わたし(自分(じぶん))が見(み)ているものは

すべて幻想(げんそう)である。

 

これまで信(しん)じることのできなかった考(かんが)えだけど、

トシのせいか、最近(さいきん)、なんとなく「そうかな~」という気(き)になってきた。(笑)

 

この世(よ)のすべてのものには実体(じったい)がない、とするのは大乗仏教(だいじょうぶっきょう)の基本的(きほんてき)な考(かんが)えだけど、最近(さいきん)では、物(もの)そのものを扱(あつか)う物理学(ぶつりがく)でも、それ(この世界(せかい)は幻想(げんそう)である)を否定(ひてい)できなくなっているらしい。

人間原理(にんげんげんり)なんてのまで出(で)てきたりね。

 

「もうここまで来たら、物理学者(ぶつりがくしゃ)さんはみんな仏教徒(ぶっきょうと)になりなさい。

ゲーデルの「不完全性定理(ふかんぜんせいていり)」で科学(かがく)の限界(げんかい)も示唆(しさ)されているわけだし。」

と言(い)いたいけど、仏教(ぶっきょう)も残念(ざんねん)ながら「完全(かんぜん)」とは言(い)い難(がた)いし、いうまでもなく、仏教(ぶっきょう)と科学(かがく)は別物(べつもの)。同一線上(どういつせんじょう)で考えるものではない。

 

・・・。うーん。仏教(ぶっきょう)が完全(かんぜん)ではないという言(い)い方(かた)は適切(てきせつ)ではないかな・・・。

まあ・・・、今(いま)が、末法(まっぽう)もしくは法滅(ほうめつ)の世(よ)の中(なか)であるから、そう思(おも)うのかもしれない。

 

だから、苦(くる)しむ有情(うじょう=生(い)きとし生けるもの)を救(すく)うために、弥勒菩薩(みろくぼさつ)は兜率天(とそつてん)で56億7千万年にわたる修行(しゅぎょう)をしているわけで・・・。(誰(だれ)だって"長(なが)すぎ“と思うよなァ。(^^;))

 

ちなみに、弥勒菩薩マイトレーヤは実在(じつざい)で、唯識(ゆいしき)思想(しそう)をはじめて組織的(そしきてき)に展開(てんかい)した人(ひと)だとされている。

マイトレーヤ唯識思想を引(ひ)き継(つ)いで、唯識論(ゆいしきろん)として完成(かんせい)させたのが無著〖むじゃく=アサンガ)、世親(せしん=ヴァスバンドゥ)の兄弟(きょうだい)で、奈良(なら)の興福寺(こうふくじ)には弥勒菩薩像(みろくぼさつぞう)の両脇(りょうわき)に無著像(むじゃくぞう)、世親像(せしんぞう)が立(た)っている。

https://stat.ameba.jp/user_images/20171202/10/yo-ikaru/bc/fd/j/o1072112814082598224.jpg

西遊記(さいゆうき)」で知(し)られる玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の旅(たび)は、世親(せしん)の唯識論(ゆいしきろん)を求(もと)めてのものだったわけで、玄奘と同室(どうしつ)で修行(しゅぎょう)することが許(ゆる)された道照(どうしょう)を通(つう)じて、玄奘(げんじょう)の唯識論(ゆいしきろん)が日本にもたらされたんだね。

 

と、

あれ?ずいぶん抹香(まっこう)くさい?ことを書(か)いているなァ。(笑)

でも、ま。トシをとればこれでいいんだよ。(笑)

 

・・・、ふと気(き)がつけば、1月(いちがつ)も、もう14日(じゅうよっか)。

年(とし)が明(あ)けてから2日(ふつか)しか外出(がいしゅつ)していない。

運動不足(うんどうぶそく)もいいとこだ。

これではよぼよぼにさらに拍車(はくしゃ)がかかる、ということで、久(ひさ)しぶりに夜散歩(よるさんぽ)。(^^)

       

 思(おも)ったほど寒(さむ)くない。

 

晴(は)れた夜空(よぞら)に煌煌(こうこう)と光(ひか)る満月(まんげつ)。

       

      

1月(いちがつ)の満月(まんげつ)をアメリカ先住民(せんじゅうみん)は狼月(おおかみづき)、と呼(よ)んでたそうで、いまでもアメリカではウルフムーンと言うのだとか。

 

右上(みぎうえ)に火星(かせい)さん。

 

ちょっと拡大してみると、

あれ?お月(つき)さんの左側(ひだりがわ)に何(なに)か丸(まる)いものが、

 

けっこう大(おお)きいよねえ。星(ほし)ではないみたいだ。

肉眼(にくがん)で見(み)ると、・・・見えない。何(なに)も。

 

でも、カメラ(スマホ)を通(とお)してだと見(み)える。

移動(いどう)してる?


もしかしたら、

www.youtube.com

 1978年の歌(うた)なんだ。

このころはまだ20歳代(にじゅっさいだい)だったなあ・・・。

ゆっふぉう。

          閑話休題(それはさておき)

                                                                                        (^^;)

 

 いやあ、ボケてくるといろいろ不思議(ふしぎ)なことがあるものです。(笑)

 

それにしても、身(み)の回(まわ)りからどんどん物(もの)がなくなっていくのはどういうことだ!

100均(ひゃっきん)で買(か)ったイチョウ葉(ば)エキスを飲(の)んだり、いろいろとやっているんだけどなァ・・・。 

 

          

 

 

 

師走(しわす)らしい風景(ふうけい)になってきた。



 

 

 

 


夜(よる)、石油(せきゆ)ストーブをつけて、温(あたた)かいお茶(ちゃ)を飲(の)みながら、今年(ことし)の大(おお)みそかはどうしようと考える。

 

除夜(じょや)の鐘(かね)が聞(き)きたいなァ。

 

ということで、

ネットで東京(とうきょう)・除夜の鐘で検索(けんさく)すると、

「東京の除夜の鐘ランキング」というのがあった。(笑)

 

1位 築地本願寺(つきじほんがんじ)

 

2位 増上寺(ぞうじょうじ)

 

3位 法明寺(ほうみょうじ)

 

4位 柴又帝釈天(しばまたたいしゃくてん)

 

5位 西新井大師(にしあらいだいし)

 

6位 池上本門寺(いけがみほんもんじ)

 

7位 新井薬師(あらいやくし)

 

8位 品川寺(ほんせんじ)

 

9位 吸江寺(きゅうこうじ)

 

なのだそうだ。(笑)

 

しかし、どこも遠(とお)いなあ・・・。

 

除夜の鐘に宗旨(しゅうし)は関係(かんけい)ないと思うので、この中(なか)で最(もっと)も近(ちか)いお寺(てら)に行(い)こうかな、と思う。

例年(れいねん)以上(いじょう)に恥(はじ)をかき続(つづ)けたこの一年(いちねん)。

 

煩悩(ぼんのう)を払(はら)って、すべて忘(わす)れよう。(笑)

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

“ 命(いのち)長(なが)ければ 恥(はじ)多(おお)し “

 

最近(さいきん)、とみに実感(じっかん)する。

このことわざは老人(ろうじん)が作(つく)ったものだろう。

トシをとらないとわからない。(笑)

 

 

 

 

 

 






 

一昨日(おととい)の日暮(ひぐ)れ前(まえ)。

あれ?小(ちい)さな丸(まる)い雲(くも)が、と最初(さいしょ)は思(おも)ってしまったけど、よく見(み)たら、月(つき)だった。

 

明(あか)るいうちに出(で)る月(つき)は白(しろ)いんだー、と改(あらた)めて感心(かんしん)している72歳(ななじゅうにさい)。(^^;)

 

12月(じゅうにがつ)も気(き)がつけばもう中旬(ちゅうじゅん)。

急激(きゅうげき)に気温(きおん)が下(さ)がって、年寄(としよ)りにはきつい寒(さむ)さになってきた。

 

エアコンが故障(こしょう)したままなので(笑)、 小型(こがた)の石油(せきゆ)ストーブを購入(こうにゅう)

              これ →   

マッチやライターで火(ひ)をつける古(ふる)いタイプの石油(せきゆ)ストーブで、値段(ねだん)は6000円。(石油ストーブ最安値(さいやすね)?)

 

 何十年(なんじゅうねん)かぶりに室内(しつない)で嗅(か)いだ灯油’とうゆ)の匂(にお)い。

ふと、故郷(こきょう)の町(まち)を思(おも)い出(だ)す。

 

雪(ゆき)は降(ふ)っても積(つ)ることはほとんどないような地域(ちいき)だったけど、真冬(まふゆ)の底冷(そこび)えは厳(きび)しかった。

そんな寒(さむ)い日(ひ)、店先(みせさき)から灯油(とうゆ)の匂(にお)いが漏(も)れる、日(ひ)の暮(く)れた路地(ろじ)を歩(ある)いて友達(ともだち)の家(いえ)やお好(この)み焼(や)き屋(や)に行(い)っていた中坊(ちゅうぼう)のころのわたし。

生意気(なまいき)盛(ざか)りだったけれど、今(いま)で言(い)う、中二病(ちゅうにびょう)※とは違(ちが)っていたかな。

 

※(中二病とは、中学(ちゅうがく)2年生(にねんせい)のころの思春期(ししゅんき)にみられる、自分(じぶん)をよく見(み)せようとする背伸(せの)びや、自己顕示欲(じこけんじよく)と劣等感(れっとうかん)を交錯(こうさく)させたひねくれた物言(ものい)いなどの言動(げんどう)や態度(たいど)を揶揄(やゆ)する俗語(ぞくご)。=AI解説(かいせつ)w)

 

時代(じだい)もあるのかもしれないけれど、ど田舎(いなか)の漁師町(りょうしまち)では中二病にかかる余地(よち)も無(な)かったと思(おも)う。(笑)

(その分(ぶん)、都会(とかい)に出(で)てから苦戦(くせん))したなァ。)

 

のどかと言(い)えばのどか、未開(みかい)と言えば未開の町(まち)で暮(く)らしていたわたしの中二(ちゅうに)のころ、日本で何(なに)があったか、ちょっとと調(しら)べてみたら、

 

・ 日本(にほん)の人口(じんこう)がはじめて1億人(いちおくにん)を越(こ)え、

・ ビートルズが武道館(ぶどうかん)で公演(こうえん)して、

・ ウルトラマンの放送(ほうそう)が開始(かいし)された

 

ということがあった年(とし)らしい。

 

そうだったんだ。

 

しかし、そのころの時代(じだい)を象徴(しょうちょう)するものとして、わたしの記憶(きおく)に残(のこ)っているものは、ひょっこりひょうたん島(じま)、かな。

ひょっこりひょうたん島(じま)のピークはわたしの中学生(ちゅうがくせい)時代(じだい)ではないかなァ。

わたしの町(まち)の子(こ)どもたちのほとんどが見(み)ていたと思(おも)う。

生徒会(せいとかい)の選挙(せんきょ)では、ドンガバチョの「みなさーん」は定番(ていばん)で、やったもの勝(が)ちだった。

 

あの、今(いま)でも耳(みみ)に残(のこ)る“みなさーん"が聞(き)きたくてyoutubeで映像(えいぞう)を探(さが)したが、オープニングのテーマ曲(きょく)と初期(しょき)の動画(どうが)はあったけれど、  

  (1964年は東京オリンピックの年で、わたしはまだ小坊(しょうぼう)。)

www.youtube.com

 

ドンガバチョのその場面(ばめん)は見つけることができなかった。

dvdはどうなんだろうと思(おも)ったが、オリジナルの映像(えいぞう)はごく一部(いちぶ)だけしか残(のこ)っていないようだ。

もっとも面白(おもしろ)かった1965年、1966年あたりのものはもう見ることができないのだろう。

テレビ映像(えいぞう)、snsの動画(どうが)なんてのははかないものなんだな。

むしろ、それより昔(むかし)の映画だとか本(ほん)、雑誌(ざっし)のほうがしっかり残(のこ)っていたりする。

 

日本の「保存(ほぞん)」の能力(のうりょく)も低下(ていか)しているのかな?

 

過去(かこ)が消(き)え去(さ)るのは当然(とうぜん)だけど、

過去(かこ)とのつながりも希薄化(きはくか)している、というのはどうなんだろう?

 

過去(かこ)にとらわれすぎる老人(ろうじん)もどうかとは思うが。

 

いうまでもないことだが、過去と現在(げんざい)はまったく違(ちが)う世界(せかい)だ。

高齢者(こうれいしゃ)はこのことをしっかりと自覚(じかく)する必要(ひつよう)がある。

しかし、現代(げんだい)はあまりにも過去(かこ)から学(まなぶ)ぶことが少(すく)ないようにも思うのだ。

 

わたしも石油ストーブの匂いで昔の世界に一瞬(いっしゅん)入(はい)り込んだ気持(きも)ちになったけど、それは、そのころと今(いま)は、まったく別(べつ)の世界(せかい)なのだ、ということを今さらながらに思い知らされることになった。

 

しかし、(60年前と同(おな)じ造(つく)りの)この超(ちょう)レトロストーブには愛着(あいちゃく)がわきそうだ。(笑)

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

近年(きんねん)、人(ひと)の命(いのち)が急速(きゅうそく)に軽(かる)くなっているように感(かんじ)じる。

日本人(にほんじん)に対(たい)してエントロピー増大(ぞうだい)の法則(ほうそく)が働(はたら)いているのかな?(ex.貧富(ひんぷ)の差(さ)の拡大(かくだい)、政府(せいふ)による庶民(しょみん)、弱者(じゃくしゃ)の生命(せいめい)軽視(けいし)。)

 

うーーーむ。

日本はひょっこりひょうたん島ならぬ、漂流(ひょうりゅう)する鬼(おに)ヶ島(しま)になってしまったのだー。(笑)

 

                

あ、換気(かんき)しなくては。(酸欠(さんけつ))。(笑)

 

.........................................................................................................................................

 

駅前(えきまえ)でわたしと同年配(どうねんぱい)とおぼしき女性(じょせい)がひとりビラを配(くば)っていた。

 

この世(よ)の中(なか)をなんとかしなくては、と、まだがんばっている。

女(おんな)の人(ひと)は偉(えら)いなあ、たくましいなあ、強(つよ)いなあ。

わたしなんか世捨(よす)て人(びと)になり果(は)てているのに。

トシをとると男(おとこ)はダメだ。(言(い)い訳(わけ))

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

11月23日18時30分の西(にし)の空(そら)。

宵(よい)の明星(みょうじょう)、金星(きんせい)が輝(かがや)いている。

そして、東(ひがし)の空(そら)には木星(もくせい)が

薄雲(うすぐも)のうしろにぼんやり、

と思(おも)ったら、すぐに出(で)てくれた。

買(か)い物(もの)帰(がえ)りの遅(おそ)い時間(じかん)になると、雲(くも)も晴(は)れて、よりくっきり。

 

木星(もくせい)を)見(み)ていると心(こころ)が落(お)ち着(つ)く。

 

誰(だれ)もいない公園(こうえん)で木星(もくせい)に向(む)かって頭(あたま)を垂(た)れていると、大切(たいせつ)なことを教(おし)えてくれているような気持(きもち)になる。

 

わたしは密(ひそ)かに木星木星(もくせい)大菩薩(だいぼさつ)と呼(よ)んでいる。

 

46億(おく)歳(さい)といわれる木星と比(くら)べると、わたしの人生(じんせい)なんて存在(そんざい)したか、しなかったかほどの一瞬(いっしゅん)でしかないだろう。

 

それでも、木星も無常(むじょう)からは逃(のが)れられない。

太陽(たいよう)の寿命(じゅみょう)はあと50億年(おくねん)くらいで、太陽の最期(さいご)の前(まえ)の膨張(ぼうちょう)で地球(ちきゅう)は太陽に飲(の)み込(こ)まれる、というから、木星の寿命もそれくらいか、

 

と思(おも)ったら、太陽に飲み込まれるのは地球までで、木星は無事(ぶじ)?(^^;)

 

しかし、この世(よ)のものにはすべて終(お)わりがある以上(いじょう)、木星もいつかなくなることは間違(まちが)いない、

のだろうな。

こんなこと考(かんが)えて木星さんには悪(わる)いけど。(笑)

 

1人(ひとり)1宇宙(いちうちゅう)の唯識(ゆいしき)論(ろん)によると、わたしが見ている木星はわたしの宇宙(うちゅう)の46億歳の木星であって、わたしがいなくなるとわたしの見ている木星も無くなるらしい。

 

けど、それ以上(いじょう)に、わたしも木星も、一瞬(いっしゅん)、一瞬に、消滅(しょうめつ)しているようなのだ。

 

人間(にんげん)には眼識(がんしき)、耳識(じしき)、鼻識(びしき)、舌識(ぜつしき)、身識(しんしき)、意識(いしき)、末那識(まなしき)、阿頼耶識(あらやしき)という八識(はちしき)があって、その八識すべてが一瞬(いっしゅん)、一瞬の消滅(しょうめつ)を繰(く)り返(かえ)しているという。

したがって、人間には常住(じょうじゅう)、不変(ふへん)の我(われ・が)はない、ということになるのだけれど、世界(せかい)も諸行無常(しょぎょうむじょう)なので、世界にも常住(じょうじゅう)の本体(ほんたい)というものは無(な)く、自分(じぶん)も、環境(かんきょう)を含(ふく)めた世界も無自性(むじせい)、空(くう)なのだという。

 

ではなぜ一瞬、一瞬の消滅(しょうめつ)を繰(く)り返(かえ)しているのに、世界は存続(そんぞく)し、われわれが業(ごう)を持(も)った人間として生(う)まれているのか、というと、

過去(かこ)自体(じたい)は消(き)えても、そのもの自体の情報(じょうほう)、出来事(できごと)、行為(こうい)、考(かんが)えなど、すべての情報(じょうほう)が阿頼耶識(あらやしき)に貯蔵(ちょぞう)され、その情報がずっと相続(そうぞく)されて輪廻転生(りんねてんせい)し、われわれ自身(じしん)、また業(ごう)として出現(しゅつげん)する、というのが唯識論(ゆいしきろん)の考えらしい。

 

唯識論(ゆいしきろん)というのはすごいけど、読(よ)んでいると、もう難(むつか)しいのなんの。

だからどうなんだ、ってイヤになって来(く)る。(笑)

 

今(いま)さらながら、奈良時代(ならじだい)、平安時代(へいあんじだい)、鎌倉時代かまくらじだい)の日本(にほん)の仏教(ぶっきょう)のレベルの高(たか)さに驚(おどろ)かされる。

 

それにしても、行為(こうい)のすべてが情報(じょうほう)として阿頼耶識に貯蔵され、過去(かこ)から現在(げんざい)未来(みらい)へと輪廻転生(りんねてんせい)する、というのはコワイねえ。

悪いことをしてはいけない、ということだ。

 

諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行 (しゅぜんぶぎょう)

悪(わる)いことをしてはいけません、善(よ)いことをしましょう  (法句経(ほっくぎょう))

聖徳太子(しょうとくたいし)の遺言(ゆいごん)として伝(つた)えられている。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

面白(おもしろ)いのは、

「情報(じょうほう)は決(けっ)して消滅(しょうめつ)しない。」

ということが物理学(ぶつりがく)(量子力学(りょうしりきがく))の大原則(だいげんそく)になっていることだ。

 

かつて、例外(れいがい)として、ブラックホールの蒸発(じょうはつ)によってブラックホールに飲(の)み込(こ)まれた物質(ぶっしつ)の(ブラックホールの表面(ひょうめん)に書(か)かれていた)情報も消滅する、と考えられたことがあったが、今ではそれも否定(ひてい)されているという。

                                  ^^

 

 

 

きょうは2024年11月11日

169年前(ねんまえ)の、1855年11月11日には安政(あんせい)地震(じし

ん)があった。マグニチュード7クラスで、震度(しんど)は6くらいだったようだ。

死者(ししゃ)は4000人から1万人(まんにん)。

江戸時代(えどじだい)だから数字(すうじ)がアバウトなのは仕方(しかた)ない。(^^;)

 

杖(つえ)をついてゆっくり歩(ある)きながら、見上(みあ)げる東京(とうきょう)の空(そら)。

 

 

 

 

 

秋(あき)の空(そら)、という感(かん)じではないよなあ。

 

どこかで地震がありそうな、気(き)になる雲(くも)、くらいにしか思えない。(笑)

 

3年前までは鮮(あざ)やかな紅葉(こうよう)で目(め)を楽(たの)しませてくれていたドウダンツツジの植(う)え込(こ)み

 

なのだけど・・・

去年(きょねん)は夏(なつ)の暑(あつ)さで半枯(はんが)れ状態(じょうたい)に。

 

今年(ことし)もダメみたいだ。

 

なんだかねえ、

色づく前に枯葉となって落葉した木も目立つ



 

わたしは温暖化(おんだんか)なんて信(しん)じていないのだけど、植物(しょくぶつ)の変化(へんか)などを見(み)ていると、複雑(ふくざつ)な気持(きも)ちにはなる。

 

でもまあ、暑(あつ)かろうが寒(さむ)かろうが、生(い)きていればそれでいいではないか、と思(おも)うのが老人(ろうじん)。

 

一句(いっく)捻(ひね)ろうか

 

    我(わ)が心(こころ) 誰(だれ)に語(かた)らん 秋(あき)の空(そら)

 

どうだい、スゴイ名句(めいく)だろう、

 

って、ウソ、ウソ、(^^;)

わたしには俳句(はいく)は作(つく)れない。

 

これは連歌(れんが)中興(ちゅうこう)の祖(そ)といわれる心敬(しんけい)の句(く)。

 

応仁(おうにん)の乱(らん)のころに活躍(かつやく)した人で、

時代(じだい)を反映(はんえい)して、

 

今(いま)の世(よ)は 花(はな)もつるぎの うえ木(き)にて 人の心(こころ)を ころす春(はる)かな

 

という和歌(わか)もある。

 

いつの時代(じだい)も大変(たいへん)だったんだよなあ。

 

なんだかんだ、今(いま)は戦争(せんそう)がないだけ、マシな世(よ)の中(なか)なのだろう。

ちょっと天災(てんさい)が多(おお)すぎる、という気(き)はするけど。

昨日(きのう)は図書館(としよかん)で

本(ほん)を返却(へんきゃく)した後(あと)、パン屋(や)さんの二階(にかい)で一服(いっぷく)。

これで363円。(^^)

 

しばし思索(しさく)にふける・・・

(電気代(でんきだい)ガス代などの公共料金(こうきょうりょうきん)、その他(た)もろもろの生活費(せいかつひ)・・・、今月(こんげつ)は(も)苦(くる)しいなあ・・・(T-T)などなど。)

 

考(かんが)えることが多(おお)すぎて(笑)

 

俯(うつむ)きながらたどる帰(かえ)り道(みち)。

ふと横(よこ)を見(み)ると

 

あれ?月(つき)?大(おお)きい。

 


帰(かえ)って調(しら)べるとこの日(10月16日)の月は2024年で最(もっとも)も大きい満月(まんげつ)、スーパームーンだったのだとか。

 

わたしは満月(まんげつ)の光(ひかり)は苦手(にがて)なのだが、こんな朧月(おぼろづき)だといい。

 

10月も中旬(ちゅうじゅん)を過(す)ぎたのに、まだへんに蒸(む)す。

 

今日も時折(ときおり)雨(あめ)の落(お)ちる曇天(どんてん)。

 

紅葉(こうよう)することもなく葉(は)を落(お)とした木々(きぎ)が目立(めだ)つ。

 

2年ほど前(まえ)までは秋(あき)を感(かん)じて心慰(こころなぐさ)められた場所(ばしょ)が、いまは殺伐(さつばつ)としている。

秋(あき)のお彼岸(ひがん)から、

気温(きおん)がストンと落(お)ちて、かなり過(す)ごしやすくなったものの、今年(ことし)の夏(なつ)の暑(あつ)さは苦(くる)しいほどだった。

 

とくに、延々(えんえん)と続(つづ)く熱帯夜(ねったいや)には痛(いた)めつけられた。

 

おかげで、ひどい夏バテというか、全身疲労(ぜんしんひろう)状態(じょうたい)が続(つづ)いている。

 

近所(きんじょ)のお年寄(としよ)りも次(つぎ)から次へ、という表現(ひょうげん)が大(おお)げさではないほどに亡(な)くなっていった。

地域(ちいき)の掲示板(けいじばん)に張(は)り出(だ)される訃報(ふほう)で顔見知(かおみし)りの人の名前(なまえ)を見ると、なんともいえない気持ちになる。

 

昨日(さくじつ)は雨(あめ)がぽつぽつ降(ふ)る中(なか)、薬(くすり)をもらいに病院(びょういん)へ。

 

こちらの病院に通(かよ)い始(はじ)めて、足(あし)かけ4年くらいになるのかな。

常時(じょうじ)200近(ちか)くあって時(とき)には230、240くらいになっていた血圧(けつあつ)が、今(いま)は140前後(ぜんご)で落(お)ちついている。

薬(くすり)のおかげとはいえ、副作用(ふくさよう)をまったく感(かんじ)じることなく正常(せいじょう)な血圧(けつあつ)が維持(いじ)されていることはありがたいことだし、すごいことだと思う。

 

ここ数年(すうねん)、持病(じびょう)の高血圧(こうけつあつ)に加(くわ)え、頚椎症(けいついしょう)、前立腺肥大症(ぜんりつせんひだいしょう)と、次々(つぎつぎ)とやっかいな病気(びょうき)に襲(おそ)われたのだけど、いずれも病院ガチャ、お医者さんガチャが「当たり」で、いずれも後遺症(こういしょう)なしで完治(かんち)(高血圧は薬(くすり)を服用(ふくよう))しているのは、ありがたいことだ。

(この間(かん)治療(ちりょう)にあたってくれたお医者さんには大感謝(だいかんしゃ)。)

 

不運(ふうん)に満(み)ちた人生(じんせい)を歩(あゆ)んできたわたしを、ここに来(き)てやっと運命(うんめい)のおばちゃん(女神(めがみ)とは言わない(笑))が憐(あわ)れんでくれたか?

 

ともあれ、

おかげさまで病気(びょうき)が克服(こくふく)できて健康生活(けんこうせいかつ)万々歳(ばんばんざい)、\(^0^)/

 

と言いたいところだが、

なかなかそういかないのは、この数年(すうねん)でひどく老化(ろうか)が進(すす)んだからだ。

 

白髪(しらが)はともかく、目(め)、耳(みみ)、アタマ(物忘(ものわす)れ、ボケ)、足腰(あしこし)、スタミナ、その他(た)もろもろ。

 

とくに「寿命(じゅみょう)」がきたかのような目の状態(じょうたい)がひどい。

もともと白内障(はくないしょう)、黄斑前膜症(おうはんぜんまくしょう)という病気があることに加(くわ)えて、最近(さいきん)では目のポテンツがかなり弱(よわ)ってきた。

 

読書(どくしょ)が最大(さいだい)の楽(たの)しみ、生きがいとなっているわたしにとって、これはキツイ。

 

老化(ろうか)はお医者さまでも草津(くさつ)の湯(ゆ)でも治(なお)しゃせぬ~♪(涙)

???(そうとも限(かぎ)らないか。(笑))

 

とはいっても、この齢(とし)になって、はじめて

華厳経(けごんきょう)、唯識論(ゆいしきろん)の人生(じんせい)における大切(たいせつ)さに気がついてしまって、

いままで以上(いじょう)に読書の必要性(ひつようせい)を感じているわたしにとっては(ききかん)のようなものさえある。

 

深(ふか)い修行(しゅぎょう)なしにはほんとうの理解(りかい)は不可能(ふかのう)であるとされる唯識論(ゆいしきろん)なのだけど、目とわたしの生命力(せいめいりょく)ぎりぎりまで知識(ちしき)を得(え)られたら、と思う。

 

ここまできたら、徹底(てってい)して我執(がしゅう)を貫(つらぬ)くしかない。

執念(しゅうねん)じゃ~。(笑)

 

(知識欲(ちしきよく)も修行(しゅぎょう)なくしては我執(がしゅう)でしかない、というのが仏教(ぶっきょう)の立場(たちば)らしい。)

 

いいじゃないの。

あとはナムアミダブツ。(笑)

 

夏(なつ)の高温(こうおん)に適応(てきおう)したのか、

今年(ことし)は植物(しょくぶつ)が例年(れいねん)以上(いじょう)に大(おお)きく育(そだ)って繁茂(はんも)しているようだ。

 

昼(ひる)歩(ある)いても、夜(よる)歩(ある)いても、心地(ここち)よい季節(きせつ)になってきた。