こちらのブログ後半で

部落差別問題について話しているのはわたしです。

 

osantati12345.blog.fc2.com

 

お馬さんの後ろをクリックしてください。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

わたしは、差別を解決・解消するには、差別の歴史を正確に踏まえたうえで、現状、現実をしっかり認識・把握し、全国民の問題として議論すること、

それしかないと思っています。

 

問題にフタをしてタブー化するのは最もいけないことではないかと。

 

でないと、差別解消運動そのものがおかしなものになって行くのではないでしょうか?

 

アメリカやヨーロッパでは黒人差別に対する解消運動は進んでいるようですが、

アジア人差別は野放し状態とのことです。

 

アジア人は白人だけではなく、アジア人以外の有色人種からも差別されるそうです。

 

たとえ黒人差別はなくなっても、他の人種に対する差別が残るようでは、ほんとうの差別解消とは言えないですよね。

 

差別は人種だけではなく、他にも多くのものがあり、なかには解消の運動にさえなっていない差別もあるのではないでしょうか?

 

そちらの「差別」にも目を向ける必要があるかと思います。

 

アメリカの人種差別、日本の部落「差別」は資本主義以前から続く問題ですが、資本主義が世界を支配することによって生まれた差別もあるでしょう。

 

そういった問題を考えるうえでも、差別のタブー化は避けなくてはいけない、と思います。

 

 

//////////////////////////////////////////////////////////////////

 

この問題はここまでにしておきます。

 

最後に、

わたしは部落解放同盟の活動には敬意を表し、尊敬もしているということを付け加えておきます。

明治以降の苦しい状況の中でここまでやりきれたのは、同じ境遇の人たちのために自らを犠牲にして戦う人たちがいたからでしょう。

その結果としての団結、成果だったと思います。

 

解同はまさに日本でいま弱者として厳しい立場に立たされている人たちに欠けているものを教えてくれているのです。

 

団結と、差別解消・解放への戦い。

それを自らの手で勝ち取ってきた。

 

偉大です。

 

ただ、一言だけ言わせていただければ、虐げられた非部落民衆との連帯、共助。

わたしのような者にはこちらがもうひとつ見えにくいのです。

 

もし機会があれば、その点だけ、伺いたいと思っています。

B差別問題について。

まずはわたしのいくつかの体験から。

 

わたしは漁師町で育った。(父は漁師さんではなかったが。)

近年は半観光化され、近在の買い物客(魚)から都会の観光客までが訪ねて来るようになったらしいのだけど、

わたしが18歳で町を離れるまでは辺境の漁師町(県の東端にあった)といった感じで、観光客はおろか、近場から遊びに来る人も珍しかった。

 

わたしが小学校の高学年のころ、母の遠縁にあたり、ウチもそこをよく利用する魚屋さんの前を通りかかったとき、町の人とは明らかに違うワンクラス上の衣服を着た奥さん風の人たちが数人、買い物に来ていた。

 

それがわたしがBの人たちを見た最初。※

 

わたしの町から30分ほど電車で行った駅からさらに20分ほど山側に歩いたところにBがあって、奥さんたちはそこの人だったのだ。

 

で、差別があったかというと、ウチの町に関してはゼロ。

 

ただ、目に見えない壁のようなものはあって、Bに対するウチの町の大人の印象は

「お金持ちだけどコワイ」

というもののようだった。

 

次にわたしがBに出会ったのは高校のとき。

学区の中にBがあってそこの子弟も多くその高校に通っていた。

 

ここでも差別はゼロというか意識もしなかったのだけど、番長というか、この高校はオレがシメているんだ、みたいな同級生がいて、彼がBの人だった。

 

その勢威はたいしたもので、

その高校に通うためわたしの町や隣の町の生徒たちは電車で通学していたのだけれど、〇〇線を走るその電車は当時日本で最もガラの悪い通学電車などと言われていて、行きも帰りも電車の中はタバコの煙が充満していて、おとなしい高校生などは小さくなっていたものだった、(今となっては大昔の話ね(^^;))

が、

(もっとも絡まれそうな)サエナイ県立高校の生徒であるわたしたちはからまれることがなかった。

これは、どうやらその番長が「ウチの生徒に手を出すな」と不良高校生さんたちにお触れを出して?いたからだったようなのだ。

 

まあ、それはありがたかったのだけれど、その番長さん、わたしたち一般の生徒と必要以上に親しくなることは避けていたようなのだ。

 

当時のわたしは番長さんにも「やあ」と気軽に声をかけるほどに能天気で、向こうも「おう」と返してくれるのだけれど、

中学時代の番長とは違って、ほんとうに親しくなることはできず、その間に固い壁があるような感じだった。

そしてその壁はわたしではなく相手が立てていた。

 

いつものように挨拶をして、相手も笑顔で返事を返してくれるような時も、すぐに表情をひきしめて、「おう、あんまり格好つけないでくれよな」といって突き離すようなことを言ったりするのだ。

 

しかし、全般的に高校生活は平穏で、その番長との関係も悪くなることはなかった。むしろ“やや親しい”という感じで終始した。

最後まで壁は越えられなかったけど。

 

次は大学時代。

こちらは学生運動のかかわりで解放同盟の活動に参加することが何度かあった。

差別に関する理論もB解放同盟のものをそのまま使わせてもらっていたように思う。

とくに「言葉狩り」と後年言われるようになった言葉へのこだわりというか・・・、まあ、やはり言葉狩り。(笑)

これを論争で使えば最終兵器的な効力があった。

論争で負けそうなとき、相手の言葉をとらえてそれを攻撃すると、相手は黙(だま)った。

(わたしの行っていた大学で言葉狩りを派手にやり始めたのは実はわたしだったのだ?(笑))

 

これをもたらせた他大学出身のセクトの人は

「われわれの運動はついに言葉の問題にまで深化したのだ。」

といっていたけれど、それをやったのはB解放同盟だった。

 

わたしはそれをB解放同盟の独創と思っていたけれど、最近の言葉に関する様相を見ると、世界的傾向だったのだろう。

 

いまの私は言葉(とくに差別用語と言われるもの)については、言葉にはこだわらなくてはならないけど、その言葉自体をタブーとする(禁止する)ことについてはやや否定的な考えを持っている。

(その言葉を生んだ背景、考察すべき、反省すべき歴史まで消してはいけない。そうでないと現在のみならず未来をも誤ることになってしまう。)

 

が、言葉の問題は今以上にこだわる必要があるのかもしれない。

B差別や身障者差別に関するもの以外にも差別用語、差別の意味合いを持つ言葉が多い、というか、こちらのほうがはるかに多いのが実情なのだ。

 

ネトウヨ、ネトサポと言われる人たちを中心にネットには相手を見下した攻撃的な言葉、差別が満ち溢(あふ)れている。(テレビは差別用語?は回避したとしても番組、画面作りで。ある意味テレビは差別製造機。(普及機?))

 

小泉、安倍政権以降はとくに老人や経済的弱者、福祉受権者などに対する偏見に満ちた誹謗中傷、差別が横行している。

資本家の役に立たない、あるいは利用価値が低いと見なされた人たち、つまり生産性が低いと見なされた社会的、経済的弱者に対する差別が熾烈を極めていると言っていい状態なのだ。

 

このような状況とB差別はどのように関わっているのか?

 

次回はこのことについて少し考えてみたいと思う。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

もちろん、わたしの町の人たちはその人たちがBの人だなどと言うことは絶対に無く、差別的な意識もゼロだった。

それがわかったのは、中学生になってB問題が騒がれ始めたとき、その地域がBだったということを聞いたからだ。

 

中坊のわたし「この近くにBってあるの?」

大人「ああ、そういえばあそこがそうだったね。」

 

といった会話で。

 

まあ、それも言ってはいけない、聞いてもいけないことだったのだろうけど。

 

差別は民衆の差別意識言葉狩り的にいえば、差別観念と言わなくてはならないのだけど(汗))よりも、就職差別(国の問題)、結婚の障害(これも差別意識という問題とは離れていると思う。)という制度的、構造的な問題が大きいのではないかと思っている。

 

 

 

どうにも政治状況が悪すぎて、

のんびりと生活を楽しむ気分になれない。

 

そんな中、

 

こんな動画を見た。

 

[http://

久しぶりに感銘を受けた。

 

この動画はロングインタビューの一部で、この部分の前にも結婚問題にまで踏み込んだスゴイものがあるのだけれど、それはいま見ることができない?ようだ。

また見つかったらUPさせていただきたい。

 

それにしても、この動画主=モーニング宇宙ニュースの旦那さんである服部氏。

この人、今の日本では突出したインタビューアーではないだろうか?

どうやってこういうような(他にも)スゴイ人を見出すことができるのか?

ちょっと不思議な感じさえする。

 

服部氏のタブーなく、分け隔(へだ)てなく人に接することのできる“人徳“ゆえか?

 

自由な表現の困難な時代ではあるけれど息長く頑張ってほしいと思う。

 

ところで、現代ニッポンのタブーのひとつであるこのBURAKU問題。

 

日本においては政治も裁判も行政も理不尽なものが多いが、このBURAKU問題も国民にとって理不尽なものと感じられているようだ。

 

ただ、わたしがBURAKU問題で理不尽な目にあったわけではない。

 

むしろBURAKUの人たちにはお世話になったくらいなのだ。

 

昔、わたしの姉が某県某都市の清掃局の近くで喫茶店をやっていたとき、少しの間だけど、店の営業を手伝ったことがあった。

 

そこの常連のお客さんは当然のことながら清掃局の人が多く、その中でも店に来てくれるお客さんたちはほとんどがBURAKUの人たちだった、

のだが、

まあ、お客さんとしては上客もいいとこ。

毎日決まった時間に、多人数で来てくれるし、カネ離れもいい。

親しくなると家族のような雰囲気で接してくれる。(やさしい。)

姉の店はそうやって毎日律義に利用してくれるBURAKUの人たちによって潤っていた。

 

ということで、わたし個人としてはBURAKUの人たちに親しい気持ちを持っているのだが、(それ以外のところでも)

 

しかし、というか、それゆえに今のうちに解決しておかなくてはならないBURAKU問題があると思う。

 

しかも、その問題はとても大きい。

 

何より、この問題を今のようにタブーとしてブラックボックス化してはいけないだろう。

 

タブーが強いため多くの国民がBURAKU問題について語りえるほどの知識を持っていない。

 

わたしも自分の体験の範囲でしか語りえないのだ。

 

したがって、この動画の女性のようにしっかりとした体験と知識で勇気をもって語ってくれる人がいるのはすごく有難い。

 

目からウロコのお話もあった。

(BURAKUの内側での村八分の恐怖とか・・・。)

 

このお話をもとに、わたしも自分の体験から考えたことを次回、書いてみたいと思う。

 

とりあえず、押さえておきたいのは、

BURAKU差別というのは、被差別と言われたBURAKUの人たちの生活が悲惨だったり、貧しかったりしたからではないということ。

 

むしろ、BURAKUの人たちというのは、いまの日本の一般民衆よりもしっかりとしたプライドを持っていて、ある意味プライド高き人たちなのだ。

昔から経済的にも豊かで、農民が飢え死にすることはあってもBURAKUの住人が飢え死にすることはなかった。

(ただし、明治維新後は「特権」を無くされて厳しい状況に陥らされた。←BURAKU問題の始まり。)

 

そのあたりを踏まえておかないと、BURAKU差別の「差別」を見誤ってしまう。

 

あと、以前ブログで取り上げた江戸時代中期の思想家山県大弐さんも言っている通り、江戸時代の士ー農ー工ー商ー〇〇ー〇〇〇とは身分差別というより職業区分の意味合いが強かった、ということ。

もともと士農工商というのは古代中国での職業区分で、江戸幕府もその「職業区分」をもとにして国を作り上げていた、ということだろう。

 

まァ、「差別」といえば、漁師町で育ったわたしなども、豊かな農村の人たちからウチの町(漁師町)がやや差別(とまではいかないか?)されているように感じることもあったといえばあったわけで、BURAKU差別の「差別」にもそういう面はあったろう。

(わたしの育った町の人たちはほとんど浄土真宗だったわけだけど、BURAKUの人たちもほとんどが浄土真宗。)

この話にも触れることがあるかな?

 

とにかく、この勇気ある出色の女性のお話を聞くことができたわけだから、わたしもこの機会にBURAKU差別について改めて考えてみたいと思う。

 

 

 

 

 

 

暑さ寒さも彼岸まで。

秋分にしてはめずらしく曇り空だけど、温度はちょうど良く、吹く風も心地いい。

 

いよいよこれから本格的な秋だ。

 

ただ、台風がまたやってくるらしい。

 

これは仕方ないけど、どうも最近の台風はあまりたちが良くないので気になる。

 

たちがよくないといえば、菅新政権。

後継といえば聞こえはいいけど、前の政権に縛られた政権などロクなものではないだろう。

思い切った政策などできそうにない。

災害の救済などもいろんなところに忖度しなくてはならない縛られたものになるのではないか?

 

つまり、国民を救うことなどできない政権なのだ。

 

だから、国民の救済のためと称した政策も、国民を罠にかけ抑圧の手段とされてしまう。

 

沖縄の「給付金」の「不正受給」問題もそれだろう。

 

その適確要件を(異常に)厳しくし、そこに警察の監視の目を入れれば、それは庶民を縛る武器ともなる。

 

沖縄県警は100人体制でこの不正?受給者(多数)を縛り上げる(逮捕する)予定のようだ。

 

これ、警察がそこまでやろうとするのは沖縄の有力紙、沖縄タイムスの社員が関係していたからだろう。

 

沖縄タイムスといえば、反戦平和、護憲の立場のリベラル紙だ。

辺野古の基地建設でもしっかりとその立場を貫いていた。

 

つまり、安倍政権の目の上のたんこぶのひとつであったわけだ。

 

その社員にコロナ給付金で不正受給と見なされる行為があった。

 

これは警察にとってはおいしい。

 

実質いまだ最高権力者である安倍晋三氏の覚えめでたい成果となる。

 

けっきょくはそういうことだろう。

 

政権が変わったといっても国民を支配している権力は1ミリも動いていないのだ。

 

菅首相といってもそれは首相の名を冠され、権限が強化されただけの官房長官に過ぎない。

 

権力は依然安倍首相とその周辺にある。

 

岸一派というべきか、

岸信介元首相から続く勢力の完全支配は毫も変わってはいないのだ。

 

ただ、安倍首相が批判をかわし(国会などで追及を受けない)、楽をして自分の好きなことを菅官房長官に首相としてやらせるだけのことだろう。

 

したがって国民の声、願いはますます聞かれなくなる。

 

気候は過ごしやすくなったが、

この暗黒の二重支配体制によって、政治の残酷さ冷酷さはさらに増し、国民はさらなる地獄を見ることになるだろう。

すでに、弱者にその兆候は見え始めている。

 

この国の庶民の暮らしが非常に厳しい局面にあるということを忘れてはならない。

 

 

ということで、とてつもなく暗い気持ちの秋分の日。

こんなのも珍しいなァ。

秋分の日は大好きなのに。

 

 

 

 

 

いやー参ったなァ。

しばらく記事が書けなくなっていた。

 

あれ?ブログから締め出されちゃったのかな~(T-T)

なんで~、と思っちゃったけど、

 

ある日

サードパーティクッキーが無効になっています」

とブログに表示されて納得。

              (↑よーわからん)

ブログの管理人さんに閉め出されたわけではなかったのね。(ホッ)

 

少し入り方は変わったものの、なんとか記事は書けるようなので、

 

再開!

今年は電気代を節約しようと思って

なるべく扇風機だけを使うようにしようと決めたのだが、

 

この暑さでは限界。

 

扇風機を回していても、ただ風にあたっているという感じで、涼しくない。

汗は引くものの、アタマはアツイままなのでだんだん辛(ツラ)くなってくる。

 

ということで、やはりエアコン。(あ~~~。)

 

節約も簡単ではない。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

去る8月8日。カブトムシの死んだ夜、少し歩いたところにある公園にカブトムシを埋葬してきた。

 

f:id:hibi333zakkan:20200813212940j:plain 

 

去年のカブトムシは寿命いっぱい生ききったと思えたのだが、今年のは不幸な運を背負ったまま、生ききれずに死んだという感じがして、埋葬してやっても、いまだ気持ちがすっきりしない。

 

穴の底に置いた死骸も、まともだった二本の足はすっかりしなびてしまい、背中も開いたような状態で、いかにも哀れに見えた。

 

無常、無常、ナムナムということで、 

土をかけて埋めようとしたとき、半ズボン姿だったわたしの足に何かがくっついているのに気がついた。

 

え?

手で触ると大きな豆のようなものだったので、取ってポンと放り投げた。

 

なんだ?と思って携帯のライトを当てると、なんとセミの幼虫。

 

わたしの足を木と間違えたのかよ、あほ。早くほんとうの木に登れ、と言ったのだが、セミの幼虫は立ち去らない。

(言うことがわかるはずがない。(^^;))

 

わたしの掘った穴を下へと歩いて行き、置かれたカブトムシを

「ふーん」????といった感じで見るとまた上に上がってきた。

f:id:hibi333zakkan:20200813215923j:plain

 

そして、穴から出ても穴のふちをうろうろしている。

 

奇妙な参列者だな、と思っていると、わたしがカブトムシといっしょに埋めてやろうと思って持ってきていた昆虫ゼリーを食べ始めた。

 

ああ、なるほどね。

 

そのまま穴を埋めて、昆虫ゼリーはセミの幼虫が食べるままにしておいた。

 

しかし、カブトムシの埋葬にもう一人じゃなかった、もう一匹が参列?していた?というのはちょっと不思議な感覚だったなァ。(笑)

(確かにカブトムシの死骸を見ていたような・・・。)

 

もし羽化のために地上に出てきていたのなら、

いまはあのセミの幼虫が成虫になれたかどうかが気になる。

 

セミの幼虫は三年から十数年の間地中で暮らしたあと、地上に出てきて羽化し成虫になるのだが、その羽化の成功率は50%くらいだとか。

 

気になって、昨夜、散歩のついでに公園に寄ってきた。

 

[http://:ti

 

8日の夜には聞こえなかったけど、昨夜は耳を澄ますとたしかにセミの声が聞こえた。

 

「無事羽化しましたよー」って飛んできたりして。 ← ありえない。\(^^;)

 

それに、あのセミの幼虫がメスだったら鳴くはずはない。(笑)

(遅く羽化するのはほとんどがメス。)

 

 

・・・、しかし暑い。

今夜は外に出る気もしなかったので、散歩も無し。

 

 

 

 

 

カブトムシちゃん死亡。

 


昨晩のうちに死んだようだ。

 

朝、ケースのフタを開けると、昨日と同じ場所にうずくまっていて、

元気ないな、と思ったら、死んでいた。

 

去年のカブトムシは「死」をみとってやれた

 

が、今年のは「急死」という感じ。

 

ただ、死ぬ4,5日前から昆虫マットにもぐらなくなっていたのは前のカブトムシと同じなので、やはり死は迫っていたのだろう。

 

それにしても、このカラダで、

 

          f:id:hibi333zakkan:20200808145811j:plain

 

 

f:id:hibi333zakkan:20200808150206j:plain
f:id:hibi333zakkan:20200808150119j:plain
f:id:hibi333zakkan:20200808150405j:plain

 

よくがんばって生きたというべきか。

f:id:hibi333zakkan:20200808150629j:plain


合掌。

 

ケースをベランダに持って行って、カブトムシを取り出したりと整理をしていると、なぜか二羽のカラスが近くに来て、「ガ・・ガ・・ガ」と悲しそうに鳴いた。

 

エサ(=そのカブトムシ)をくれ、というような鳴き方ではなかったなァ・・・。(笑)

 

ちょっと不思議な気持ちにさせられた。

 

去年のカブトムシが来たちょっと前に死んだ今年のカブトムシ。

去年のカブトムシがそこから9月中旬まで生きたことを考えると、早死にだろう。

 

最後のエサも食べた痕(あと)があったのは、まだまだ生きようとしていた証拠で、本人?(本虫)は少し残念だったかもしれないが、

それでもボロボロのカラダを見ると、そこまでだった、ということだろう。

 

 

ということで、去年に引き続き今年も夜にこっそりと・・・。(笑)

 

行ってくるかな。