「食用の動物」が動物そのものとして見えてくる。
ちょっとヘンな言い方だが、「食用」のそういった動物たちを見るとき、これまでは半分は生物としての動物、半分は「食物」として見ていたことに気づくのだ。
これもそう
わたしの住みかから歩いて10分くらいの距離にある「ふぐ」専門店の通りに面した生けすだ。
正直、肉食・魚食をしていたときはこの前を通っても、「うまそうだなあ」「でも高価そうだよなあ」くらいにしか思わなかった。
しかし最近は、この光景を「少し残酷だなあ」と思うようになってきた。
生けすをしばらく見ていると、「ふぐ」一匹一匹にも個性があることがわかる。
活発なもの、ほとんど動こうとしないもの。群れようとするもの、一匹離れていようとするもの。なかには、一匹だけ生けすのど真ん中でゆうゆうとひれを動かしていて、威厳を感じさせるのもいる。
「でも、みんな食われちゃうんだよな」
そう、一匹残らず、確実に人間に食われることになる。
やがてまな板の上にのせられ、包丁がズブリ。どの「ふぐ」もその運命から逃れられない。
残酷なもんだけど、そんな「今まで生きていたもの」を食べて喜ぶ人は多い。
まあ・・・わたしも若いころはそうで、店内にさまざまな魚の泳ぐ生けすがあって、そこから泳いでいる魚をリクエストして食べる、というようなところに何回か行ったことがあった。
「狩猟本能」というのがあるんだろうなあ。たしかに、それなりに楽しく、満足した気分になったものだった。
しかし、自分が(自分の意思で)ひとつの生命を絶っているんだ、ということに気づいて、やめた。“生餌(いきえ)より死肉あさり”。肉食といわれている野生の動物だって“死肉あさり“”が多いんだ。
「生命を絶つ」のは「産業」にまかせておこう。「仕事」でやるのは自分が生きるためだから、罪はないわ。
なんて考えて。
それにしても、重症の「痛風」で動物性のものがまったく食べられなくなった当初は、この世界が灰色になったように感じられたが、慣れてしまうと、案外この状態はいい。
世界も色と明るさを取り戻し、なんだかもうひとつの世界が開けたような・・・。サプリを併用しているから、健康も問題なく、なんだか「病気」から遠ざかっているような気もする。
世の中、こんなものなのかもしれない。ひとつ絶望しても、負けずに?なんとか生きていたら、また新しい世界が開けてくる。
ところで、あらがえぬ運命の「ふぐ」さんたち。
キミたちを食べている人間だって、いつかは死ぬんだからね。人間の運命もキミたちとそう大差はないのかもしれない。
わたしは無宗教だけど、今日は“ナンミョウホウレンゲキョウ”。動物の「成仏?」には法華経がいいんだって。
日本の大乗仏教は(中国で)道教の影響を受けているから、動物や魚はおろか、草や木にも「魂」があると考えているとか。南無・・・・・