まずはわたしのいくつかの体験から。
わたしは漁師町で育った。(父は漁師さんではなかったが。)
近年は半観光化され、近在の買い物客(魚)から都会の観光客までが訪ねて来るようになったらしいのだけど、
わたしが18歳で町を離れるまでは辺境の漁師町(県の東端にあった)といった感じで、観光客はおろか、近場から遊びに来る人も珍しかった。
わたしが小学校の高学年のころ、母の遠縁にあたり、ウチもそこをよく利用する魚屋さんの前を通りかかったとき、町の人とは明らかに違うワンクラス上の衣服を着た奥さん風の人たちが数人、買い物に来ていた。
それがわたしがBの人たちを見た最初。※
わたしの町から30分ほど電車で行った駅からさらに20分ほど山側に歩いたところにBがあって、奥さんたちはそこの人だったのだ。
で、差別があったかというと、ウチの町に関してはゼロ。
ただ、目に見えない壁のようなものはあって、Bに対するウチの町の大人の印象は
「お金持ちだけどコワイ」
というもののようだった。
次にわたしがBに出会ったのは高校のとき。
学区の中にBがあってそこの子弟も多くその高校に通っていた。
ここでも差別はゼロというか意識もしなかったのだけど、番長というか、この高校はオレがシメているんだ、みたいな同級生がいて、彼がBの人だった。
その勢威はたいしたもので、
その高校に通うためわたしの町や隣の町の生徒たちは電車で通学していたのだけれど、〇〇線を走るその電車は当時日本で最もガラの悪い通学電車などと言われていて、行きも帰りも電車の中はタバコの煙が充満していて、おとなしい高校生などは小さくなっていたものだった、(今となっては大昔の話ね(^^;))
が、
(もっとも絡まれそうな)サエナイ県立高校の生徒であるわたしたちはからまれることがなかった。
これは、どうやらその番長が「ウチの生徒に手を出すな」と不良高校生さんたちにお触れを出して?いたからだったようなのだ。
まあ、それはありがたかったのだけれど、その番長さん、わたしたち一般の生徒と必要以上に親しくなることは避けていたようなのだ。
当時のわたしは番長さんにも「やあ」と気軽に声をかけるほどに能天気で、向こうも「おう」と返してくれるのだけれど、
中学時代の番長とは違って、ほんとうに親しくなることはできず、その間に固い壁があるような感じだった。
そしてその壁はわたしではなく相手が立てていた。
いつものように挨拶をして、相手も笑顔で返事を返してくれるような時も、すぐに表情をひきしめて、「おう、あんまり格好つけないでくれよな」といって突き離すようなことを言ったりするのだ。
しかし、全般的に高校生活は平穏で、その番長との関係も悪くなることはなかった。むしろ“やや親しい”という感じで終始した。
最後まで壁は越えられなかったけど。
次は大学時代。
こちらは学生運動のかかわりで解放同盟の活動に参加することが何度かあった。
差別に関する理論もB解放同盟のものをそのまま使わせてもらっていたように思う。
とくに「言葉狩り」と後年言われるようになった言葉へのこだわりというか・・・、まあ、やはり言葉狩り。(笑)
これを論争で使えば最終兵器的な効力があった。
論争で負けそうなとき、相手の言葉をとらえてそれを攻撃すると、相手は黙(だま)った。
(わたしの行っていた大学で言葉狩りを派手にやり始めたのは実はわたしだったのだ?(笑))
これをもたらせた他大学出身のセクトの人は
「われわれの運動はついに言葉の問題にまで深化したのだ。」
といっていたけれど、それをやったのはB解放同盟だった。
わたしはそれをB解放同盟の独創と思っていたけれど、最近の言葉に関する様相を見ると、世界的傾向だったのだろう。
いまの私は言葉(とくに差別用語と言われるもの)については、言葉にはこだわらなくてはならないけど、その言葉自体をタブーとする(禁止する)ことについてはやや否定的な考えを持っている。
(その言葉を生んだ背景、考察すべき、反省すべき歴史まで消してはいけない。そうでないと現在のみならず未来をも誤ることになってしまう。)
が、言葉の問題は今以上にこだわる必要があるのかもしれない。
B差別や身障者差別に関するもの以外にも差別用語、差別の意味合いを持つ言葉が多い、というか、こちらのほうがはるかに多いのが実情なのだ。
ネトウヨ、ネトサポと言われる人たちを中心にネットには相手を見下した攻撃的な言葉、差別が満ち溢(あふ)れている。(テレビは差別用語?は回避したとしても番組、画面作りで。ある意味テレビは差別製造機。(普及機?))
小泉、安倍政権以降はとくに老人や経済的弱者、福祉受権者などに対する偏見に満ちた誹謗中傷、差別が横行している。
資本家の役に立たない、あるいは利用価値が低いと見なされた人たち、つまり生産性が低いと見なされた社会的、経済的弱者に対する差別が熾烈を極めていると言っていい状態なのだ。
このような状況とB差別はどのように関わっているのか?
次回はこのことについて少し考えてみたいと思う。
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もちろん、わたしの町の人たちはその人たちがBの人だなどと言うことは絶対に無く、差別的な意識もゼロだった。
それがわかったのは、中学生になってB問題が騒がれ始めたとき、その地域がBだったということを聞いたからだ。
中坊のわたし「この近くにBってあるの?」
大人「ああ、そういえばあそこがそうだったね。」
といった会話で。
まあ、それも言ってはいけない、聞いてもいけないことだったのだろうけど。
差別は民衆の差別意識(言葉狩り的にいえば、差別観念と言わなくてはならないのだけど(汗))よりも、就職差別(国の問題)、結婚の障害(これも差別意識という問題とは離れていると思う。)という制度的、構造的な問題が大きいのではないかと思っている。