年越しは去年同様、Eテレビを見ながらにしようと思っていたのだが、その前に本を読みながら眠ってしまい、目が覚めたら午前1時を過ぎていた。
寝ている間に年越し完了(笑)
「あーあ」と思いつつ、Eテレの「ねほりんぱほりん」などを見ていたのだが、こちらでも知らないうちに寝てしまっていて、起きたらもう日が昇っていた。
こんなに眠ってばかりの年越しは初めて。
雑煮を食べながら
「トシなのかなー」
と少しショックだった。
元日はネットを見て一日を過ごす。
ネットはすごい、と思うことの一つが、記憶の彼方、というか自分が子どもだった頃の画像を検索ひとつで見ることができることだ。
そして、
「まさかそんな画像があることはないだろう」
というようなものが「ある」こと。
わたしは3歳から7歳にかけて四国で暮らした。
その期間、父が四国のその村(当時)にある鉱山で働いていたからで、村の空き家?を借り上げた「社宅」に親子三人で住んでいた。
わたしはその村でもの心がついたので(それ以前の記憶はまったくない)、いわば「ふるさと」のようなものなのだが、今では夢のようなおぼろげな記憶しかなく、
おとぎ話をあやふやにしたようなような世界になっている。
そこは小さな山の中の村で、鉱山も一般の人はほとんど耳にすることのないような小規模のものだった?から、「いたずら気分で」その村を検索して、村と鉱山の「今」の画像が出てきた出てきたときは驚いた。
鉱山は「廃鉱」になっていた。
いまはもうほとんど森の中に埋もれていて、ここに鉱山があったことさえ知る人も少なく、「廃墟」あるいは「廃鉱」マニアの人がたまに訪れるくらいになっているようだ。
(これらの画像はすべて<www.mafura-maki.jp/tanbo/kouzan>さんのブログからお借りしたものです。わたしにとってはお宝の画像なので、一部ここで使用(ここに残す)ことをお許し願いたい。謝謝)
ここでわたしが何より驚いたのは、「火薬庫」跡の画像があったこと。
左側が「火薬庫」の入り口、右側の厳重な扉?で閉ざされているのが「火薬」の保存場所だ。
これこそが私の父が従事していた仕事、仕事場だった!
土木技術者だった父がこの鉱山で働いていたのは「危険物取扱者」の資格を持っていたから。
(たぶん、派手にどかん、どかんとやっていた?のだろう(笑))
一日だけわたしは父について鉱山に行ったことがあったが、
その日は仕事が無かったのか、父は退屈そうに事務所の机の前にすわっていたり、ぶらぶらしたりしていた。
子ども心にも
「なんだ、父ちゃん仕事してねーじゃないか」
という状態だった。
このとき、事務所にいた父の同僚の人が近くを案内していろいろ説明してくれたのだが、記憶の4分の3くらいはキレイに消えてしまっていて、何を見させてもらったのかほとんど憶えていない。
それにしても、現在こうして見せてもらっている画像とわたしの記憶が結びつかないのも驚きだった。
わたしの記憶があやふやなこともあるが、当時山を広く覆っていた砕石場が森に還っていたり、施設が撤去されたり、と、鉱山自体の姿も大きく変わったからだろう。
なるほど、わたしもトシをとったわけだ(笑)
トシついでに、このころのことを思い出してみると、
社宅にはテレビが無く、情報源、娯楽源はもっぱらラジオだった。
島倉千代子の「からたち日記」や「若いおまわりさん」(歌手が誰だったかは忘れてしまった)がよくかかっていた。
テレビは週に1日か2日、夕食後に隣の大きな家に見せてもらいに行っていた。
このときわたしがはまっていたのは「ハイウェイパトロール」というアメリカのテレビドラマで、
これがある日は必ず隣に行った(笑)
それを思い出して、「ハイウェイパトロール」を検索してみると、なんとこれは放送当時字幕スーパーだったらしい。
とすると、会話などはすべて英語だったということなのだが、わたしには出演者が日本語をしゃべっていたような記憶しかない???
これも記憶のあやふやさなのだろうが、
なんであんなに夢中になって見ていたのだろう?(笑)
あともうひとつ驚いたのが放送した局がNHKだったことだ。
わたしの記憶の中では、この「ハイウェイパトロール」と「ヘリコプターを使った?ソニーのCM」が一体になっているのだ。
NHKならCMはないはずで、
では、あのソニーのCMはナンダ?ということになる。
記憶が混乱というか、混在しているのは間違いないのだろう。
こうして、幼い頃の記憶違いまで気づかせてくれるネットというのはほんとうにすごいものだと思う。
こういう時代が来るとは想像もつかなかった。
昔に比べ、便利になるところはすごく便利になっている。
しかし、それと人生の楽しさ、味わいは別だということにも気づく。
なるほど、世の中恐ろしく便利になったが、その便利さがどれほど人間を幸福にしているか、と考えたとき、
「幸福度」への貢献は技術の進歩ほどには大きくない、というのが実感だ。
なぜそうなってしまうのか?
半世紀以上昔のガキというか子どもからしたら不思議でならない。
その子どもも、
「日本のテレビ網といえば、アメリカのCIAが読売新聞の正力松太郎を使って作らせた一種の軍事施設のようなもので、
初期のテレビ放送で、最初からユダヤ資本の助けを借りていたソニーのCMが派手に流れていたのは興味深い」
などとひねた考え方をするおっさんになってしまった \(^p^)/
ということで(笑)
ともあれ、元日早々、楽しかった子ども時代の回想にふけることができたのは、プチ幸せだった。
うーん、、、、この画像は・・・
かすかに記憶に結びつくような・・・気がするなァ \(^-^)/