「いてはいけないものがいる」。まさにそんな雰囲気が公園に生じているように思えた。

背中が冷たくなった。まるでSFの悪夢の世界にいるようないたたまれない気持ち。

 

母親たちはわたしを見ないように?全員が!わたしに背を向けている!

 

やがて、小学校にもまだ行ってないくらいの幼い男の子がわたしの近くにやってきた。

「おじさん、何をしているの?・・・」

そのあとは、まだ言葉が不自由なのだろう。意味不明だが、わたしが「悪いこと」をしていることに対して、子どもなりの「抗議」をしたいかのようだった。‘不満’の表情。子どもなりの「正義感」が傷つけられた、ということなのだろう。

 

さすがにちょっと「イラッ」として、わたしは答えた

「おじさんたちの子どものころはね、よくこうしてハトにエサをやっていたものだよ」

そして、つい、大人気ないことを言ってしまった

・・・「いまの子どもたちとは違ってね」

 

わたしの少し「ムッ」とした気分が伝わったのだろう。子どもたちは全員移動し、

わたしの近くからいなくなってしまった。

 

わたしもちょっといたたまれない気持ちになって、そそくさと公園をあとにしたが、正直、少なからぬショックを受けていた。

 

子どもたちが悪くないのはわかっていた。

こどもたちはまさに「今の社会」の反映であり、この「社会」の、社会意識と社会の規範に従って「育って」いるだけのことなのだ。

その、子どもたちを包摂する今の日本社会において、わたしの「行為」は規範を逸脱するものであり、いわゆる「反社会的行為」となるのだ。

 

「他の生命に対する共感は?」「人間の想像力とは?」などと問うても、いまの日本の社会規範、(社会意識の中心となっている)若者世代(母親たち)の社会意識がそうである以上、わたしの問いは無為なのだ。

 

「まあ、これからどんな社会が来るのやら・・・」

これからの社会を実現していくのは子どもたちであり、その親の世代なのだ。

 

「それでもまあ、わたしが生きている間は、わたしが考えているような「人間性」「やさしさ」「思いやりの気持ち」はそれなりに存在しているだろう」

 

と、まあ、個人的にはそう悲観することもない、と思い直して気分は平静になったが、

 

・・・それにしても、あの「こどもたちの目」「公園の雰囲気」「かつてない孤立感」は恐ろしかったなあ・・・

いつか「夢(悪夢)」に出てきそう