というのはよく当(あ)たっていることわざで、お彼岸の中日(ちゅうにち)とされる春分(しゅんぶん)の日(ひ)を境(さかい)に厳(きび)しい寒(さむ)さは去(さ) り、秋分(しゅうぶん)の日を過(す)ぎれば夏(なつ)の暑(あつ)さは終(お)わる。
だから、お彼岸の中日が来ると、なんとなくホッとした気持ちになるのだが、今年の春分の日の天気は荒(あ)れた。
朝(あさ)から冷(つめ)たい雨(あめ)。
それが昼(ひる)近(ちか)くに止(や)んで晴(は)れたと思ったら、激(はげ)しい強風(きょうふう)が吹(ふ)き続(つづ)き、
夕方(ゆうがた)近(ちか)くに風(かぜ)も止んだと思ったら、また雨。
夜(よる)は寒(さむ)かった。
70年ちょっと生きてきたけれど、こんな春分の日は初(はじ)めて。
なんだかね、お天道様(てんとうさま)のルーティンが崩(くず)されているような気(き)がして、ちょっと不安(ふあん)な気持(きも)ちになってしまう。
それでも、春分の日の二日後(ふつかご)は空(そら)が晴(は)れ渡(わた)って、これぞ春(はる)という気候(きこう)になったので、少(すこ)し足(あし)を伸(の)ばして自然公園(しぜんこうえん)に出(で)かけた。
途中(とちゅう)、どなたが植(う)えたのか空(あ)き地(ち)に水仙(すいせん)。
たぶん、ほとんど手入(てい)れもされていないと思(おも)うのだけど、しっかりと咲(さ)いていた。
自然公園。
枯(か)れたようになっていた木々(きぎ)にも春の気配(けはい)。
そして、春を告(つ)げるという椿(つばき)の花(はな)が一輪(いちりん)、落(お)ちていた。
春は地面(じめん)を見ても楽(たの)しい。
芽吹(めぶ)く木、早咲(はやざ)きの桜(さくら)と空に向(む)かうかのように伸(の)びる木。
少し歩(ある)くと小(ちい)さな池(いけ)があった。
池の周(まわ)りだけを見ていると、子どものころ走(はし)り回(まわ)った故郷(こきょう)の山野(さんや)を思い出す。
しかし、視線(しせん)を上(うえ)にあげると、家屋(かおく)やビルがみっちり・・・。
これは写(うつ)さない。(笑)
池の横(よこ)は広場(ひろば)になっていて、そこにも早咲きの桜が咲(さ)いている。
その桜の木に鳥(とり)。
近(ちか)づいてみると、ムクドリだった。
ムクドリってハトの次(つぎ)に人(ひと)なつっこい鳥なんじゃないかと思う。
じっとねらって写真(しゃしん)を撮(と)っていても逃(に)げない。
おかげで何枚(なんまい)も写真がとれてしまう。(笑)
ポーズをつけているんじゃないかと思うくらいのものも何枚(なんまい)か。(笑)
ムクドリも昔(むかし)は害虫(がいちゅう)を食(た)べてくれる鳥として日本人に大切(たいせつ)にされていたのだけれど、
環境(かんきょう)の劣化(れっか)で東京(とうきょう)や埼玉(さいたま)などの首都圏(しゅとけん)にやってくるムクドリは、糞(フン)をするとか鳴(な)き声(ごえ)がうるさいとかの理由(りゆう)で害鳥(がいちょう)にされてしまい、今(いま)や駆除(くじょ)の対象(たいしょう)になっているのだとか。
「カワイソウになあ。
かつては益鳥(えきちょう)として人間(にんげん)が手出(てだ)しをすることのなかったムクちゃんも、役(やく)に立(た)たなくなれば迷惑(めいわく)な鳥として駆除の対象か・・・。
今の日本でやはり迷惑な存在(そんざい)とされ、国(くに)によってどんどん追(お)いつめられていて、まるで“駆除"の対象にされているかのように感(かん)じている貧(まず)しい老人(ろうじん)のわたしにはキミたちの気持ちがわかるような気がするよ。」
なんて、話(はな)しかけていたら、
帰(かえ)り際(ぎわ)、一羽(いちわ)のムクドリが追(お)いかけるように飛(と)んできて、歩(ある)いているわたしのすぐ横(よこ)の木にとまった。
(ズームしてないよ。)
「あれ?気持(きも)ちが通(つう)じたのかな?(笑)」
そして、ふと横(よこ)に視線(しせん)をやると、一匹(いっぴき)のノラ猫(ねこ)がこちらを見ていた。
そうだよなあ。ノラ猫も東京ではすっかり姿(すがた)を見なくなった。
ノラ猫にも社会(しゃかい)があり、生活(せいかつ)があり、少(すこ)し昔(むかし)までは人間とうまくやってきたのに・・・。
・・・・・・。
「なあ、ノラ猫ちゃん。
いまや人間の番(ばん)なんだよ。
人間のエリートさんてコワイんだよねえ。」
しんみりした気持ちで帰途(きと)についたけど、
草や木や花、鳥、ノラ猫に心(こころ)を癒(いや)されたいい一日(いちにち)だった。
今日(きょう)は朝(あさ)から雨。
気温(きおん)はそれほど低(ひく)くないようなのだけど、なぜか指先(ゆびさき)が冷(ひ)える。