「この頃、やたらと昔のことが思い出されて」

と、

長年お付き合いをいただいている知人女性に話すと、

 

「そろそろ死ぬんじゃない?」

 

「げ」

 

その女性、カンが鋭くて、言うことがよくあたるんだよなあ・・・(コワイ)

 

でも、わたしがいま「確実に死ぬ」?ような病気を抱えているわけでもなく、彼女も冗談で言っているようだったので、

 

「いや、たしかに目や耳はダメになってきているようだけど、ガンとかそういう病気はないみたいだよ。

わたしは死ぬより前にアタマがダメになるんじゃないかと思うんだ。」

 

というと、

 

「あ、なるほど・・・」

 

「・・・・・・」

 

 

という話は、閑話休題(さておいて)(^^;)

 

どうも

「昔の思い出」が次々と蘇(よみがえ)ってきて止まらない。

 

・・・・・・・ 

わたしは、大学に5年間行ったのだが、(つまり1留)

その前年に学費値上げ問題があり、サークルや自治会などの仲間と、学費値上げ阻止闘争をかなり激しくやってなんとか成功(阻止)し、

5年生(?)の時は、少数の後輩を残して、そういった活動からも「引退」していた。

 

大学には週に1日だけ行けばよかったので、思う存分アルバイトができた。

 

このときはアルバイト先の勤務条件(収入)にも人間関係にも恵まれ、リッチ~♪というか、一生のうちで最も幸福だったんじゃないか?という生活を送らせてもらったのだが、

 

遊んでばかりでも気が引けるので、

シナリオライター養成」の通信講座を受けることにした。

 

たしか半年くらいの期間だったと記憶しているのだが、教程?の最後に、「自分が映画にしたいと思っているストーリーを書け」というのがあって、

それなりにアタマをひねって、原稿用紙20枚くらいのものを書いて提出した。

 

他の人に自分が書いたそういうものを読んでもらうのは初めてだったので、

「どんなかなー」

と思っていると、

 

しばらくして、講師の映画評論家の人から、市販のものではない?升目が大きめの原稿用紙に書かれた講評が送られてきた。

 

原稿用紙何枚だったかは忘れたが、かなり長く詳細かつ丁寧なもので、

 

内容は、

「批判」的なことはまったく書かれていなくて、「肯定」というか、かなり高く評価してくれていて、わたしが「意外」と感じるくらいのものだった。

 

ただ、「映画化」は難しい、とのことで、その理由は

アメリカの映画にこれとそっくりのストーリーのものがある」

とのことだった。

 

そのアメリカ映画は「アメリカの悲劇」というものだったのだが、わたしはその映画を見たことがない、というか存在自体を知らなかったので、

「ふーん」

という程度で受け取った。

 

「悲劇か・・・たしかに暗い内容だったものナ」

 

と、ほめて?はもらったものの、自分が書いた内容に少し気恥ずかしいものを感じた。

暗い想念、というか、あまりにも暗い「妄想」に引きずられていた、と思ったのだ。

 

「映画はやはり他者を楽しませるものでなくてはなァ。

よく考えたら、こんな暗い内容の映画、わたしも見に行かないな。

やっぱり才能無いワ。」

 

 ということで、わたしの「創作」指向はそれで終わり、

大学卒業後は、そんなものとは無縁なサラリーマン、社会人生活に突入することになる。

(サラリーマンになった当初の「人生オワタ」感はけっこうなものだったなあ・・・)

 

 ところで、

アメリカの悲劇」という映画はyoutubeでもUPされてなくて、いまだに見ることができないでいるのだが、※

 

その映画評論家さんが「講評」のなかで、

アメリカと日本でこれほど似た内容のものが出てくるとは」

と、「驚いた」ように書いていたことも思い出した。

 

 

これで、ふと頭に浮かんだのが、

このあいだ起きた、名門私立小学校(カリタス学園)児童保護者殺傷事件

と、

米国バージニア州で起きた銃乱射事件(12人死亡)。

 

日本の事件は、犯人が行けなかった?名門小学校が狙われ、

(犯人は公立小学校で嫌われ、いじめられていたらしい)

 

米国の銃乱射では、犯人をクビにした市役所がターゲットになった(犠牲者のうち11人が市役所職員)。

 

このアメリカの事件と日本の事件を関連づけて考える人はあまりなかったようだが、

 

ネットの書き込みに

アメリカは銃、日本は包丁」

というのがあって、

これが、今回のふたつの事件に関する書き込みで、最もわたしの心を捕らえた。

 

今回の日本の事件もアメリカの事件も、その底流に流れるものは同じではないか?

 

アメリカで銃の乱射事件が起きるたびに、日本のマスメディアは「銃」の所持が認められていることが悪い、との論調一辺倒で、「銃」さえ持てなくさせれば、それで「アメリカの悲劇」はなくなる、と言わんばかりなのだが、

はたして、それで大量殺人事件、無差別殺傷事件はなくなるのか?

 

それはあまりにも支配者の側の「都合」に沿った見方ではないだろうか?

 

と感じるのだ。

 

じっさい、銃規制が世界で最も厳しいこの国でも、大量殺人事件、無差別殺傷事件は起きている。

 

そういった事件が起きる要素は、日本とアメリカの社会に常に内在しているように、わたしには思われるのだが。

 

アメリカと日本に共通しているものがあって、それが「悲劇」を生んでいるのではないか?

 

といっても、マスメディアがそんな「本質的」なことに触れることはないわけで、

そのあたりにも、日本とアメリカの「絶望」の深さがある。

 

このまま行けば、日本とアメリカ、

両国の国自体が「強制収容所」体制になるしかないように思えるのだが・・・

 

・・・と、これはちょっと話が飛躍し過ぎてしまった。

 

ネットでの反応を見ると、日本とアメリカの違いはあって、

日本では「ひとりで死ね」という書き込みが多く、マスコミのアンケートでは、過半数の人がその意見に賛成しているのだとか。

 

日本人の想像力の欠如、ここに至れり、と言うべきかな?

 

アメリカではさすがに銃乱射犯人に対してそんなことを言う人は極少数派だろう。

 

(日本人には事の深刻さがまだ十分に認識されていない、ということなのかもしれない)

 

ともあれ今は、

わたしが自分でも「?」と思うほど暗い内容のストーリーを書いてしまったのにもそれなりの「理由」「原因」があったんだよなァ、

と、少しは自分を肯定する気持ちになっている。

 

アメリカの悲劇」を追いかける「日本の悲劇」?

 

しかし、日本ではそのアメリカの悲劇は理解されていないようだ。(「日本の悲劇」も)。

 

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※それでもDVDは発売されていたようで、それを見た人の感想と評価をネットで見ることができたが、

いずれも、

「最悪の映画」「ほとんど理解できない」

ということだった。(^^;)

 

まあ、古い映画だから意識のズレもあるのだと思う。

(当時(1931年!?)のアメリカではある程度の反響があったようだけど)