アゲハチョウが大往生
仰向け、大の字(?)になって。
じつに満足げ、「生きたぞー」って感じ (に見えた)
死んでも美しいその姿に、しばし感動して見入っていたが、誰かに踏みつけられるとその姿も台無しなので、拾い上げて線路脇の草の陰に置いてあげた。
てくてく歩いて行く目的地の近くには、6月14日の日記で触れた、あの植え込み。
さて、あの孤独なアジサイの花
はどうなった?
みごとに「花」として咲ききり、枯れていた\(^^)/
それぞれ、その「命」を全うした「虫(蝶)」と「花」。
悲しみ、というより尊敬の念が起き、羨ましささえ感じる。
「天」から与えられた命=寿命を全うする。
これこそが「命あるもの」すべての目的であり喜びなんだな、と改めて思う。
しかし、そんなわたしも部屋に帰ると、最近大量に?買い込んだバナナの匂いに引かれてやってきたらしい小バエに殺虫剤をシュッシュッ・・・
勝手なものだ(笑)
「虫」相手にでもそんなことを思ったりするのに、ましてや人間を殺すなど、と思うのだが、それが平気な人というのも、人間の中には存在するらしい。
で、また大量処刑の安倍政権と同月13人処刑の上川陽子法相に思いが及ぶ(本当は、思い出すのも考えるのもイヤなんだけどなァ。そういう人たちの事は)。
幾多の「冤罪処刑」を行ってきた日本政府という権力の中にあって、死刑制度を支持・維持し、自ら積極的に「囚人」を殺す。
しかも「大量」に。
これ、人間を「虫けら」として見ることのできる人にしかできない行為だよねえ。
また、徹底した「差別者」でもあるだろう。
まあ、わたしら「ど庶民」も権力者・エリートの彼、彼女らからしたら「虫けら」同然なのだろうから、このかんの(安倍自公政権による)「大量処刑」を見せつけられると、心の平穏が乱される。
どうしたら人間はいちおう「同類」である人間を平気で殺せるほどに思い上がることができるのか?
超大富豪、独占企業エリート(経営者)、政治家、東京大学法学部閥官僚&OB、エリート公務員、メディア幹部、といった、日本を支配し、カネと権力において、一般民衆とは隔絶した環境にある人たちが、
日々の生活に苦しむ庶民を、自分たちと同じ人間とは思えない、ということはたしかにあるだろう。
しかし、「蝶」や「花」の「死」にさえ心を動かされるのが人間だ
が・・・、むっ、あっ、そうか、日本の支配者さんたちは、「害虫」を殺している感覚なんだな!!
たとえば、縊り殺している「死刑囚」はネズミかゴキブリの感覚。
そして、彼らの「富」にまとわりついているような、われわれのような「生産性がない?役立たず?」(=老人、障害者、貧乏人のような弱者)の一般民衆は、「小バエ」のようなものなんだ!
そう考えると、「富」と「権力」というものは恐ろしいものだ。
それは人間をどこまでも傲慢にさせる。
それが二代、三代・・・と続いたら、どんな人間が出来上がるか?
もっとも、現代はそういう人たちのために作られたような社会であるので、特段の不都合はないのだろう。
(われわれ庶民にとっては恐怖以外の何ものでもないが)
あと、「人間を平気で殺せる」ということでは、「宗教」によってもそれが可能になるようだ。
近年、日本政府は法務大臣にキリスト教徒をあてることが多いようだ。
歴代死刑執行数ベストスリーの、上川氏、鳩山氏、谷垣氏はいずれもキリスト教徒で、他にも処刑法務大臣にはキリスト教徒が何人かいて、
「う、ひでえ」とわたしが思った死刑執行(子ども三人を育てた母親)をやったのはキリスト教系の大学を出た法相だった。
キリスト教徒だと日本人を平気で処刑することができる?
異教徒だと殺しても平気?
なんだか「日本人」に対する差別意識さえ感じてしまうほどの政治状況なのだが・・・
キリスト教というか、旧約聖書を基本聖典としている「一神教」の宗派(キリスト教、イスラム教、ユダヤ教)にはたしかに「シオニズム」あるいは「シオニズム的」なものはあると思う。
たとえば、旧約「申命記」にはこんな一節がある
→『七つの民を滅ぼせ
あなたが行って所有する土地に、あなたの神、主があなたを導きいれ、多くの民、すなわちあなたにまさる数と力を持つ七つの民、
~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ 人
をあなたの前から追い払い、あなたの意のままにあしらわさせ、あなたが彼らを撃つときは、彼らを必ず滅ぼしつくさねばならない。
彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない。
彼らと縁組をし、あなたの娘をその息子に嫁がせたり、娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない。(もしそんなことをすれば神の怒りにより滅ぼされる)』
また、モーセの後継者であるヨシュアについて書かれた「ヨシュア記」にはこんな記述もある
→『祭司が角笛を吹き鳴らすと、ヨシュアは民に命じた。
ときの声をあげよ。
主はあなたたちにこの町を与えられた。
町とその中にあるものは、ことごとく滅ぼしつくして主にささげよ。
~
金、銀、銅器、鉄器はすべて主にささげる聖なるものであるから、主の宝物倉におさめよ。
~
角笛が鳴り渡ると、民は一斉にときの声をあげた。
~
城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。
彼らは、男と女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼしつくした』
伝わって来るのは「シオニズム」の恐ろしさだ。
この「自分たち以外(=異教徒)みなごろし」の考え方が、「終末論」に大きな影響を及ぼしているのは間違いないと思う。
終末において生き残るのは、キリスト教にあってはキリスト教徒のみであり、ユダヤ教ではユダヤ人だけだからだ。
(・・・「ヨハネの黙示録」による終末思想もそう)
・・・ちょっと話しが大きくなった。
日本での暴虐は、そこまで考えないでも、ただ、(支配者たちの)「おごり高ぶり、傲慢」がおおっぴらに許されるようになった社会状況からきた「差別意識」とそれに伴う、残酷、冷酷な感情、人間性から来ているだけの話だろう。
その背景には、われわれ一般民衆からすれば絶望的ともいえる「格差」がある。
これはこの国だけの問題ではなく、「カネ」がすべての価値判断の基準となっているような「宗主国」の影響も大きいだろう。
まるで世界が「資本主義シオニズム」に覆われているような状況下で、
日本では、政府が法相にキリスト教徒を任命し、日本人を大量に処刑し続けている・・・
正直、われわれ日本人一般民衆にとっては、目の前真っ暗、といった状況なのだ。
わたしも、もう「生産性」で認められるトシでもないしなあ・・・