しかし、しんみりと情緒(じょうちょ)に浸(ひた)れるようなような雨ではなく、台風(たいふう)15号が温帯低気圧(おんたいていきあつ)に変(か)わったものなので、雨足(あまあし)は激(はげ)しく、夕方(ゆうがた)からは雷(かみなり)が鳴(な)り続(つづ)けていた。
それでも、大台(おおだい)に乗(の)った誕生日ということで、わたしも人並(ひとな)みに過去(かこ)を振(ふ)り返(かえ)ったり、考(かんがえ)え事(ごと)
をしたりしている。
雨といえば、学生時代にイルカの歌う「雨の物語」をよく聞いていたな、
と思ってyoutube動画を見ると、
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あれ?この歌がリリースされたのは1977年?
1977年にはもうわたしはサラリーマンをやっていた。
1977年は、わたしの記憶(きおく)では天地真理(あまちまり)の「若葉(わかば)のささやき」が出(で)た年(とし)で、新たに配属された本社二階(にかい)のオフィスから見えていた街路樹(がいろじゅ)の鮮(あざ)やかな若葉(わかば)の緑(みどり)とこの歌が重(かさ)なって強(つよ)い印象(いんしょう)が今でも残(のこ)っている、
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と思っていたのだけれど、
この歌が発表(はっぴょう)されたのは1973年になっている・・・。
こちらのほうがわたしの学生時代(がくせいじだい)。
人間の記憶(きおく)というのはずいぶんあやふやなものだ。(わたしだけか?(^^;))
(しかし、「雨の物語」と重(かさ)なって頭(あたま)の片隅(かたすみ)に残っている、わたしの学生時代のあの記憶は何(なに)なんだ―? ←??????。(うーん))
ともあれ、イルカさんは2歳、天地真理さんは1歳わたしより年長(ねんちょう)のようなのだけれど、それぞれご存命(ぞんめい)なのはうれしい。
ということで、わたしも古希(こき)。
なんとかここまで生きてこれました・・・。
古希の日にyoutubeで古希の語源(ごげん)となった詩(曲江)の朗読(ろうどく)を聞けるなんて、すごい時代にはなったものだ。
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70歳まで生きることは稀(まれ)なのだ、(どうせ70までは生きられないだろう。)
と謳(うた)った杜甫(とほ)は58歳で死んだ。
現代では30歳代までに死ぬことを「夭折(ようせつ)」、40歳代、50歳代、60歳代で死ぬことを「短命(たんめい)」という、くらいに考えていいのかな?
まあ、わたしは今(いま)死んでも短命とは言われないだろう。(少しサミシイ(笑))
よく生きました。
でも、ほんとうに恥(はじ)多き人生ではあった。
「命(いのち)長ければ恥多し。」
「バカは長生きする。」
どちらも納得(なっとく)。(笑)
生きているかぎりはこれからもバカをやって恥を積(つ)み重ねていくのだろう。
こんなわたしがここまで生きてこれたのは“前半生(ぜんはんせい)"の時代が「まだしも」だったから。
昨今(さっこん)の新自由主義(しんじゆうしゅぎ)自己責任路線(じこせきにんろせん)が露骨(ろこつ)になってきた世の中では、なかなかわたしのような無能(むのう)で生産性(せいさんせい)の低い人間はまともには生きて行けないだろうな、と思う。
「杜甫」で漢詩をさがしていたら、「社畜(」しゃちく)」氏のこんな「漢詩」?を見つけた。
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上手(うま)いけど、これ、漢詩になっているのかな?(笑)
しかし、(庶民階級にとって)これから先は「社畜」を嘆(なげ)いていた時代がいい時代だったと思えるくらいの世の中になっていくのだろうと思う。(悲観的(ひかんてき)予想(よそう))
・・・、わたしは何とか逃げ切れたのかな?
しかし、改憲【かいけん)、戦争(せんそう)なんてことになると「逃(に)げ切(き)り」もあやしくなってくる。
(大きな災害(さいがい)があればあるほど大資本家(だいしほんか)が儲(もう)かる世の中では災害も恐ろしい。)
「そううまくはいきませんよー。」
という若い世代(せだい)からの声が聞こえてきそう。(^^;)
「どうかわたしが生きている間は改憲がありませんように。」← 自分勝手(じぶんかって)
いやいや若者のためでもあるんですよ。(滅(ほろ)びろ、今の改憲勢力。)
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前回、わたしはアイン・ランドの本を読んだ「毒消し」に岩波文庫版の「法華経」を読んでいる、と書いた。
これは、アイン・ランドの(新自由主義の核になっている)イデオロギーがものの見事に大乗仏教(だいじょうぶっきょう)の思想を否定するものになっていたからだ。
ということは大乗仏教はアイン・ランドのイデオロギーを否定する。
ので、岩波版法華経(サンスクリット語→現代日本語)を読んでいると、「救われた」気持ちになるのだ。
その「思想」と「イデオロギー」の問題はいったん置いといて、
わたしが「面白い」、と思ったのは,この部分。
『~ ある人がひとつの世界を砕(くだ)いて微細(びさい)な塵(ちり)とし、その微粒子(びりゅうし)をひとつずつとっては、幾千(いくせん)の国土(こくど)を越えて捨てるとしよう。
このように第二、第三の微粒子も捨て、すべての微細な塵が無くなってしまい、この世界が空(から)となり、そしてすべての塵埃(じんあい)が尽(つ)きるまで捨てるとしよう。』
このたとえ話は「如来(にょらい)の寿命(じゅみょう)の長さ」という話しにつながっていくのだけど、わたしが(フト)思ったのは、この世界つまり宇宙にある物質をすべて原子にまで「砕い」たら、その「微粒子」の数はどれくらいになるのだろう?
ということ。(^^;)
まさに雲をつかむような?話だけど、世の中にはヒマあるいはもの好きな人も多いようで(失礼!)、ネットには宇宙の原子の数を計算した結果がのっている。
それによると・・・、
この宇宙のすべての原子の数は、約(やく)、10の80乗(じょう)個なのだとか。
つまり、10のあとに0が80個並ぶ数(かず)。
ハア、
途方(とほう)もない、とも、そんなものか、ともさっぱり実感のわかない数字だ。
ただ、1のあとに0を81個も並べて書くのはかったるいだろうな、とは思う。(笑)
しかし、この10の80乗を漢字の単位で書くと、
1不可思議(いちふかしぎ)。
なんとも簡単(かんたん)、簡潔(かんけつ)。便利? (^^“
ただ、
「この宇宙のすべての原子の数は?」
と尋(たず)ねて、
「やく1不可思議だよ。」
なんて答えられると、馬鹿にされたというかいい加減に答えられたような気がするかもしれない。(笑)
そのほか、パラレルワールド(並行宇宙)?が無数にある、というような表現もあったりして、仏教は宗教としては衰退(すいたい)しているのかもしれないけれど、現代科学、とくに物理学などと通じるところがあって、そういう方向からも興味は尽きないだろう。
哲学では「空(くう)」の思想かな?
西洋哲学の「構造主義」は、その考え方において大乗仏教の「空」の思想にとても近い、と思う。
構造主義は実存主義に引導(いんどう)を渡した、といわれているけれど、「哲学」がどうたらこうたら言っているアイン・ランドのイデオロギーは実存主義以前だろう。(何の哲学だ?)
なるほど、「己(おのれ)」というものはこの宇宙で唯一無二(ゆいいつむに)のものだ。
しかし、だからといって、それ(己)を絶対化していい、というものではない。
他の人、動物たち、植物・・・すべてがそれぞれ唯一無二のものなのだ。
それらすべての「関係性」によって「己」も形成されている。
そこにあるものは「関係」であって、世の中のものと完全無関係の「己」、絶対的な「己」などというものは存在しないのだ。
それが「理解」できないから、たとえば、「社会」の大切さがわからずに、「社会」なんてものはない、などと言う。(日本も「社会」を「公民」としたりする。)
(アイン・ランドの言い方では「「社会という実体はなく、(それは)複数の個人の集合に過ぎない」となるわけだけど、「実体」?w違うよ、「関係」だよ。どんなとらえ方をしているんだww)
・・・、あ、アイン・ランドに触れるとまた興奮してきた。毒気、毒気。(笑)
また他のところでアイン・ランドについては触れるけど、アメリカや英国の支配層をはじめとした多くの人たちがアイン・ランドの影響下にあるというのは事実なんでね。(まさに、新自由主義体制!)
これは何なのかな?とは思う。
日本でもがり勉でアタマが少々〇〇〇〇なって、エゴイストとなり、性格も日本人とは離れ、かつワシントンあたりで洗脳されたようなエリートさん(eⅹ.財務省官僚など)を中心ににアイン・ランド信者が増えているようだけど、
それでも、ほとんどの日本人にアインランドのイデオロギーは受け入れられないだろうと思う。
それは明治以来政府が仏教の否定に躍起になっているにも関わらず、日本人の間にはまだまだ仏教思想が根づいているからだ。
(アイン・ランドのイデオロギーの深奥にはドストエフスキーが「悪霊」などで描いた、ロシア的ニヒリズム、無神論がある?・・・。)
・・・・、なんか興奮してムツカシイことを書いてしまった気がする。
もう寝よう。(笑)
おやすみなさい。
最後に、金剛般若経の一節を。
→ スブーティよ、誰でも『自我という思い』をおこしたり、『生きているものという思い』や、『個人という思い』などをおこしたりするものは、もはや求道者(菩薩)とは言えないのだ。 (サンスクリット語→現代日本語)