本日は、とりあえず近くの図書館で

新聞各紙に目を通して

f:id:hibi333zakkan:20180401230237j:plain(しかしこれ、悲しい記事だなあ・・・解散迫れぬ野党・森友で攻勢も支持低迷・準備不足否めず・・・日経)

から、電車で巣鴨へ。

 

目的は、“膀胱に刺さった?トゲを抜いてもらうため、  って、ほんとうは気分転換なんだけど。わたしくらいのトシになると、都内では巣鴨がいちばん落ち着ける。

膀胱の症状はほとんどなくなっている。

f:id:hibi333zakkan:20180401231408j:plain途中の通りで、尺八を演奏している青年を見た。とてもいい音色を出していると思ったのだが、立ち止まる人は少ない。

いまのじいさんばあさんは、もはや、尺八と言われてもピンとこない世代なのだろう。グループサウンズ世代が70歳を越えている時代だものねえ。  ちなみに手前のおじさんはわたしではない(笑)

f:id:hibi333zakkan:20180401232346j:plainスマホのような機会を操作している女性の前にうずくまる盲導犬

わたしのようなロクデナシよりは、はるかに立派だ。

 

暖かな日曜日ということもあってか、今日の巣鴨は盲目の人や車椅子に乗った身障者の人が多かった。障害を抱えた人たちが違和感なく溶け込めている、というのは巣鴨のいいところだろう。

 

高齢化が悪い悪い、などという前に、高齢化すればしたなりの「よりよい社会」を目指していこうとするのが、「人間的な思考」じゃないか?

と思うのだが、安倍自民党政権や官僚の皆さまの考え方は、それとは逆方向のようだ。

 

しかし、盲目の人たちの「カン」には驚かされる。

通りで、白い杖をついた盲人同士が、かなりの速さで互いに正面から歩いてきて、衝突するか?と思った瞬間、(杖も触れないのに)互いに左右反対の方向に素早く体をかわしてすれ違っていた。

 

人間には潜在能力が相当あるんじゃないか?そんなことを思わされた一瞬だった。

 

人間、ぎりぎりいっぱい、限界だ、と思っても、それは限界ではない。人間には自分でも気のつかない、大きなものが眠っていて、それは「必要になれば」出現してくるものなのだろう。

 

年齢を重ねれば重ねるほど、自分が不思議なものに思えてくるし、自分の人生の邪魔をしていたのが自分自身の浅はかな思考だった、ということもわかってくる。(自分の本来の能力を“抑圧”“誤誘導”している)

 

そういう意味でも、相模原の障がい者大量殺人は罪深い行為だったと思う。「浅はかな思考」で人を殺すなど、もってのほかだ!

 

しかし、現在の日本は、その「浅はか」な方向へと一直線に進んでいる。

そして、それを推し進めるのは「カネ」、持てるものたちのさらなる「欲望」。

“一面”ばかりを肥大化させた人間、社会。ほんとうの他者(人間)を見失った、不毛の人間関係 = 差別と格差の社会。

 

人間が愛情のはけ口をペットに求めるのも、よくわかる。

 

とげ抜き地蔵さん=高岩寺に到着して、境内のベンチに腰をおろすと、昨日の夢のことでいろいろな想念が頭を駆け巡った。

 

たぶん、わたしは「一昨日の男」とかなりのことを語り合っていた。

 

暖かな日差しの下、小一時間ほど、ぼんやりとベンチに座っていて、帰途に着く。

 

けっきょく、手を合わせての参拝はしなかった。

なぜか、気が進まなかった。

 

f:id:hibi333zakkan:20180402010247p:plainなんだかなあ・・・。