いつも通る道のわきの植え込みに黄色の水仙が咲いていた。
このところ暖かい。
帰りに近くの図書館に寄る。
借りたのは、
「世界」2020年12月号(岩波書店)
植物という不思議な生き方(PHP)
クリエイターのためのSF大辞典(ナツメ社)
の4冊。
最近、目の調子がますます悪く、本を読むのがちょっとしんどくなってきていて、youtubeの朗読ばかり聞いていたのだけど、やはり読書の代わりにはならない。
ということで、倍率2倍の拡大メガネを買って読書を再開。
自宅にもどって借りた本をパラパラやっていると、「SF大辞典」のこんな文章が目にとまった。
『【生命という奇跡】
自然界には4つの力があります。
重力、電磁力(でんじりょく)、強い力、弱い力。
これらは変化しない数であり、それぞれが少しでも違う値(あたい)を持てば、この宇宙は形を持ちえません。
簡単に言うと、仮にビッグバンが起こっても素粒子から先、陽子と中性子が衝突(しょうとつ)せず、ただ飛び交うだけで最初の重水素が発生しません。
原子もないため、物質のない寂(さび)しい宇宙になってしまいます。神様はこの宇宙を産み出すためにいったいどれだけのサイコロを振り重ねたのでしょうか。
・・・・ 』
たしかにね。
昔から言われていることだけど、
「この世は神様がいると考えれば、ひどく不完全で理不尽だけど、神様がいないとすれば、あまりにもうまくできている。」
これは誰もが感じていることだろう。
わたしはこの問題については、ニーチェさんとは違った意味で
「神は死んだ。」
と考えて納得するようにしている。
つまり、
「最初は神様がいて、この世界・宇宙の基礎を作ったのだけど、
しかし、その神さまは死んで(消えて)しまって、この世(世界)は不完全なまま残された。」
そう考えると、
案外、この世のことが腑(ふ)に落ちる。
でも、それで自分なりに納得はできても、生きていくのはタイヘンだ。
「納得」だけではまったく楽にならない。(笑)
ただ、いま神様がいないとすれば、市場を神の手にまかせよ、と現代において主張しているような市場原理主義=新自由主義の経済学はとてつもなく危険なものなのではないか?と思う。
まァ、その背後には神様になったつもりの大金持ち(=独占資本家)の存在があるんだろうけど。(笑)
どちらにせよ、ロクなもんじゃない。
あと、こちらも言葉の意味はちょっと違って理解しているかもしれないのだけど、ドストエフスキーの
「神なき革命は悪です。」
という言葉もね、
ちょっと絶望的かつ危ないような言葉だけど、1面の真理だと思う。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
メモ:
お名前 生・没年
ヘーゲル 1770 ~ 1831
ダーウィン 1809 ~ 1882
(種の起源 1859)
マルクス 1818 ~ 1883
ドストエフスキー 1821 ~ 1881
ニーチェ 1844 ~ 1900
////////////////
19世紀は科学(19世紀科学)と無神論の時代、といっていいのかな?
ドストエフスキーも最初、無神論の革命運動に参加していけど、処刑寸前での助命とその後の獄中生活という壮絶な体験により転向(?)
しかし、ダーウィン進化論の影響は大きい。
19世紀において、「科学」というのはダーウィン主義のことだ、と言って差し支(つか)えないのではないか。
→ 「宗教」支配を崩(くず)した「科学」=ダーウィニズム。
ダーウィニズムから派生した社会ダーウィン主義とその優性思想は二十世紀にロックフェラー財団やカーネギー財団などに受け入れられ、その影響は戦後~現代日本にも及ぶ。
そして、ダーウィンは若いころにマルサスの人口論を読んでいた、と。
マルサスの人口論に関しては、大昔読んだ宇野弘蔵さんの本に、ネズミと人間を一緒くたにしたような論、というようなことが書かれていたいたっけか?
あまりにも簡単、あっさりと切り捨てられていたので(2~3行)、拍子抜けした記憶がある。(笑)
ずるずると余談?↓(笑)
宇野弘蔵が「マルクス主義」の政治・社会運動とマルクス経済学とを切り離したのはまったく正当(大正解)だと思う。
それに対して晩年のマルクスが言った言葉。
「あんなものをマルクス主義の運動というのなら、私はマルクス主義者ではない。」
宇野弘蔵さんはその言葉の意味が理解できた数少ない人だったのだと思う。
それにしても、いいかげん19世紀の呪縛から脱したい・・・。