いやあ、早(はや)い、早い
『 門松(かどまつ)や冥土(めいど)の旅(たび)の一里塚(いちりづか)めでたくもありめでたくもなし 』
という一休(いっきゅう)さんの歌(うた)があるけれど、
今(いま)こんな写真(しゃしん)を載(の)せても、
え~? ナニコレ~
と思(おも)われるくらいの「過去(かこ)」の事(こと)?になってしまった。(今年(ことし)の門松なんだけどね。)
わたしくらいの年齢(ねんれい)になると、冥土に向(む)かって疾走(しっそう)しているよう。
なんという健脚(けんきゃく)。
まあ、誰(だれ)も同(おな)じなんだけど。(笑)
三週間ほど前に咲きかかっていたアロエの花
が、満開(まんかい)になっている。
12月から3月にかけて咲くアロエの花も「冬(ふゆ)の花」のひとつ。
こちらは、キカラスウリ(黄烏瓜)の実(み)かな?
閉(と)ざされた小(ちい)さな町工場(まちこうば)?の庭(にわ)にある木に巻(ま)きついた、
枯(か)れたつる草(くさ)からぶら下(さ)がっている。
キカラスウリの実は鳥(とり)たちのいいエサになる。
厳寒(げんかん)の夜(よる)に黄色(きいろ)く目立(めだ)つ色(いろ)をしてぶら下(さ)がっている実(み)を見ると、
こんな季節(きせつ)でも生(い)き物(もの)に食料(しょくりょう)を与(あた)えてくれる自然(しぜん)とはありがたいものだなァ、と思う。
この場合(ばあい)の自然は「天(てん)」と言(い)い換(か)えることができるかな?
というのは、以前(いぜん)読(よ)んだ中国(ちゅうごく)の古典(こてん)に
“大金(おおがね)持(も)ち、富者(ふしゃ)というのは天から盗(ぬす)んだものたちである。“
というようなことが書(か)かれていたことを思い出したから。
これは、大金持ち、富豪(ふごう)というのは天(自然)から多(おお)くのものを盗んでそれを独(ひと)り占(じ)めしている者(もの)たちだから、それをさらに盗んで人民(じんみん)に与(あた)えることはべつに差(さ)し支(つか)えない、というような内容(ないよう)
だったか、な・・・?
うーーーん。記憶(きおく)が曖昧(あいまい)で、ほんとうにそんなことが書かれていたかどうかわからないのだが・・・、(^^;)
書かれていたとしたら、「列子(れっし)」?
ということで、帰(かえ)って「列子」(学研・中国の古典)を引(ひ)っぱりだして、見たけど、それらしい話は見つけられない。
結構(けっこう)な量(りょう)があるので、見つけられないのは当然(とうぜん)だし、そんな話もないのかもしれない。
いつもながら自分(じぶん)のスカスカの記憶力(きおくりょく)には失望(しつぼう)する。
代(か)わりに、全然(ぜんぜん)関係(かんけい)ないけど、こんな話を見つけた。
「人(ひと)生(う)まれてより終(お)わりに至(いた)るまで、大化(たいか)に四(し)有(あ)り、嬰孩(えいがい)なり、少壮(しょうそう)なり、老耄(ろうもう)なり、死亡(しぼう)なり。」
で始(はじ)まる一節(いっせつ)で、内容(ないよう)はこういうもの。
「人間が生まれてから死ぬまでの間に四つの大きな変化がある。
それは、嬰児(えいじ)期(き)、少壮(しょうそう)期、老衰(ろうすい)期、死(し)期である。
嬰児期には精気(せいき)が外(そと)に分散(ぶんさん)することなく気(き)は純一(じゅんいつ)で柔和(にゅうわ)さが保(たも)たれている。だから、外のものに損(そこ)なわれることがなく、その徳(とく)はこの上(うえ)ないものだ。
少壮期(少青年(しょう・せいねん)期、中年(ちゅうねん)期)には血気(けっき)が横溢(おういつ)し、欲望(よくぼう)が沸(わ)き起(お)こるため外のものに攻(せ)められ、いためつけられる。
そのため徳は衰(おとろ)えてしまう。
老衰期に入ると、欲望が減衰(げんすい)して体(からだ)は休息(きゅうそく)しようとするため、外のものはこれと争(あらそ)おうとしなくなる。これは嬰児期には及(およ)ばないけれど、少壮期より、はるかにいい。
そして死亡で安息(あんそく)を得(え)て、究極(きゅうきょく)の道(みち)に帰(かえ)る。」
わたしは、老耄(ろうもう)期、だね。
この年(とし)になると、なるほどな、と思う。
生活(せいかつ)上(じょう)の苦(くる)しみ、不便(ふべん)は残(のこ)る(寒さが身にしむねえ。(笑))
けど、欲望が減衰(げんすい)した分(ぶん)、心(こころ)は軽(かる)くなって以前(いぜん)のような苦悩(くのう)や焦燥(しょうそう)といったものは無(な)くなってくる。
ま、世間(せけん)ではそれをボケというのだろうけど。(それはその通(とお)り。(笑))
老荘(ろうそう)系(けい)のこの考(かんが)え方(かた)は好(す)きだなァ。
「死」そのものについては、何といっても荘子「大宗師(だいそうし)第六」にあるこの言葉。
「(死は)これ、~いわゆる県解(けんかい)なり。」
「県解」とは、
人間が生きているということは逆(さか)さづりにされているようなものなので、
その苦刑(くけい)からの解放(かいほう)をいう。
「自(みずか)ら解(と)く能(あた)わざる者(もの)は、物(もの)之(これ)を結(むす)ぶあればなり。」
人間存在(にんげんそんざい)への執着(しゅうちゃく)が(逆さ吊りの)結(むす)び目(め)を強(つよ)くしているわけだけど、死がそれを解(と)いてくれる、という意味(いみ)。
こういう考え方には、賛否(さんぴ)、好(す)き嫌(きら)いがあるだろうけど、わたしは、なるほどと思う。
そして、
執着にとらわれた自分を「逆さづり」、と認識(にんしき)することで絶望(ぜつぼう)からも救(すく)われる。
「死は、これ、県解なり。」
この言葉(ことば)が頭(あたま)の片隅(かたすみ)にあれば、冥土への一里塚をたどる旅(たび)もそう厭(いとわ)わしいものではなくなる。
なるほど。
めでたくもありめでたくもなし。(笑)
そして、トシを取ってこうやって中国の古典を読めるというのも幸(しあわ)せなことだ。
孔子(こうし)、孟子(もうし)、老子(ろうし)、荘子(そうし)、列子(れっし・・・)、そして史記(しき)・・・、漢詩(かんし)等々。
たまらない。
コウモリのように逆さづりの状態を楽(たの)しめるのが老耄期なのかもしれない。