日々が続いたため、今日は寝込んでいる(笑)
熱がでているというほどではないんだけど、全身筋肉痛、全身倦怠感。
若いときからは考えられないほどの体力の無さ、体質の弱さ。
横になったまま、のた打ち回っている。
がん患者の人が亡くなるときは、猛烈な?倦怠感(だるさ)に襲われるというけど、この状態をもっともっとひどくしたものなのかな?
そう考えると、がんはやはりいやなものだ(あたりまえ(笑))。
痛みもたまらないけど、倦怠感のひどいのも耐え難いつらさ。
十数年前、倦怠感の弱いものというか、わけのわからない脱力感に一ヶ月ほど悩まされたことがある。
身体にとくに異常があるというわけではなく、仕事もふつうにできているのだが、なんとなく根気がなくなり、ここぞというときの頑張りがきかない。
身体の下半分からスースーと力が抜けて行っているような感じだった。
「ひょっとして(がんとか)重大な病気でも潜んでいるんじゃないか~?」(´`)
と取り越し苦労をして、当時がんにも効く温泉として雑誌などで紹介されていた、山梨県にある増富温泉に行った。
痛風にも効く、とあったから、二重の魅力(^^)
休みがとれると車を飛ばして行った。
ふつう、予約をしていないとまず泊まることのできない温泉なのだが、そんなことも知らずにいきなりやってきたわたしに旅館の人は親切に対応。
苦笑いしつつも、
「一部屋あいていますから、どうぞ」
何も知らないわたしは、ひとりではもったいない広くていいお部屋へ。
(あとから考えると、料金も安くしてくれていたようだ)
期待した温泉は、
「なんじゃこりゃー」
なんと湯温約30℃! 体温より低い。
しかし、がまんして首までつかっていると、だんだんと身体の中心部が(微かに)温まってくる。
途中で2~3回小用をたしつつ、日が暮れるまで入っていた。
出ると、「湯疲れ」。(効いているということか?)
少し「ぐたっ」としたが、悪い倦怠感ではなく、むしろ快いものだった。
卓上にはお銚子に入った飲用の温泉水。
うまいものではないけれど、湯上りの喉にはちょうどよかった。
食堂で食べる夕食もお品書きの添えられた立派なもの。
が、隣の人はじっと料理を見つめているばかりで、まったく箸に手をつけようとしない。
しばらくすると料理をそのままにして食堂を出て行った。
その温泉は、重病の人も多く利用するということだったから、その人もふつうの料理がまったく喉を通らないほどの病気だったのだろう。
まだ50歳そこそこという感じで、外見は健康そうに見える人だったけど。
その後何回かその温泉に行きわたしの「症状」もだんだんと消えていったが、温泉がどの程度役に立ったかはわからない。
ただ、その温泉は一部の人には奇跡的な回復作用があるようで、末期の肺がんの人が治癒したりすることもあるらしい。
その「効能」の秘密は、あの「冷たい」お湯にあるのかな?
と、今は思っている。
体温より低いお湯なのに、長く入っていると身体の中心の一部が「ぽっ」と温かくなってくる感覚。
あれが、とても「いい」のだと思う。
・・・と、思い出しつつ、今は温泉どころか銭湯にも行く気力がない。室内のシャワーさえ浴びたくない(笑)
ただただ、唸ってゴロゴロするだけ。
自業自得のわたしの状態はともかく、わたしの周りでは最近、健康の不安を口にする人が増えている。
年齢的なものが大きいだろうけど、なかには、「時代の区切り」に対する不安を口にする人もいる。
「平成」が終わって、新しい「天皇」の年号に変わる際に年配の人の多くが亡くなるのではないか?というのだ。
「ひとつの区切り」ということで、「がくっ」となる人が多い、ということなのか?
そういえば、「昭和」が終わる際、文化人などの有名人がけっこう亡くなったように記憶している。
「ひとつの時代の終わり」
というのはそういうもの?なのだろうか。
(案外、官=厚生労働省の意向を受けたお医者さんたちが、「殉死」よろしく、文化人や有名人、年配者などを「お殺し」になっていたりして ← 冗談、冗談(^^;)冗談だよー(笑))
それにしても、多くの人たちにこの「時代の区切り」を「不安」かつ「憂鬱」なものに感じさせているのは、「新しい時代」の見通し、展望がまったく見えていないことに原因があるだろう。
「いちおう現状が保証、維持されて、そこから「よりよい」「より平和で暮らしやすい」社会、時代を目指す、という確固たる展望が示されているのなら、別に不安はないのだけれど、
その「転換」に向けて、安倍政権が「人権と平和と民主主義の」憲法を(前時代的な発想で)変えようとしていること、
一定のエリートと正規公務員など(←支配層の使用人?)は優遇しつつ、庶民なかんずく老人や障害者、貧者、非正規労働者などの弱者を叩いて「沈め」、格差を拡大する政策をとっていること、などを考えると、その「時代の転換」が民衆にとっていいものだとはどうしても思えないのだ。
財閥・独占資本家、世襲政治家、学閥官僚&OB、エリート公務員などの身分を保証された「支配層」以外、
の誰もが多かれ少なかれ将来に不安を感じている。
「次の天皇」はそんな状況の中で「即位」するのだ。
そして「新天皇」がどういう「考え」を持っているのか?どういう人なのか?庶民にはもうひとつわからないでいる。
いずれにせよ、いまの自公政権的右翼「改憲」新天皇あるいは「格差」=「差別」の上に乗っかる新天皇像がイメージされるようでは、庶民にとって「希望」より「絶望」のほうが大きいだろう。
正直、わたしもかなりの「不安」を抱いている、というのが正直なところだ。
← 19世紀前半のスペイン皇帝、フェルナンド7世。
こういう「皇帝」=「天皇」にはなっていただきたくないものだ(笑)※
(フェルナンド7世については、また触れることがあると思う)
それにしても、
あーーー、だるい、痛い、クルしい~~~ヽ(×-×)ノ~~~~~~
このままゴロゴロしていたいけど、食料を買いに行かねば~~~~トイレットペーパーも買いに行かねば~~~~~~~~~(笑)
つら・・・ このまま埋もれてしまいたい・・・
ゴヤ「鰯の埋葬」
このお祭り?で埋められる鰯(イワシ)のように、人々のバカ騒ぎから(土の下という)隔絶したところでごまめ(小さなイワシ?)の歯ぎしりをしている、というのもいいかも(・・・やばいなあ)笑
いてててててて(笑)