宗教的なことばかりを書いている(笑)
じつは「無宗教者」ほど宗教について考えているのだ、ということで
今日書いたブログもやはりその延長になってしまった。
ところで、今日のブログで、麻原氏が修行の結果「シヴァ」神にまで行っているのはスゴイ、みたいなことをちらりと書いているが、これは「表面的な」仏教を突き抜けている、という意味で言った。
そこで仏教を否定するようなことになればヤブヘビなのだが、麻原氏は仏教徒としての立場を堅持していたようなので、それを評価したわけだ。
これは、麻原氏とその弟子?たちが黙々?といった様子で「罪?」と「罰」を受け入れている様子で判断した。
ちなみに何の修行もしていないわたしの理解では「シヴァ」神の日本的現れは、「不動明王」プラス「観音菩薩」だ。
どちらか一方、と言われれば「不動明王」かな?
わたしが彼らが仏教徒であるのを確信したのは「おとなしく」?カルマ(自分たちにかぶさってきた罪と罰)を受け入れて殺されていったことによる。
昨日覗いた、esu-keiさんのブログに「教誨師」(堀川恵子・著)の書評(かなり優れた書評です)が書かれていて、その中にこんな文章があった。
→『~ のちに冤罪であることが確定して釈放された免田栄は、ある仏教教誨師について、こう記している。
「自分は冤罪だからと再審を請求しようとする収容者に対しても、「これは前世の因縁です。たとえ無実の罪であっても先祖の悪業の因縁で、無実の罪で苦しむことになっている。その因縁を甘んじて受け入れることが仏の意図に沿うことになる」
と、再審の請求を思いとどまらせるような説教をする僧侶がいる。
こんな世の因縁をふりかざして、再審請求をさまたげる僧侶が少なくない』
日本の仏教系の「教誨師」には死刑肯定、死刑推進論者が多い、と聞いたことがあるが(法務省の手先ともいわれるらしい)、うーん、なるほど、こういう言い方をするのもいるのか・・・
わたしに言わせれば、では無実の者を死刑にする「業悪因縁」はどうなるんだよ?と。それを止めることによって「悪因縁」も無くなるのではないか?
(冤罪死刑をやった者(権力者、役人)の「罪」、カルマはどうなるんだ?(笑))
ということなのだが、どうも、オウム真理教の死刑囚だった人たちがさしたる「抗弁」もせず、大人しく?殺されていったのは、これと同じ論理?
まあ、「他人の命」でそんなことを言っている講釈坊主(いんちき僧侶?)より、自らの命でそれを「実践」したオウムの元死刑囚たちはそれなりに仏教徒としての立場を守って死んでいった、というべきだろう。
「修行した者」の死として、一般の人たちとは違う意味での死であったかもしれない。
それはともかく、
彼らがそうして「仏教者」であることを「証明」したことによって、わたしは「松本サリン事件」「地下鉄サリン事件」といった「無差別殺人」事件が「冤罪」に近いものであった、という「確信」をより強く抱いた。
(実際、井上元死刑囚が証言したという「地下鉄サリン事件前のリムジンでの謀議」は完全な虚偽だったことがわかっているし、多くのオウム真理教の「罪状」の元となった「井上証言」を彼自身が覆し、はじめて「再審請求」を出したことで、安倍政権・法務省は彼らの処刑(幹部の一斉処刑)を決めたようだ。)
・・・「仏教」には一般大衆に対する殺人、という考えなど、これっぽっちもないだろうに。
大メディアに出てきた「宗教専門家???」などが「ポア」がどうとか、なんたらの教えがどうとか、仏教の中に「一般大衆に対する無差別殺人」を勧めるような内容のものがある???、などと言っていたが、
「仏教界」、それでいいのか?
仏教で一般大衆が殺せるというのか?
こんなものを認めているのなら、仏教者どころか、単なるバカだろ?それもどうしようもないバカだ。
ただ、多くの衆生を苦しめる権力者がいて、彼がそれ以上罪を重ねることのないようにと、「一刻も早く死ぬように」念じる、というのはアリだと思うけどね(笑)
いくらなんでも仏教には一般大衆に対する無差別殺人、ジェノサイドの考え方はない。
一般人、大衆を殺す、のは、「シオニズム」だよ。
それにしても、なんだかこのごろ、すごくお不動さん(不動明王)が気になるようになってきたなあ・・・
いちどお参りしてこようかな?
オウム真理教同日大量処刑以降、宗教的傾向が強まっている・・・
論理も倫理も飛ばされてしまって、文明社会以前、危険いっぱいの「未開の荒野」に丸腰で立ちつくしている気分・・・
これ、とりかえしはきくのだろうか?