けさも起きて、顔を洗った後

パソコンを開いてみたら、こんなツイートが。

 

『安倍政権が「事実と異なる国会答弁」森友問題で139回。

 「衆院調査局は24日、森友学園問題に関して2017年2月から18年7月に  安倍政権が行った事実と異なる国会答弁が計139回あったと明らかにした。」』

 

これを見て、最初にわたしのアタマに浮かんだのは「ギネス登録できるのでは?」。

う~ん。わたしもかなりズレてきた。ヤバイ。(笑)

 

安倍前首相よかったね~。

政治家として世界の頂点に立ったじゃないの。(ウソの回数で。)

 

 

 

つぎに来たのが、コロナに関する一連のツイート。

 

『大阪重症者103人。(11/24)』

 

東京よりもはるかに多い!そういや、感染者数も東京を抜かした日があったような・・・。

これ、大変なことだと思うのだけど、メディアは維新の会に都合の悪い事実は絶対に大きく取り上げない。

 

これは、安倍前首相がボロを出し過ぎてもう使いものにならないと見た、庶民・弱者いじめ勢力(誰だ?)がアベ前首相やスガアベカイライ首相の後釜(あとがま)として維新に期待しているからではないだろうか?

 

とくに期待されているのが吉村大阪府知事のようで、テレビ局の下にも置かぬ丁重な扱いなどを見るとそのことがよくわかる。

 

吉村府知事といえば、何といっても、あのサラ金覇者武富士のスラップ訴訟担当弁護士だったという経歴が光っている。※

 

庶民や貧者、弱者をいじめるのにこれほど適した人材はない。

 

この次の選挙では自民党の減少分を維新が補うのだとか。

 

ということで、またもや朝っぱらから果てしなく暗い気分にさせられる。

 

他にもコロナ関連のツイートが。

 

『GOTO(私注:なんだか「強盗」と読めてきた。:(^^;))を利用する人はお金と時間に余裕がある人ばかり。観光、宿泊施設で働いている人たちは感染するかもしれないという危機感を常に感じながらも休みもないうえ、今まで通り変わらない接客をしています。GOTOを利用できない人と何度も利用している人・・・なんか腑(ふ)に落ちない。』

 

『#飲食店への自粛要請は企業への残業自粛(ざんぎょうじしゅく)要請とセットでお願いします。』

 

等々、庶民の悲鳴、呻(うめ)きが続々と・・・。

 

政府の無策(無為?)による自殺者が急増する中で、とくに女性の自殺者が増えているのは女性の非正規労働比率が高いためか?

 

しかし、死者はもう何も言えない・・・。

 

この国はこうして近代の歴史を積み重ねてきたんだなァ。

 

 

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今日は、最近またハマっている「漢詩」について書こうと思っていたのだが、突き付けられたリアルな現実が酷すぎて、そんな気分ではなくなってしまった。

 

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※スラップ訴訟(SLAPP

社会的強者(政治家や大金持ち、大企業およびその役員など)が社会的に弱い立場にいる個人や市民、被害者などを相手どり、言論の封殺(ふうさつ)や威嚇(いかく)を目的として行われる訴訟。恫喝(どうかつ)訴訟とも言われる。

 

アメリカには反スラップ法があるが、日本にはない。(日本の裁判所は徹底して強者の味方(下僕)のよう。)

政・官あげて、「弱きをくじき強きを助ける」お国柄。(自民党、維新、官僚、警察、裁判所、等々・・・。)

 

ヤバイ、書いているうちにだんだん腹が立ってきた。(笑)

 

今日はこれで書き止め~。(笑)

 

コーヒー飲んで気持ちを落ち着けよう。

けさパソコンを開いたら、

東京新聞の望月衣塑子記者のこんなツイートが届いていた。

 

『日本の研究者が育たなくなった大きな契機を作ったのが、小泉首相竹中平蔵氏が推し進めた国立大の法人化だ。2005年からの10年で日本の論文数は9850本減り、減少数はワースト1に。』

 

国立大学と言えば、東京大学法学部のような困った存在もあるが、理系はそれなりに成果を上げていたと思う。

ノーベル賞受賞者の数にそれが現れていたし、日本の高い技術も支えていた。

 

わたしは、文系は私立大学中心でもいいが、理系はやはり国の大きな支えのある体制で行くべきだと思う。

 

これまで成果を上げていた、あるいは問題なくやれていたものをいじくりまわしてダメにするというのは愚か者のやることだ。

 

これは今の改憲論者にも言えること。

 

このツイートには竹中平蔵氏のこんなコメントも載せられていたが、↓

 

『大学というのは聖域ではないということですよね。科学技術や研究費も聖域ではない。」

 

これは日本の現実からすると日本破壊工作としか言いようがない。

 

あと、竹中氏はアメリカの大学を念頭においているのかもしれないが、アメリカの有名大学というのは財閥立大学とでもいうべきものではないか?

アメリカは財閥の支配する国で、財閥国家なのだ。

                  ↑

               これはわたしの私見

 

この財閥の資力は日本国を大きく上回るだろう。

 

そこで成果が上がっているからといって日本がアメリカのマネをしてどうなるというのだ?

 

竹中平蔵氏はアメリカにお帰りになったほうがいいのではないかと思う。

(たぶん、アメリカでの永住権は獲得しておられるでしょう。)

 

                 

 あと、リテラさんからの記事も届いていた。

 

lite-ra.com

 

わたしは、トランプ大統領は戦争をしなかったからいいんじゃない?と思っていたが、こういう人たちが必死でトランプ大統領を擁護しているのを見ると、やはり、トランプさんでなくてよかったのかな~、なんて考え始めている。(笑)

 

それにしても,あの安倍政権にぶら下がっていたこういう人たちが「不正選挙」を声高に叫ぶなどというのは、もはやマンガにもならない?ブラックジョーク?(笑)

 

いやあ、朝っぱらから刺激的なこと。

今日一日が思いやられる。(笑)

さる24日(10月)の夜、

ちょっと不思議な夢を見た。

 

わたしが「近藤等則」という人のマネージャーか何かをやっていて、興行で旅をしている、という夢だった。

脈絡(みゃくらく)のある夢ではなかったが、不思議なのは「近藤等則」という名前が漢字そのままで何度も夢に出てきたこと。

 

目が覚めて、

近藤等則?どこかで聞いた名前だなァ・・・、と思ってパソコンで検索してみたら、世界的なジャズトランぺッターとある。

 

なるほど、ひょっとしたら、ジャズの演奏会のポスターか何かを見て記憶していたのかもしれない、

が、

驚いたのはその近藤等則さんが今月(10月)17日に急逝していたこと。

 

とすると、24日は近藤さんの初七日ということになる。

 

いったいどんなご縁が?

 

とても不思議な気がした。

 

ただ、夢の中ではわたしは近藤等則さんを「こんどうひとのり」と呼んでいたが、実際は「こんどうとしのり」と呼ぶらしい。

その点は違っていた。

 

ともかくこれも何かの縁であることは違いないと思ったので、近藤さんの演奏のいくつかをyoutubeで見、ご冥福をお祈りした。

 

正直、その日(25日)に見た動画の演奏は少し難しく感じた。

 

すると、今日(26日)、youtubeのオススメに、この動画があった。

 

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この演奏は素晴らしい。

さすがは世界的トランぺッターというか、たしかな魂(たましい)を感じる。

 

それにしても、この演奏にたどりつくきっかけとなったあの夢はいったい何だったのだろう?

 

夢とは不思議なもの、非合理的なものといえばそれまでなのだが・・・。

 

 

 

 

 

 

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こちらの動画、

近藤等則さんの「わたしが子どもだったころ

 

わたしも港町(というより漁師町だけど。。)に育ったので、とても懐かしい気持ちになりました。

 

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海、島、晴れた空に浮かぶ雲、そして塩田。

わたしの町には塩田はなかったのですが、隣の市には大規模な塩田がありました。

中学生時代はわたしもブラスバンド部。トロンボーンをやっていました。

 

母とのケンカもねえ、小学生時代はよくやりましたが、わたしの場合は母が涙を見せることなど一度もなく、“フン“という感じで一方的にボコられていましたっけ。(涙)

 

しかし、オルガンを買って、というのはさすがに無理がありますよねえ。

ウチは母が家のサイフを握っていたので、(父は母に明細書入りの給料袋をそのまま母に渡してました。)母にギターを買ってくれとねだったら、珍しくポンと出してくれて、少し驚いた記憶があります。

わたしがブラスバンド部で音楽をやっていたのが少し嬉しかったみたい。

でも、オルガンを買ってくれなんて言ったら蹴とばされていたかも。(^^;)

 

こうしてみると、少年時代の生活のベースは近藤さんと似ていますね。

もちろんわたしのほうが年下ですし、オール5なんてとったことないですし、京都大学の工学部に現役で?入れるような秀才でもなく、世界的トランぺッターでもないですが、その時代の瀬戸内海に面した町の雰囲気はよくわかります。

 

愛媛県といえば、わたしも小学校に入る少し前までの数年間、父の仕事の関係で愛媛県で暮らしていました。

 

と、なんだか次から次へと思い出が蘇(よみがえ)ってきます。

 

何なんでしょう。

こういうご縁というのもあるんですねえ。

そして、今回のことで何かを教えていただいたような気もします。

 

おそらく、第一線で活躍し、有名であるが故のご苦労も多い人生だったでしょう。

 いまはただただ、静かに両手をあわせて、近藤等則さんのご冥福をお祈りさせていただきたい。

 

  

 

 

この新コロナ、

、どうもよくわからないウィルスだ。

 

なんだかいろいろな病原菌をモザイクのように散りばめた病原菌のようにも思える。

ただ、人工的につくられたものなら自然界でやがて効力を失っていくのではないかと思う。

しかし、新バージョンが次々出てくるとコワイ。

用心に越したことはない。

 

三年ほど前、わたしも新コロナの前哨戦?実験段階のウィルスのようなものにやられた。(←被害妄想?)

なんだかおかしな人が周りをうろちょろしているなあ、と思っていたら、突然激しい咳に襲われた。

風邪ではない。百日咳(ひゃくにちぜき)とも症状が違う。

とにかく咳が出つづける。

昼も夜ものべつまくなしに。

熱があるわけでもなかったので、医者にも行かなかったのだけれど、とにかく苦しかった。

二週間ほど続いたかなァ。

最後はお腹(なか)全体が青紫色になってしまった。たぶん血管が切れたのではないかと思う。

いつまで続くかわからなかったので、仕方なく耳鼻咽喉科のお医者さんに行った。

お腹のこと言わなかったのだが、医者はわたしのノドを見て「うわあ」と驚いていた。

もらった薬はあまり効いたようには思わなかったが、それから2~3日するとだんだんおさまってきてやがて咳は出なくなった。

しかし、咳がおさまると、即という感じで痛風の発作が来た。

しかもこれまでにないキツイパターン。

まず右足親指の付け根にきて、それがおさまりかけると、左足親指付け根に発作が移った?。

そしてそれがおさまってくると右足のくるぶし。

このくるぶしに来た発作はこれまでで一番えげつないもので、わたしはほとんど歩けなくなった。トイレにも這(は)っていく行く始末。

後にも先にもない連続の痛風発作に見舞われ、わたしは一カ月以上七転八倒状態だった。

 

原因不明の激しい咳の後での痛風発作。

 

痛風発作と言うのは一種の免疫反応だから、ひょっとしてあれは、未知の病原菌に対するわたしの体の免疫、抵抗の結果だったのではないか、と今は考えている。(素人考えだけど。)

 

新型コロナは後遺症もいろいろあるという。

わたしのその原因不明の咳にも後遺症があった。

すべての症状がおさまってから、しばらくして、わたしはちょっとしたことで息切れをするようになった。

それまでは心肺機能には自信があって(中学・高校時代、わたしは肺活量では常に学年トップ級で長距離走も得意だった。)、スタミナにも自信があったのだが、それ以来ちょっと動くだけで息が苦しくなったり心臓の動悸が激しくなるようになった。

それは今でも続いていて、わたしはちょっとした距離を歩くにも休み休みしなければならない。

 

そういうことがある前まではいくら歩いても平気だったんだけど。

 

やはりあれは、新型コロナの実験ウィルスだったのではないだろうか?

 

・・・という妄想にかられる今日この頃。

 

ということで、

ひょっとしてわたしにはもう新型コロナの免疫があるのではないか?なんて思う時があるのだけど、やはりウィルスはコワイ。

 

密をさけて人の多いところではマスク着用。

新型コロナウィルスは大したことない、という人もいるけれど、万が一ひどいことになったりしたらタイヘン。

(マスク不要論もあるようだけど、体内に入るウィルスを減らす効果はあり、そのぶん感染しにくくなるとのこと。)

いま、用心はしてし過ぎることはないと思う。

 

 

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気候の変動が大きい。

身体と気分の変調を訴える人も多いようだ。

 

ムリせず、ムチャせず、この危機を乗り越えましょう。

 

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こちらのブログ後半で

部落差別問題について話しているのはわたしです。

 

osantati12345.blog.fc2.com

 

お馬さんの後ろをクリックしてください。

 

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わたしは、差別を解決・解消するには、差別の歴史を正確に踏まえたうえで、現状、現実をしっかり認識・把握し、全国民の問題として議論すること、

それしかないと思っています。

 

問題にフタをしてタブー化するのは最もいけないことではないかと。

 

でないと、差別解消運動そのものがおかしなものになって行くのではないでしょうか?

 

アメリカやヨーロッパでは黒人差別に対する解消運動は進んでいるようですが、

アジア人差別は野放し状態とのことです。

 

アジア人は白人だけではなく、アジア人以外の有色人種からも差別されるそうです。

 

たとえ黒人差別はなくなっても、他の人種に対する差別が残るようでは、ほんとうの差別解消とは言えないですよね。

 

差別は人種だけではなく、他にも多くのものがあり、なかには解消の運動にさえなっていない差別もあるのではないでしょうか?

 

そちらの「差別」にも目を向ける必要があるかと思います。

 

アメリカの人種差別、日本の部落「差別」は資本主義以前から続く問題ですが、資本主義が世界を支配することによって生まれた差別もあるでしょう。

 

そういった問題を考えるうえでも、差別のタブー化は避けなくてはいけない、と思います。

 

 

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この問題はここまでにしておきます。

 

最後に、

わたしは部落解放同盟の活動には敬意を表し、尊敬もしているということを付け加えておきます。

明治以降の苦しい状況の中でここまでやりきれたのは、同じ境遇の人たちのために自らを犠牲にして戦う人たちがいたからでしょう。

その結果としての団結、成果だったと思います。

 

解同はまさに日本でいま弱者として厳しい立場に立たされている人たちに欠けているものを教えてくれているのです。

 

団結と、差別解消・解放への戦い。

それを自らの手で勝ち取ってきた。

 

偉大です。

 

ただ、一言だけ言わせていただければ、虐げられた非部落民衆との連帯、共助。

わたしのような者にはこちらがもうひとつ見えにくいのです。

 

もし機会があれば、その点だけ、伺いたいと思っています。

B差別問題について。

まずはわたしのいくつかの体験から。

 

わたしは漁師町で育った。(父は漁師さんではなかったが。)

近年は半観光化され、近在の買い物客(魚)から都会の観光客までが訪ねて来るようになったらしいのだけど、

わたしが18歳で町を離れるまでは辺境の漁師町(県の東端にあった)といった感じで、観光客はおろか、近場から遊びに来る人も珍しかった。

 

わたしが小学校の高学年のころ、母の遠縁にあたり、ウチもそこをよく利用する魚屋さんの前を通りかかったとき、町の人とは明らかに違うワンクラス上の衣服を着た奥さん風の人たちが数人、買い物に来ていた。

 

それがわたしがBの人たちを見た最初。※

 

わたしの町から30分ほど電車で行った駅からさらに20分ほど山側に歩いたところにBがあって、奥さんたちはそこの人だったのだ。

 

で、差別があったかというと、ウチの町に関してはゼロ。

 

ただ、目に見えない壁のようなものはあって、Bに対するウチの町の大人の印象は

「お金持ちだけどコワイ」

というもののようだった。

 

次にわたしがBに出会ったのは高校のとき。

学区の中にBがあってそこの子弟も多くその高校に通っていた。

 

ここでも差別はゼロというか意識もしなかったのだけど、番長というか、この高校はオレがシメているんだ、みたいな同級生がいて、彼がBの人だった。

 

その勢威はたいしたもので、

その高校に通うためわたしの町や隣の町の生徒たちは電車で通学していたのだけれど、〇〇線を走るその電車は当時日本で最もガラの悪い通学電車などと言われていて、行きも帰りも電車の中はタバコの煙が充満していて、おとなしい高校生などは小さくなっていたものだった、(今となっては大昔の話ね(^^;))

が、

(もっとも絡まれそうな)サエナイ県立高校の生徒であるわたしたちはからまれることがなかった。

これは、どうやらその番長が「ウチの生徒に手を出すな」と不良高校生さんたちにお触れを出して?いたからだったようなのだ。

 

まあ、それはありがたかったのだけれど、その番長さん、わたしたち一般の生徒と必要以上に親しくなることは避けていたようなのだ。

 

当時のわたしは番長さんにも「やあ」と気軽に声をかけるほどに能天気で、向こうも「おう」と返してくれるのだけれど、

中学時代の番長とは違って、ほんとうに親しくなることはできず、その間に固い壁があるような感じだった。

そしてその壁はわたしではなく相手が立てていた。

 

いつものように挨拶をして、相手も笑顔で返事を返してくれるような時も、すぐに表情をひきしめて、「おう、あんまり格好つけないでくれよな」といって突き離すようなことを言ったりするのだ。

 

しかし、全般的に高校生活は平穏で、その番長との関係も悪くなることはなかった。むしろ“やや親しい”という感じで終始した。

最後まで壁は越えられなかったけど。

 

次は大学時代。

こちらは学生運動のかかわりで解放同盟の活動に参加することが何度かあった。

差別に関する理論もB解放同盟のものをそのまま使わせてもらっていたように思う。

とくに「言葉狩り」と後年言われるようになった言葉へのこだわりというか・・・、まあ、やはり言葉狩り。(笑)

これを論争で使えば最終兵器的な効力があった。

論争で負けそうなとき、相手の言葉をとらえてそれを攻撃すると、相手は黙(だま)った。

(わたしの行っていた大学で言葉狩りを派手にやり始めたのは実はわたしだったのだ?(笑))

 

これをもたらせた他大学出身のセクトの人は

「われわれの運動はついに言葉の問題にまで深化したのだ。」

といっていたけれど、それをやったのはB解放同盟だった。

 

わたしはそれをB解放同盟の独創と思っていたけれど、最近の言葉に関する様相を見ると、世界的傾向だったのだろう。

 

いまの私は言葉(とくに差別用語と言われるもの)については、言葉にはこだわらなくてはならないけど、その言葉自体をタブーとする(禁止する)ことについてはやや否定的な考えを持っている。

(その言葉を生んだ背景、考察すべき、反省すべき歴史まで消してはいけない。そうでないと現在のみならず未来をも誤ることになってしまう。)

 

が、言葉の問題は今以上にこだわる必要があるのかもしれない。

B差別や身障者差別に関するもの以外にも差別用語、差別の意味合いを持つ言葉が多い、というか、こちらのほうがはるかに多いのが実情なのだ。

 

ネトウヨ、ネトサポと言われる人たちを中心にネットには相手を見下した攻撃的な言葉、差別が満ち溢(あふ)れている。(テレビは差別用語?は回避したとしても番組、画面作りで。ある意味テレビは差別製造機。(普及機?))

 

小泉、安倍政権以降はとくに老人や経済的弱者、福祉受権者などに対する偏見に満ちた誹謗中傷、差別が横行している。

資本家の役に立たない、あるいは利用価値が低いと見なされた人たち、つまり生産性が低いと見なされた社会的、経済的弱者に対する差別が熾烈を極めていると言っていい状態なのだ。

 

このような状況とB差別はどのように関わっているのか?

 

次回はこのことについて少し考えてみたいと思う。

 

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もちろん、わたしの町の人たちはその人たちがBの人だなどと言うことは絶対に無く、差別的な意識もゼロだった。

それがわかったのは、中学生になってB問題が騒がれ始めたとき、その地域がBだったということを聞いたからだ。

 

中坊のわたし「この近くにBってあるの?」

大人「ああ、そういえばあそこがそうだったね。」

 

といった会話で。

 

まあ、それも言ってはいけない、聞いてもいけないことだったのだろうけど。

 

差別は民衆の差別意識言葉狩り的にいえば、差別観念と言わなくてはならないのだけど(汗))よりも、就職差別(国の問題)、結婚の障害(これも差別意識という問題とは離れていると思う。)という制度的、構造的な問題が大きいのではないかと思っている。

 

 

 

どうにも政治状況が悪すぎて、

のんびりと生活を楽しむ気分になれない。

 

そんな中、

 

こんな動画を見た。

 

[http://

久しぶりに感銘を受けた。

 

この動画はロングインタビューの一部で、この部分の前にも結婚問題にまで踏み込んだスゴイものがあるのだけれど、それはいま見ることができない?ようだ。

また見つかったらUPさせていただきたい。

 

それにしても、この動画主=モーニング宇宙ニュースの旦那さんである服部氏。

この人、今の日本では突出したインタビューアーではないだろうか?

どうやってこういうような(他にも)スゴイ人を見出すことができるのか?

ちょっと不思議な感じさえする。

 

服部氏のタブーなく、分け隔(へだ)てなく人に接することのできる“人徳“ゆえか?

 

自由な表現の困難な時代ではあるけれど息長く頑張ってほしいと思う。

 

ところで、現代ニッポンのタブーのひとつであるこのBURAKU問題。

 

日本においては政治も裁判も行政も理不尽なものが多いが、このBURAKU問題も国民にとって理不尽なものと感じられているようだ。

 

ただ、わたしがBURAKU問題で理不尽な目にあったわけではない。

 

むしろBURAKUの人たちにはお世話になったくらいなのだ。

 

昔、わたしの姉が某県某都市の清掃局の近くで喫茶店をやっていたとき、少しの間だけど、店の営業を手伝ったことがあった。

 

そこの常連のお客さんは当然のことながら清掃局の人が多く、その中でも店に来てくれるお客さんたちはほとんどがBURAKUの人たちだった、

のだが、

まあ、お客さんとしては上客もいいとこ。

毎日決まった時間に、多人数で来てくれるし、カネ離れもいい。

親しくなると家族のような雰囲気で接してくれる。(やさしい。)

姉の店はそうやって毎日律義に利用してくれるBURAKUの人たちによって潤っていた。

 

ということで、わたし個人としてはBURAKUの人たちに親しい気持ちを持っているのだが、(それ以外のところでも)

 

しかし、というか、それゆえに今のうちに解決しておかなくてはならないBURAKU問題があると思う。

 

しかも、その問題はとても大きい。

 

何より、この問題を今のようにタブーとしてブラックボックス化してはいけないだろう。

 

タブーが強いため多くの国民がBURAKU問題について語りえるほどの知識を持っていない。

 

わたしも自分の体験の範囲でしか語りえないのだ。

 

したがって、この動画の女性のようにしっかりとした体験と知識で勇気をもって語ってくれる人がいるのはすごく有難い。

 

目からウロコのお話もあった。

(BURAKUの内側での村八分の恐怖とか・・・。)

 

このお話をもとに、わたしも自分の体験から考えたことを次回、書いてみたいと思う。

 

とりあえず、押さえておきたいのは、

BURAKU差別というのは、被差別と言われたBURAKUの人たちの生活が悲惨だったり、貧しかったりしたからではないということ。

 

むしろ、BURAKUの人たちというのは、いまの日本の一般民衆よりもしっかりとしたプライドを持っていて、ある意味プライド高き人たちなのだ。

昔から経済的にも豊かで、農民が飢え死にすることはあってもBURAKUの住人が飢え死にすることはなかった。

(ただし、明治維新後は「特権」を無くされて厳しい状況に陥らされた。←BURAKU問題の始まり。)

 

そのあたりを踏まえておかないと、BURAKU差別の「差別」を見誤ってしまう。

 

あと、以前ブログで取り上げた江戸時代中期の思想家山県大弐さんも言っている通り、江戸時代の士ー農ー工ー商ー〇〇ー〇〇〇とは身分差別というより職業区分の意味合いが強かった、ということ。

もともと士農工商というのは古代中国での職業区分で、江戸幕府もその「職業区分」をもとにして国を作り上げていた、ということだろう。

 

まァ、「差別」といえば、漁師町で育ったわたしなども、豊かな農村の人たちからウチの町(漁師町)がやや差別(とまではいかないか?)されているように感じることもあったといえばあったわけで、BURAKU差別の「差別」にもそういう面はあったろう。

(わたしの育った町の人たちはほとんど浄土真宗だったわけだけど、BURAKUの人たちもほとんどが浄土真宗。)

この話にも触れることがあるかな?

 

とにかく、この勇気ある出色の女性のお話を聞くことができたわけだから、わたしもこの機会にBURAKU差別について改めて考えてみたいと思う。