の姿について。
田川氏は「註」でこう書いている。
『~ キリスト像を描く時に、この文を下敷きにして描いているものが多い。中世絵画のキリストで剣を口にくわえるものが多いのはそのせいである。その他、髪の毛を真っ白にしたり足を輝く金属みたいにしたり、目から燃える炎が出てきたり・・・。
しかし、これまたその種の中世絵画をごらんになるとすぐにわかるが、この文のまま絵にしようとすると、絵としてまるでさまにならない。どうしても、非常に下手くそな漫画になってしまう。
それは、そもそもこの書き手の描写が、おどろおどろしく大げさな表現を並べるだけで、絵画的にさまになるように書いてはいないからである。 ~ 』
!まさに、わたしの思ったこと、疑問を、しっかりと文章化していただいている。
「絵にもならない」こと(イメージ?)を言ったり文章に書いたり・・・
やっぱりそれは精神が未分化(幼稚)だからではないでしょうか?
いっぽうの「原著者」の文について田川氏は
『~ たとえば4章3~6の天上の神の座の描写。
どちらも幻想文学だから、一見似ているように思えるかもしれないが、まるで趣味も質も違う。
そちらは絵画的にうまく成り立っている。
~
~が、まさに雄大にうまく絵画化している。これなら絵になる。 ~
両者のこの文章力の決定的な違い、また文章上の趣味の違いも、非常にはっきりと、両者が別の書き手であることを示す。』
たしかに、4章3~6はわたしでも抵抗なく読める。
ただ、この部分を読むと、どうしても「阿弥陀経」を思い出してしまうのだけれど(笑)
(4章3 その方は、碧玉(へきぎょく)や赤めのうのようであり、玉座(ぎょくざ)の周(まわ)りにはエメラルドのような虹が輝(かがや)いていた。
4章6 また、玉座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。)
さて、コピーの続き転書
『しかし、最適者生存の概念はこうした細部に欠陥があるだけではなく、概念そのものが間違っている。
敗者が死に絶え、勝者が生き残って繁栄するという厳しい生存競争が、果たしてその種にとって本当に有益なのだろうか。
前述のとおり、ある個体が生き残るためには運もふくめてあらゆる要因がかかわってくる。
種子が肥えた土の上に落ちるか石だらけの地面に落ちるかは運不運の問題であり、スズカケの種子が波に洗われたむき出しの岩の上でも発芽して育つようになるといった突然変異はない。
厳しい環境が弱者を淘汰して種を強くしていく貴重なプロセスになるという考えは、19世紀の進化観において暗黙のうちに認められていた部分である。
自然は各々の種が鍛え上げられたり脱落を余儀なくされる巨大なトレーニングセンターだった。
過酷なプロセスの中で弱い者が敗れていっても、お気の毒さまというしかない。
そうやって自然は適者だけが生き残るようにしているからだ。
この考え方の根本にあるのは、生まれても成熟して交配できるようになる前に死んでしまう何百万という個体に対する自然の冷酷さである。
当たりくじの数は限られている。
当たりくじをつかめなかった者は死ぬ運命だ。
強く賢い者だけが残酷な自然の手中から命のパスポートをもぎ取ることができるという。
生存競争の概念は19世紀の進化学説の中心であったが、重要性は薄れてきた。
今日では、進化に関与しない要素とみなされたり、逆に進化に不利益な要素とさえ言われている。
シンプソンが以下のように書いている
<生存競争が関係することもあるが、関係しない場合のほうが多く、関係している場合でも自然選択に反する影響を持つことさえある。
繁殖率差における優位は概して競争という概念とは無関係な平穏なプロセスの結果であることが多い。
生態環境へのとけこみのよさ、自然の均衡の維持、食物の効率的な利用、行き届いた子どもの世話、繁殖を妨げかねない同種内の争い(競争)の排除、競争の対象にならない環境または他の種によって充分に利用されていない環境の開拓、等々。> 』
今日はここまで。
次回でコピー分は書き終わりそう\(^-^)/
「優生思想」国家ニッポンを告発してやろうという試み。
いずれブログで。