このあいだ、ハトにエサをやらないでください、とか

ネコにエサをやらないでください、といった、

 

お役所の看板?がやけに目立つ都内某地区を歩いていると、

 

わたしの行く少し前を猫が横切った。

 

猫はそのまま何処かに行くのかと思えば、道路わきの花壇にいる。

 

わたしが花壇の前で立ち止まると、逃げもせず、植物と戯れるようなしぐさをしている。

 

よく見れば、まだ子猫だ。

大人のネコの半分くらいの大きさで、ひどく痩せている。

 

「わかるんだけどねえ・・・」

 

わたしはつぶやくように子ネコに声をかける。

 

「わたしの住んでいる建物も、ペットを飼うことが禁止されているんだよ。」

 

ネコというのはよく人を見る。

 

おそらく、わたしの背後のどこかに母ネコが隠れていて、子ネコにそういう行動をとらせているのだろう。

 

・・・「この人なら飼ってくれる可能性がある・・・」by母ネコ

 

確かにね、

できれば、何とかしてあげたいよ。

子ネコの痩せ方からすれば、

このままだとそう長くは生きられないだろうから。

 

わたしは以前、都内某所の工場跡の敷地で餓死したネコを見たことがあるのだが、

いま目の前の子ネコと同じくらいの大きさの、やはり子ネコで、同じくらい痩せていて、目を開けたまま死んでいた。

 

一見、元気にふるまっているその子ネコも厳しい状態にあることは間違いないだろう。

ここまで育てた母ネコの気持ちも感じて、少しツライ気持ちになった。

 

というのが、

 

20数年前、S区のはずれにあるアパートの一階に住んでいた頃、わたしはそのアパートの裏庭で三代にわたってノラ猫の家族の面倒を見たことがある。

 

      (↑とんでもない非国民?(笑))

 

そこまでやると、その地域のノラ猫の社会も生活もよくわかるようになり、一帯を制圧していた?ボス猫とはほとんど親友状態?だった。

 

そのとき、わたしが面倒を見ていたのとは別のノラ猫の母親が、植え込みの裏に身をひそめて、ある家に自分の子どもが入っていくのをじっと見つめていたのを、その後ろから見たことがある。

 

そこらへんのノラ猫はわたしが味方?だと知っていたので?、わたしが見ていても気にしない。

 

わたしは、

「はは~ん」

 

という感じで通り過ぎたが、

 

母ネコは、自分の子どもが誰かに飼ってもらえるように、必死だったのだろう。

 

そういう光景を見たことがあるので、

いまわたしの目の前にいる子ネコの背後に母ネコがいるだろう、ということがわかるのだ。

 

「ツライよなあ。

それにしても、お前も悪い時代、悪い地域に生まれたもんだなァ。」

 

やはりつぶやくように言ってわたしはその場所を立ち去る。

 

子ネコは花壇の中でそのままだった。

 

よほどの幸運でもないかぎり、その子ネコの命があとわずかなのは目に見えているのだけど、どうすることもできない。

 

この地域では、「よほどの幸運」も期待薄だろう。

 

それにしても、この国はノラ猫にとっても人間にとっても厳しい国、

 

というか、「生命」にとって厳しい国ではないだろうか?

 

近年、とくにこの国の人たちから生命に対する感受性が失われているように感じるのはわたしだけだろうか?

(たぶん、わたしだけ・・・(笑))

 

これは、エリート支配、格差社会、人口の減少、といった問題とも微妙に関係しているようにも思えるのだが。。

               (たぶん、この飛躍?についてこれる人もいないだろうなあ・・・(笑))

 

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人口減少、といえば、あのカブトムシ・・・

こちらも、

「ン」?(笑)

 

この話は次回に書こう・・・(笑)。

 

 

それにしても、

がりがりに痩せながら、一生懸命毛づくろいしたのか、美しい毛並みをした子ネコの姿がちらつくなァ。あんなときは人間に見せるために毛づくろいしているんだよ。

 

しかし、いまの東京では(おそらく)ノラ猫の母親(たぶんまだ若い)も生きていくことはおぼつかない状態だろう・・・。