大きな地震があった。
東北地方で震度6強、東京でも震度4。
犠牲者も出た。
わたしは大きな地震のある前日(ぜんじつ)の夜は気持ちが苛立(いらだ)ってなかなか眠れないということがよくある。
一昨日(おととい)の夜もそうだった。
とくに苛立つ原因などないのに頭がもやもやして感情が高ぶっていた。
まあ、ウクライナ関係のテレビ報道に腹を立てていたということはある。
ヘンに感情が高ぶっているところに、あの番組作りだから、
「ウソつき!」とか「フェイク野郎!」とか「ばか。」とか「どこの大本営放送局(だいほんえいほうそうきょく)だ。」「戦争に巻(ま)き込(こ)むつもりか!」なんて叫(さけ)びまくっていた。(笑)
ふだんは、そんなに感情的にはならないんだけどね。
いまの日本のメディアに公正(こうせい)で事実に基(もと)づいた客観的(きゃっかんてき)な報道、番組作りなど求めても無駄(むだ)なことは重々(じゅうじゅう)承知(しょうち)しているし。
けっきょく、テレビを消しても頭のもやもや、イライラ、なんともいえない不安感、理不尽(りふじん)な感情がおさまらず、朝の4時ごろまで眠れなかった。
ここまで感情が不安定になったのは3度目かな?
いずれも大きな地震の前日の夜だ。
なぜそのようなことになるのか、不思議な気持ちになる。
ひょっとしたら、前世(ぜんせ)はナマズだったのかな? (^^;)
地震が発生した後(あと)は爆睡(ばくすい)。
今回、亡くなった方々は不運というしかなく、ご冥福を祈るしかない。
ひとやさき、われやさき。
一夜(いちや)明けて、今日は曇り空ながら暖(あたた)かな気候で、前夜のことがウソのような穏(おだ)やかな風景が広がっていた。
ボケの花が咲き乱れ、桜の蕾はふくらみ、卯(う)の花が微(かす)かに匂う。
冬枯(ふゆが)れていた道端(みちばた)の花壇(かだん)では今(いま)とばかりに春の雑草が花を咲かせている。
道行(みちゆ)く人たちもいつもと変わらない様子(ようす)、
だったのだけど、それぞれに不安(ふあん)を内包(ないほう)しているのか、今日は他人(ひと)から声をかけられることが何度かあった。
写真を撮(と)っていると、「もう(桜の花が)咲くんですかね」と、上品なおばちゃんに話しかけられたり、とか。
きわめつけ?は帰り道で街路樹の桜が咲きかけているのを見つけて、
立ちすくんで目の前の桜の蕾(つぼみ)を見つめていると、
後(うし)ろを通り過ぎた40歳代くらいの男性がふと立ち止まって、振り返ると、
「だいじょうぶですか?」
どうやら具合(ぐあい)の悪い人に見えたらしい。
「あ、だいじょうぶです。ちょっと息切(いきぎ)れがしたもんで。ありがとうございます。」
と、取り繕(つくろ)ったけど、
親切なものだ。
なんだかんだ言って、いまの日本人、親切で善良な人が多い。
家に帰って、見なきゃいいのにまたテレビを見ると、どの放送局も昨日の地震と同じくらいの時間をかけ、見方(みかた)によってはより力(ちから)を入れて?ウクライナについてやっている。
NHKなんかもね、地震や災害、人々の生活の専門家などは呼ばず、ウクライナ関係の人に時間をかけてインタビューしたりしている。それも一方だけの立場に立ってね。
わたしなんかは一刻(いっこく)も早い停戦(ていせん)を、と思っているので、片方だけへの加勢(かせい)はむしろ紛争を長引かせるだけではないかと、心配してしまう。
ウクライナへの武器(ぶき)の流入(りゅうにゅう)がハンパではないらしいし。
日本のテレビ網(もう)は冷戦(れいせん)が始まって、対(たい)ソ連の軍事施設(ぐんじしせつ)として外国の情報機関(じょうほうきかん)が日本のコンサバティブマスコミ関係者に整備(せいび)させた、ということを聞いたことがあるけど、いまのテレビ局を見ていると、その話がリアルに思い出される。
たしかに先に手を出したロシアは批判されても仕方ないかもしれないけど、ケンカ腰(ごし)だもの、日本のテレビ局は。
いくらなんでもロシアの大統領をよび捨てにするのは常軌(じょうき)を逸(いっ)していると思うんだけどね。
善悪(ぜんあく)の判断や責任問題は後(あと)のこととして、いまはとにかく戦いを停止することに全力を注(そそ)ぐべきだと思う。
第一次大戦(だいいちじたいせん)のように、なんで大戦になってしまったのか今でもよくわかっていない、という例もあるのだから、とにかく早く停戦にこぎつけてほしい。
なんだかね、日本は政治家さんやメディアと、国民の間のギャップがすごく大きい気がする。
善良な国民がこの先(さき)苦難(くなん)に直面(ちょくめん)させられたり、戦争に巻き込まれたりしないことを心底(しんそこ)願っている。
うーん。
ひょっとしたら今夜もなかなか眠れないのかな?(笑)