見えてきた。
そろそろこんにゃくを見るのもいやになってきそう(笑)
それにしても気持ちの晴れない日々が続く。
日本の低劣なウヨ状況もだが、
地面に叩きつけられたような気持ちにさせられたのがパレスチナでのイスラエル軍によるデモ隊への実弾発砲事件。
14日と15日のデモだけでも61人が殺されたらしい。
いったい、丸腰のデモ隊に、れっきとした国家の軍隊が実弾を発砲して射殺するということなど、あっていいものだろうか?
もうひとつショックだったのは、ドローンによる群集への毒ガス(催涙ガス)カートリッジの投下。
いまは催涙ガスだが(それでも子どもが死亡したらしい)、致死性のガスだったらどうなる?
まさに、国家が丸腰の市民、民衆を攻撃している姿そのものではないか?
ふと、改憲後の将来の日本の姿をも垣間見る気がしたものだ。
ターゲットは市民、一般民衆。
このようなドローンを日本はイスラエルと共同開発しているらしい。
この一連のニュースで唯一の救いはイスラエルの市民がイスラエル軍によるパレスチナ人デモ隊への発砲に対して、道路を封鎖して抗議した、ということだろう。
99%に属する世界の市民、人民は団結して、人民に対する「支配者」の横暴に抗議しなくてはいけない。
あと、もはや「武器」「殺戮兵器」では人民は支配者層に対して対抗することはできないのだから、投石や火炎瓶など、原始的な手段での抵抗はやめ、非暴力の抗議活動に徹するべきだろう。
中途半端な暴力的抵抗は「支配者」側の思うツボだ。彼らに弾圧の口実を与えるだけだ。
暴力による抵抗はまた、非力な仲間、味方をも危険にさらす。
仲間を死なせたり傷つけさせたりしてはてはダメなのだ。仲間を不利な状況に追い込まないようにしなければならない。
「暴虐者」に抵抗するのは、あくまで自分と仲間、自分と同じ側に立つ人民の生命と生活を守るため。
味方の生命や生活を壊して平気なものは抗議運動をする資格がない、とわたしは思う。
暴力よりも知恵と団結で「暴虐支配者」と戦おう。
それにしても不可解なのはアメリカとイスラエルの行動。
なぜパレスチナ人に対して、そこまで強硬な姿勢をとることができるのか?
「宗教」の影響をいう人が多い。
アメリカのイスラエルへの肩入れはアメリカで大きな勢力を持つキリスト教原理主義の影響だとか、イスラエルのシオニズムだとか。
とくに、危険といわれているのはアメリカだけで8千万人以上いるといわれるキリスト教原理主義者で、彼らは、聖書に書かれていることは一言一句正しいと主張しているらしい。
わたしは、福音書や使徒行伝などを一言一句正しいと考えているくらいなら、それほど問題ではないと思うのだが、彼らがとくに重視しているのは「ヨハネの黙示録」だという。
以前、この日記でもこのことに触れて、「ヨハネの黙示録」の記述を一言一句正しいなどと考えるのは信じられない、というようなことを書いたが、このヨハネの黙示録に関しては、昨年、非常に詳しい訳と注釈書が日本で出た。
それは田川健三氏の「新約聖書 訳と註」8巻中の第7巻「ヨハネの黙示録」。
田川氏はこの「新約聖書 訳と註」で昨年の毎日出版文化賞を受けている。
きょうはじめて、この本(7巻)を手にとって一部(「解説と後書き859P~874P)」と「137P~139P(黙示録註2章27 鉄の杖でもって)を読んだが、
これだけで、これまでわたしがヨハネの黙示録について抱いていたイメージ、考えが破壊されてしまった。
わたしはヨハネの黙示録についてはそれなりに厳しい見かたをしているつもりだったが、まだまだ「とんでもない甘ちゃん」だったようだ。
この部分(著者自身が、「まず読むように」指示している)だけでも、日本人は読んで知っておくべきではないだろうか?(世界の人にも読んでもらいたいが、受け入れられるか???)
なにより、まず、著者はこの「ヨハネの黙示録」が「二人の書き手」によるものであるとする。(これは著者=田川氏の新学説だということだが・・)
そしてこの二人を「原著者」と「編集者S」とし、こう述べる
→『~ この二人は、月とすっぽんほどにも似ていない。まったく正反対の方向を向いているだけでなく、立っている水準も巨大な落差があるし、著作の目的、主題、質も全然異なるし、人間の品性も雲泥の差があるし、そして特に、ギリシャ語の語学がケタ違いに異なる。
~(中略)~ この人(編集者S)、後述のように極端に幼稚でサディスティックな人であるから、わかりやすいようにこう呼ぶことにする』
この「編集者S」が問題だ、と著者は言うのだ。
(本文ではこの「原著者」の書いた部分と「編集者S」の挿入部分を厳しく分けている。「分量にしてほぼ半々」)
昨年出たばかりの本なので、引用はなるべく避ける。
874ページもある分厚い本で、とっつきにくいが、平易にわかりやすく書いてくれているので、興味のある人は是非読もう(わたしも頑張って読むぞ(笑))
それでもこういったところ(文章)は多くの人に読んでもらいたいのであえてここで書き出させてもらっておこう
→『~ 後世のキリスト教は、終末信仰とともに編集者Sのもう一つの特色、彼の唯一の主眼点を、そのまま無批判に継承してしまったのである。
「異邦人」は全員神によって徹底的に殺しつくされる、というおぞましい信仰を。信仰というよりも、おぞましい他者排除のゆがんだ意識を。』
『~ アメリカの政治権力が(その支持者の重要な部分はキリスト教ファンダメンタリスト(原理主義者)であることをお忘れなく)アラブ人、イスラム教徒といえば、いくら弾圧し、殺しまくってもかまわない、と思っている姿勢 ~』
『昨年度のアメリカ映画のアカデミー賞で「多言語映画」部門の賞を受けたイランのアスガル・ファルハディ監督が、合衆国大統領トランプの政策のゆえに授賞式の出席を断った文章の中の一句が一気に世界を駆けめぐった(~英文省略~)
「世界を「我々」と「我々の敵」という二つのカテゴリーに分類することは、恐れ(疑心暗鬼)を生み出す。それは、侵略と戦争のうさんくさい正当化をもたらすのである」
残念ながら、この言葉は人類の歴史に常にあてはまり続けてきた。
そして人類の歴史の中にそういう風潮をふくらませた大きな責任者の一人が黙示録の編集者Sだったのだ。
これほど絶望的に知性が欠如し、ただただ低劣、くだらないとしか言いようのない文章が人類の歴史の中でこれほどの影響力を持ったことに、何ともやりきれない思いばかりがふくらんでくる』
・・・なるほど、これだけでも「黙示録」と「原理主義」の底知れない恐ろしさは伝わってくる。
・・・宗教の恐ろしさというか、
ただ、わたしは、いま世界で起こっていること(危機)は、宗教だけではなく資本主義(支配)の問題でもあると思っているのだが、この本はその点にも留意している様子なので期待したい。
それにしても、最大の疑問点・・・
「なぜ、「ヨハネの黙示録」が新約聖書に入ってしまったのか?」
解答はあるだろうか?
・・・眠れないなあ(笑)