なんだかニッポンも世界も資本主義が

ひどく残酷な方向に行っているように思えるので、

 

学生時代に読んだ、マルクスの「ドイツイデオロギー」をン十年ぶりに読んでみようと思った。

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わたしにとって難解至極なマルクスの著作の中で、この「ドイツイデオロギー」と「共産党宣言」と「経哲草稿」だけは理解できたように思っていて、とりわけ、「ドイツイデオロギー」(当時は「ドイデ」と言っていたっけ)はわたしの学生時代の座右の銘のようになっていた・・・

 

はずなのだが、いま、その「ドイツイデオロギー」を読み始めて、驚いた。

さっぱり理解できないのだ。

「ええ???」と思った。

 

わたしの脳みそがしなびてしまったからだろうか?

いやいや、必ずしもそうではないだろう。

学生時代に理解できなかった難解本も、人生の経験を積めば、「なーんだ」というくらいに解ってくる、というのがわたしの経験で、実際、他の哲学書思想書、古典の類は、年齢を重ねるほど、良く理解できるようになっている。

 

しかし、マルクスの著作だけは、そうはならないようなのだ。

学生時代に理解できなかった著作は今でも理解できない。学生時代に理解したつもりになっていたものも、今はわからなくなっている。

いったいわたしは何がわかっていたのだろう?何をわかったつもりになっていたのだろう?

 

そういう意味で、マルクスの著作は今のわたしにとって、苦いものになっている。

 

それでも、その後の人生経験のおかげで、マルクスの著作について一部理解できたことがある。(トシ食ってから「資本論」などを少しかじってみたりしていたので)

それは、

マルクスは「歴史」と「革命」については語っているが、「革命」後の世界については何も語っていない、ということ

つまり、

マルクスは「かくあれかし」という「理想の社会」などまったく「提示」していないのだ。

 

今回、ドイツイデオロギーが理解できなくなっていることで、あわてて、共産党宣言を(これまた学生時代以来ン十年ぶりに)読んで見た。

こちらはマニフェストとして、タイヘンわかり易く書かれているので、ドイデみたいなことはなかったが、ただ、理解の内容はまったく違った。

 

学生時代は「来るべき素晴らしき世界」を示しているように思っていた(思い込んでいた)「共産党宣言」だが、こちらも、「革命」のためのマニフェストであって、革命後の世界のマニフェストではないのだ。

 

どうも、わたしの学生時代のマルクスの読み方は間違っていた、というか、誤解して読んでいたようなのだ。

理解したように思っていて、実はまったく理解できていなかった!

 

わたし程度のアタマでは、ほんとうにマルクスは難しい・・・

 

そして、学生時代のわたしがやっていたもうひとつの間違いは、

聖書に書かれていることが一言一句正しいと信じるキリスト教福音派の人たちのように、マルクスの著作を一言一句すべて正しい、と思い込んでいたこと。(思い込まされていたこと)

それを「武器」に「論争相手」を屈服させようとしていたこと。(ザンゲザンゲ・・・ゴメンナサイ)

 

マルクスにだっておかしなところはいくつかあるのだ。

 

なんて書いたら、「反動だ」「修正主義だ」なんて言う人が今でもいるのかもしれない。

しかし、ニッポンの偉い経済学者さん(下記の宇野弘蔵さん)も言っているとおり、「修正主義」なんて言葉があること自体、おかしいのだ。

 

だいたい、「マルクス主義」って何なのよ?って話。

 

ハイデガー

マルクスは歴史を書いているだけなのだ」

と言ったが、この見方が最も的を射ているように思われる。

実際、そうなのだ。

 

マルクスは「歴史」を書くことによって「資本主義」がいかなるものであるかを明らかにした。

そして、当時の歴史の最終形態であった「資本主義」が「革命」によって滅ぼされるべきものであることまで見通した。

 

しかし、マルクスが語ったのはそこまでなのだ。

たとえば、

私たちを縛り苦しめている資本主義という「縄」がある。

マルクスはその「縄」がどのような由来で出来、どのような性質でわたしたちを苦しめているか?

マルクスはその「縄」の正体を暴き、その縄を断ち切ってわれわれが「縄」から解放されるべきことまでを語る。

 

しかし、「縄」から開放されたわれわれがどのような社会を作るべきか、は言っていないのだ。

「矛盾の解消」と「資本主義からの開放」。

とりあえずそれでオーケー?

それで「理想の」社会が到来する、というのは、(わたしの経験に基づくアタマでは)やはり「おかしい」と思う。

 

はたして来るべき社会の具体像をしっかりと示していないものが「マルクス主義」と言えるのかどうか?

 

マルクスが、べつに自分が作ったり主導したわけでもない「マルクス主義の運動」なるものに対して、

「あんなものをマルクス主義というのなら、私はマルクス主義者ではない」

と言ったというのは、重要なことだと思うのだが、それが取り上げられることはほとんど無い。

 

その、マルクスが否定した「マルクス主義」「マルクス主義の運動」がその後の「マルクス主義」の主流になってしまったというのが、ほんとうのところではないだろうか?

 

ただ、マルクスの著作にも「?」という面がいくつかあって、それが現代において、マルクスが○○○の陰謀の一味、などとグローバル資本家の手先のようにいわれることにつながっているように思う。

(このことについては、後日また)

 

とまあ、わたしのプアなアタマではこの程度のマルクス理解がやっとで、これ以上の「進歩」も期待薄。

わたしは死ぬまでマルクスを理解した「マルクス主義者」にはなれないだろうと思う。

 

それでも、わたしの学生時代に「世界先進国同時革命」なんていうことが主張されていて、わたしは「なんてアホなことを言ってんだろ」くらいにしか思わなかったのだが、現代のグローバリズムを見ていて、その意味がやっと理解できた。

(革命は先進国で同時的に起きる。そうしなければいけない。というのは、今の世界ではリアルに理解できる)

 

インターナショナリズムにしても、リビアやべネズエラを見ていると、「万国の人民の結束」が必要なことがよくわかる。

(小さな国が人民のための体制作りをしようとしても、グローバル資本家に(世界規模の圧力、攻撃で)潰されてしまう。ソ連がしばらく一国社会主義でやれたのは、それなりに強力な大国だったからだろう)

 

あと、現代を支配するグローバル資本家はマルサス人口論の信奉者のようで、人口削減ということに熱心なようだけど、(ニッポンの政・財・官もね)

 

(じつはわたしはマルクスも19世紀の人ということで、マルサスのような考えを持っていると思い込んでいたのだが)

 

宇野弘蔵さんの「資本論に学ぶ」を読むと、マルクスはとうに、マルサス人口論など越えていたようなのだ。

宇野弘蔵さんは

マルサス人口論なんかいうのはいい加減なもので、ネズミの繁殖率を計算したような人口論なのです」~

マルサスの「人口論」を論破、一蹴したうえで、

マルクスにも人口論があって、これこそがほんとうに人口論なのです。マルクスのは資本主義に特有な人口法則なのです」

と、(資本主義が)生産能力を上げながら、相対的過剰人口を作る、「つまり、生産能力が上がると、資本に対して人口が相対的に過剰になるような傾向を持っている」ということをマルクスが明らかにした、

と書かれている。

 

(つまり、「過剰人口」(余分な人間???)を発生させるのは資本主義の特性であって、人間が人間を産むからではない、ということだ。

 

詳しくは宇野弘蔵さんのこの本「資本論に学ぶ」(ちくま学芸文庫)で)

 

宇野さんは

「この人口法則を発見したマルクスは、とてもうれしかったのではないかと思うのです」

と書いているが、グローバリズムと日本政府・財界による人工削減政策に恐怖感を抱いているわたしもうれしい(涙・笑)

 

まさに、マルクスが見通していたのは現代のグローバリズム資本主義。

しかし、マルクス以後の「歴史」をマルクスがやったように対象化し、分析しきれていなかったことが、現代の「左翼」の低迷につながっているのだと思う。

 

「旧態依然」の運動ではダメなのだ。

 

それに、いくら偉大と言っても、マルクスは昔の人、「19世紀の科学」の時代の人だ。

西郷隆盛が十歳の子どもだったとき、二十歳の成人だった人だ。

 

ひとにぎりのグローバル大資本家が99%の世界人類を殺せる大量破壊兵器を手にしている現代、99%の人類はどうすればいいのか?

 

マルクスを越えるマルクスのような偉大な才能の持ち主(思想家)と、偉大な人民の指導者(政治家あるいは革命家)、人民の救済者が現れるよう祈っている。