昨日の日記で優生思想に関しては

「右」も「左」もない、というようなことを書いたが、日本においては(あるいは世界でも今は)まったくそうはなっていない。

 

日本で、優生思想・優生政策を推し進める右翼あるいはコンサバティブ(自民党とその亜流の右派政党) と官僚から庶民・弱者を守っている、あるいはその政府をけん制しているのは革新と左翼の政党なのだ。

 

共産党が地道な活動で権力から見放された庶民、弱者、日の当たらない無数の人々に手を差し伸べてきたのはよく知られている。

 

また、かつては路線の違いから共産党と対立していた「新左翼系」などの組織に属していた人たちの多くも、市民活動家として、また社会のさまざまな局面で庶民や弱者を助ける行動に参加し、人権と平和のために闘っている。

 

日本におけるこの「右(=1%のため)」と「左(=99%のため)」の違いははっきりと峻別しておかなくてはならないだろう。

 

 

昔は自民党のなかにも、庶民や弱者をしっかりと見つめていた人もいたのだが、いまや、自公政権はまさにネオ・ナチ=ファシストの集団(1%のための抑圧組織)。市民、庶民の居場所はどんどん狭められているのだ。

 

英国の優生思想ということでは、国や支配層がその思想一辺倒になっているわけではなく、民主主義が機能している国(英国)とそうでない国(日本)の違いも知っておかなければならないだろう。日本の支配層は英国の思想制度を自分たちに都合よく選んで輸入しているだけなのだ。

 

ところで、最近は「日英同盟」の復活、ということが言われていて、実際、軍事面での協力も進んでいるようで、「世界は第一次大戦前の時代に似てきた」などともいわれている。

 

日本もその気になっているようだが、はたして明治時代のように(それなりに)「うまく」いくのかどうか?

 

たしかに、西(英国)と東(日本)の二大海洋国家が大陸の二大強国=中国とロシア、を挟んでその膨張???をけん制するという図式は地政学的には合理的なのかもしれない。

しかし、英国をバックにした日本が中国(清)とロシアに戦争で(かろうじて)勝てたのは、中国もロシアも当時の体制が末期的な状態にあったからで、現在の中国、ロシアはまったくの別物だ。

(じっさい、その後のノモンハン事件では日本軍はソ連軍にボロクソにやられているし、対中戦争でも八路軍(共産軍)にはまったく歯がたたなかった)

 

おまけに、日本はいまなお国連の敵国条項国だ。

敵国条項をそのままにして改憲しようという愚か者のバカの低能の自己中ヘンタイ脳の売国の滅国奴たちなんてのがいるが・・・)

英国の力でこの敵国条項を外してくれるならともかく、そのままなら、これほどお粗末かつ不完全な「同盟国」はあるまい。

 

まあ、同盟国というより、(日本を)半植民地としていいなりに使う、ということなら、それなりの利用価値はあるかも。

 

それでも、最後には日本はナチスドイツの二の舞として滅んでしまうことになるでしょうがね。(安倍自公政権がやっているのはそういうこと)

 

まがりなりにも世界の金融を支配する大英帝国の「同盟国」であるならば、国連の「敵国条項」からは外してもらわなくちゃ・・・。

 

と、またとりとめもなく書いてしまって、スペースが少なくなってしまったけど、前回の日記の②として、「コピー」の主な内容の抜書き。(保存資料)

→ 「第11章?最適者生存」

「・・・ダーウィンが自然選択の概念を思いついたのは、人為選択の類推である。

自ら有能な育種家であったダーウィンは人為選択については詳しかった。

ダーウィンは、わずか数代のうちに動物の特徴をかなり変えられることを知っていた。乳牛や綿羊がその例である。人間がほんの数年のうちに選択によって動物の特徴を変えられるのだとしたら、自然が何百万年のうちに変えられないはずはなかろう、とダーウィンは考えた。

経験と判断によって好ましい形質を選んでいく育種家の手ではなく、自然そのものが、厳しい環境という現実を通じて、生き残りと繁殖に有利な形質を「最適者生存」を確実にしていく。

 

一見したところ、この非常に高尚な概念は単純きわまりないように思える。

じっくり検討してみると、暗黙の前提が複雑に凝縮されたものだということがわかり、そうした前提の中には自然界の観察結果と合致するものがほとんどない。

 

「生存」という言葉を使うと、きびしい環境におけるさまざまな生物間の競争というオソロシイ図が即座に想像される。

かぎられた食物や住む場所をめぐる競争。

19世紀の読者たちを魅了したテニソンの描写のように「怒れる自然」における生存競争。

 

実際には、そのような競争が自然界で見られるのは珍しい。

自然界には、およそ2万2千種におよぶ魚類、両生類、爬虫類、哺乳類、鳥類がいて、さらに約100万種の昆虫がいる。

その中には人間のように攻撃的になり、住む場所や食物をめぐって競争相手を殺すような種もある。

しかし、そうした競争を繰り広げる種はあくまでも少数派なのである。

大多数の種は戦わず、食物をめぐって殺しあうこともなく、住む場所をめぐって「敗者」が絶滅するほどの激しい競争をすることもない。

 

今世紀はじめごろ、この種の競争が生存にはっきりした影響をおよぼすと考えられていたのは、おもに証拠の解釈が誤っていたためである。

たとえば、シオマネキのオスの場合、片方のはさみは食べるために使うふつうの大きさのもので、もう片方のはさみは異常に大きい。

この異常に大きいはさみは、気にいったメスと交尾する権利やナワバリをめぐるオス同士の戦いに使われると考えられた。

ところが、オスのシオマネキを観察すると、実際には大きなはさみを戦いに使ってはいないことがわかる。

じつは食物の在所を仲間に知らせる合図を送っているらしい。

戦いのための武器どころか、あの恐ろしげなはさみは社会的協調のための道具なのである。

・・・(※ニッポンという国のNHKとかゆー国営放送などは、動物同士のそういう「強調的」「融和的」な解釈を否定し、もっぱら生存競争における戦い、というテーマを追いかけ、国民に「競争」「戦い」というイデオロギーを注入するプロパガンダに余念がないとか。  プロパガンダのための演出。・・・ウラで何をやっていることやら・・・)

 

(※)はわたしの書き込みです(笑)

 

う~ん。やっぱりここでも書ききれないなあ。。資料③として次の日記にまわそう・・・。