4月(しがつ)も下旬(げじゅん)。

天気(てんき)はイマイチながら、いい気温(きおん)の日々(ひび)が続(つづ)いている。

 

経済的(けいざいてき)な問題(もんだい)で(笑)出不精(でぶしょう)気味(ぎみ)になっているのだけれど、

さすがに、この季節(きせつ)に外(そと)に出(で)ないのはもったいないと思(おも)い、昨日(きのう)は久(ひさ)しぶりに夜(よる)の散歩(さんぽ)に出た。

 

近(ちか)くの公園(こうえん)まで行(い)って帰(かえ)ってきたのだけど、雨上(あめあ)がりということもあって、

吸(す)う空気(くうき)のすがすがしいこと。

どんなアロマでも及(およ)ばない癒(いや)し効果(こうか)がある。

 

公園にある藤棚(ふじだな)の下(した)で少(すこ)し休憩(きゅうけい)。

 

この藤棚で藤(ふじ)の花(はな)が咲(さ)いているのを見(み)たことがないなァ、

なんて思っていると、

 

あれ?

上(うえ)を見(み)ると、

咲(さ)いていた。

あまり人目(ひとめ)につきたくない、というように、ひっそりと。(笑)

 

おそらく、毎年(まいとし)こんな感(かん)じで咲(さ)いていたのだろう。

 

人間(にんげん)に見られるというのはコワイことだものね。わかる、わかる。(意味深(いみしん)(笑))

 

帰(かえ)って、最近(さいきん)読(よ)みはじめた、入法界品(にゅうほつかいぼん)の入門書(にゅうもんしょ)を2ページほど読(よ)む。

 

入法界品は華厳経(けごんきょう)の一部(いちぶ)で、善財童子(ぜんざいどうじ=スダナ・クマーラ)という若者(わかもの)が、菩薩(ぼさつ)の修行(しゅぎょう)のために53人の師(し)を次々(つぎつぎ)と訪(たず)ねて行(ゆ)く、という物語風(ものがたりふう)のもの(お経(きょう))。

 

まだ日本(にほん)が仏教国(ぶっきょうこく)だった江戸時代(えどじだい)、この53人の師の数(かず)にちなんで、東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)の宿場(しゅくば)が整備(せいび)された。

 

わたしがしばらくはまっている(笑)唯識論(ゆいしきろん)は華厳経から始(はじ)まった思想(しそう)だ。

 

唯識論といえば、世親(せしん)の「唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)」を解説(かいせつ)した、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう=西遊記(さいゆうき)の三蔵法師(さんぞうほうし))の「成唯識論(じょうゆいしきろん)」を、さらに、わかりやすく解説した、現代日本(げんだいにほん)の本(ほん)を読(よ)んだのだけれど、いや、ムツカシイのなんの。(笑)

 

その中(なか)でも、理解不能(りかいふのう)レベルだったのが、因果(いんが)が同時(どうじ)であるというか、唯識の深(ふか)いところでは、時間(じかん)も消滅(しょうめつ)してしまう、というところ。

 

ふつう、因(いん)があって、果(か)がある、原因(げんいん)があって結果(けっか)があるというように、この世界(せかい)では時間的(じかんてき)に因(いん)が先(さき)で果(か)が後(あと)、ということになっている。

 

ま、あたりまえといえば、あたりまえ。(笑)

それが違(ちが)うなどと言(い)えば、アタマダイジョウブ?と言われる。

 

しかし、成唯識論によれば、第八識(だいはちしき)といわれる阿頼耶識(あらやしき)において、因(いん)と果(か(が))は同時(どうじ)とされる、という。

 

これ、解説(かいせつ)を読(よ)めば、うーん、そうなのかな、と思(おも)えないではないのだけれど、イメージを思い浮(う)かべるのは不可能(ふかのう)。3次元(さんじげん)では理解(りかい)できない4次元(よじげん)の話(はなし)なのかな、と思っていたら、図書館(としょかん)でふと手(て)にした雑誌(ざっし)に載(の)っていた「量子(りょうし)もつれ」とかいう現象(げんしょう)の話(はなし)。

 

宇宙(うちゅう)の端(はし)から端というくらい遠(とお)く離(はな)れていても、特殊(とくしゅ)な粒子(りゅうし)のペアでは「表(おもて)」と「裏(うら)」が瞬時(しゅんじ)に連動(れんどう)して変化(へんか)するというもの。

 

なるほど、これは時間(じかん)を無視(むし)している。

 

そして、これは実際(じっさい)に存在(そんざい)しているらしく、

ということらしい。(笑)

 

仏教(ぶっきょう)と科学(かがく)は違(ちが)うけど、こういう時間無視(じかんむし)の現象(げんしょう)を映像(えいぞう)で見(み)せられると、阿頼耶識(あらやしき)での因(いん)と果(か)の関係(かんけい)もイメージしやすくはなる。(笑)

 

そうすると、死(し)と同時(どうじ)に転生(てんせい)する、ということになるのかなあ?

それはわからない。四十九日(しじゅうくにち)なんてものもあるしねえ。

 

しかし、どうも死(し)と同時(どうじ)に、目(め)に見(み)えない小(ちい)さなものだけど、次(つぎ)の生(せい)の形(かたち)になっているらしい。

 

人間(にんげん)なら人間、動物(どうぶつ)なら動物、虫(むし)なら虫の形(かたち)ということかな。

あー、こわ。

 

この現世(げんせ)で欲界(よくかい)六道輪廻(ろくどうりんね)から解脱(げだつ)できなかったわたしだ。

 

せめて、地獄(じごく)餓鬼(がき)畜生(ちくしょう)界(かい)には転生(てんせい)しないように、この先(さき)、悪(わる)いことはすまい。(笑)

 

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諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう) 自淨其意(じじょうごい) 是諸仏教(ぜしょぶっきょう)

 

(もろもろの悪(あく)を作(な)すなかれ、多(おお)くの善(ぜん)を行(おこな)え、そして自分(じぶん)の其(そ)の意識(いしき)を清浄(せいじょう)にすること。これが諸仏(しょぶつ)の教(おし)えである。)

 

うーん。今(いま)のわたしには、多(おお)くの善(ぜん)を行(おこな)うということは難(むつか)しいけど、せめて諸悪莫作(しょあくまくさ)くらいは守(まも)らないとねえ。

地獄(じごく)はもちろん、餓鬼(がき)となって苦(くる)しむのは恐怖(きょうふ)だし、転生(てんせい)したらゴキブリだった、なんてのもイヤだものなあ。(笑)

 

あと、仏教で最(もっと)も、といっていいほど重要(じゅうよう)なのは、「平等(びょうどう)」ということらしい。

仏教では我執(がしゅう=自分(じぶん)への執着(しゅうじゃく))の反対(はんたい)が平等性(びょうどうせい)。

この「平等」ということが、少(すこ)しでも理解(りかい)できれば、いいところ、へ行(い)けるかも?

これをこれからの生活(せいかつ)の課題(かだい)としよう。(^^)

 

もちろんこれは、不当(ふとう)に扱(あつか)われて、「平等(びょうどう)にしろやー」とか、「公平(こうへい)にせんかい」などと、怒(いか)ること、ではない。

                                (^^;)

それはそれで必要(ひつよう)なこともあるのだろうけど、わたしはもうトシなのでね。

オムカエのことを考(かんが)えるほうが大切(たいせつ)。(笑)