少し残っていた膀胱の違和感もなくなって

完治。

 

眠る前に、この間亡くなった西部邁さんの「無念の戦後史」を読む。

 

60年安保の「闘士」から転向して自民党支持保守主義者となって、東京大学教授にまで登りつめた人、ということで、正直、あまり好感が持てず、これまでこの人の著作を読む気にはなれなかった。

 

テレビなどでの発言にも、首が縦に動くよりは横に動くことのほうがが多かった。

 

それが読む気になったのは、入水自殺という「死に方」に引かれた?からだ。

“なぜ自殺という死に方を選んだのか?”

 

この「無念の戦後史」という本は、西部邁氏の生まれてからの思想遍歴を綴った半ば自伝的なものになっている。

 

読むと、なるほど、この人がたいへんな知識量の持ち主で、分析力も卓越した知性抜群の人だということがわかる。

「学校」の勉強をやらせれば、まず、パーフェクトだろう。大学での「研究力」?も凄いのだろう。

「知性」では、わたしなんぞは足元にも及ばない。超優秀な大学院生と成績の悪い小学生くらいの差はありそうだ。

 

もし大学でこの人の講義を聞いたとしても、「難しすぎてついていけんわ」というところだったろう。

やっぱ、超秀才の東大生に合った教授だと思った。知識量が半端ない。

 

こんな「先生」が「構造改革」や「グローバリズム」をその「知識」を基に批判してくれているのは有難いが、

 

しかし、何かが違う。

 

非常にわかりやすく書いてくれているのだけれど、「好きになれない」という言い方もどうかと思うが、「入っていけない」。

「立脚点」が違う。

まあ、西部氏が批判している「社会民主主義」に近い考え方をわたしがしている、ということもあるのだろうが、たぶん、決定的に違うのは「価値観」なんだと思う。

 

ユングによれば、「価値」を判断をしているのは「知性」ではなく、「感情」なのだという。

わたしが「違和感」を覚えるのは、その「価値判断」の部分なのだ。

 

この「知性」の「巨人」の「感情」「価値判断」というものはどういうものであったか?

 

ちょっと苦痛ではあるけれど、なんとかこの本を読み通して、そのあたりのところを見極めてみたい。

 

それにしても「東京大学法学部閥官僚さん」もそうだけど、一般人と隔絶した「知性」の超エリート秀才の世界(人)というのは、やはり苦手だなあ。。。

どこかで「共感」が遮断されているような・・・