DHA&EPAの効果なのか?

 少し精神が元気になってきた。

 

まあ、周期的に襲ってくる「鬱」(うつ)が時間の経過で回復しただけのことだったかもしれないが、

それでも、DHA&EPAは魚をまったく食べることのできないわたしにとっては必要な栄養素だと思う。

 

1ヶ月約900円の出費だが、外食で「さんま定食」を食べても一食900円近くかかってしまう時代だから、まあ、どうってことはない。

それに、1ヶ月約900円というのはDHA&EPAサプリの値段としては安い。

これからも、薬局なのに“大人のおもちゃ”?(°0°)?がさりげなく置いてある、あの店で買い続けよう(笑)

 

それにしても、今回は森田童子さんの歌にずいぶん助けられた。

 

森田童子さんの歌を「自殺に導く歌だ」なんて書いている人がいるが、わたしはそれは正反対だと思う。

落ち込んだとき、その気持ちに寄り添ってくれる歌というのはむしろ救いなのだ。

 

なんといっても精神的に最も辛いのは誰も自分を理解してくれる人が周りにいないときなのだから。

 

どん底の気分のとき、その心を下から支えてくれるような優しさが森田童子さんの歌にはある。

 

いくらツライ状況でも生きてさえいれば、時の経過でいつかは問題が解決する。

環境的にも精神的にも。世の中は一瞬も止まることなく変化し続けているのだから。

それがこれまで生きてきてのわたしの結論。

 

むしろ、ツライ気分のときに、「明るい歌ですよー」「前向きで行きましょー」みたいな、利いた風な、作為的で世間におもねった歌を聞かされれば、衝動的に死にたくなってしまうかも知れないので、そちらのほうが“要注意”だ。

 

ほんとうの“涙”を流させてくれる「本物」の歌はありがたい。

 

ところで、元気になったので、森田童子さんのことを少し調べてみた。

 

素顔も本名も不明・・・約十年間の活動で60曲あまりの歌を残して、表舞台から去っていった、ということで、

素顔を写した写真も1枚もないのだという。

 

いまネットで森田童子さんの「素顔」(ではないか?)として載せられている画像もすべて本人ではないらしい。

 

面白いのは、森田童子さんの素顔で検索して、最も多く出てくるのが、山崎ハコさんの若い頃の写真だということ。

 

「これくらいはわたしでもわかるよなあ・・・」(笑)

 

山崎ハコさんはデビューが森田童子さんとほぼ同じ。

こちらはデビュー当時からメジャーだったので、わたしも1970年代の後半から知っていて、好きな歌手のひとりだった。

 

なるほど、(写真は別として)森田童子さんと山崎ハコさんがイメージとしてかぶる、というのは理解できるような気がする。

なんとなく顔のパーツが似ているし、「歌」も共通性があるように感じられる。

 

しかし、わたしらの世代が聞くと、森田童子さんと山崎ハコさんの世界は明らかに違う。

 

二人の年齢差は5歳?森田童子さんのほうがお姉さんだ。

 

この5歳差が結構大きい。

 

若者が社会に目を向け、異議を申し立てた全共闘運動の尻尾のところに森田童子さんはいて、その世界にそこはかとない理解を示しているのに対して、

山崎ハコさんは、その世代としては社会と「個」の軋轢(あつれき)を歌いながらも(初期)、「絶望」後の、社会とは切り離した自分の「内側」へと向かう傾向を示しているように思える。

 

歌も、森田童子さんがフォークソングに徹したのに対して、山崎ハコさんは演(怨)歌・ブルース系といったところか?

 

その山崎ハコさんも長く芸能事務所で寝泊りをするような生活を続け、芸能事務所が倒産したときにはホームレス同然の状態になったらしい。

有名人でさえ、不運によってあっという間に路上に放り出されるこの国の恐ろしさに、改めて○ン玉が縮む思いがする。

 

森田童子さんも相当苦労したことがうかがわれる。

普通の主婦をしていた、ということだったが、ご主人はご本人が亡くなる8年前の2010年に亡くなったらしい。

2010年に朝日新聞に載ったインタビュー記事では、「最も親しい人(ご主人)」を失い、しかも自分の健康状態も悪くて、手紙も書けないくらいに憔悴している、という「近況」が述べられている。

 

高校時代の3年間を結核で療養施設(サナトリウム?)で過ごさなければならなかった、ということだから、もともと丈夫な体質ではなかったのだろう。

苦労、悲しみの多い人生がしのばれる。

 

ネットでは、子どもがいる、などという情報が一部あるが、これも画像同様いいかげんなものだろう。

わたしは、おそらくお子さんはいなかったのではないか、と思う。

 

ともあれ、ここまで書いて、気がついたのだが、

・・・森田童子さんの「素顔」や「プライバシー」なんて、本来どうでもよいことなのだ。

 

彼女の歌と、数少ないながらも残っている活動の記録。

それだけでいいのだ。

 

それが、素顔も本名も一切明かさず、(日本が決定的に変わっていく)1983年という年を画期として、自ら表舞台から消えていった森田童子さんの意志(いまは遺志)に沿うことだと思う。

 

前回の「日記」にUPした動画、「夜行」の②で、森田童子さんが語っている言葉

 

「わたしたちのコンサートが不可能になってゆくさまを見てほしいと思います。

そして、わたくしたちの歌が消えて行くさまを見てほしいと思います」

 

ここに、彼女の思いの全てが込められているだろう。

 

活動当時の森田童子さんを知る人の話に、「彼女はさらに上に行くこと(社会的成功)を頑強に拒み続けていた」という内容のものがある。

 

森田童子さんの人生が苦しみ、悲しみに満ちたものであっったとしても、その心は安定、一貫していてぶれることのない生涯、だったのではないだろうか?

 

それにしても、このトシになってでも、森田童子さんの存在を知ることができてよかった。

彼女の1周忌になる今年の4月24日は私的に「童子忌」として、森田童子の歌と「思い」をしのぶ日にしよう。

 

 

 

・・・ところで、今晩は久しぶりに山崎ハコさんの歌でも聴こうかな。

しかし、彼女の歌は眠る前のものではないなあ。少なくとも夜の9時頃までにしたい。

 

コンコン コンコン くぎをさすー♪ (^^;)