無人島に1冊だけ持っていく本じゃないけど、

自粛要請中に読む本。

 

この二冊を図書館閉館前に借りていたのはよかった。

 

新約聖書」 田川建三・訳  作品社

 

「内山節と読む世界と日本の古典50冊」 内山節・著  農山漁村文化協会

 

図書館が返却と予約だけ再開したのでそろそろ返却しなくてはいけない。

 

うーん、この二冊は手元に置いておきたいので、自腹で購入しようかな?

いつ支給されるかわからない定額給付金をあてにして。(笑)

そして、わたしがボーイをしていたそのホテルなんだけど、

今はもう無い。

 

いつ無くなったのかと、ネットで調べても出てこない。

 

ひとつ、そのホテルが解体された年を調べていたブログがあって、それによると、建物が解体されたのは1990年らしいとか。

 

なんだか最後はタブー視されていたような感じなのだ。

 

ネットを見ると、それも当然で、

1984年にM社長が亡くなると、ホテルを経営していたG観光の経営権をめぐって内紛が勃発。

怪しい人脈によってホテルは食い物にされ、1988年には、後(のち)にある有名な経済事件の主犯挌となる人物に売却され、建物は補修されることもなく廃業していた。

 

これを知ったときはさすがにがっかりもし、淋(さみ)しい気持ちになった。

 

M社長の死後、会社がそうなってしまったのは、やはり、Sデパート火災の後遺症かな、と思う。

 

それ以上の詳(くわ)しいことはわたしにはわからない。

 

たしかなのは、そのホテルがわたしにとっては亡くなった人を思い出すような存在になった、ということだけだ。

 

それにしても、ネットで追っていると、M社長の描いていた夢の壮大さに今さらながら驚かされる。

 

f:id:hibi333zakkan:20200525211942j:plain
f:id:hibi333zakkan:20200525212045j:plain
f:id:hibi333zakkan:20200525211857j:plain
f:id:hibi333zakkan:20200525212214j:plain
f:id:hibi333zakkan:20200525212353j:plain
f:id:hibi333zakkan:20200525212437j:plain

 

上段の奈良と横浜にあったDランドも今はなく、下段左の名建築を謳(うた)われた新歌舞伎座も建て替えられていて、経営も別のところらしい。

わたしがボーイをしていたホテルが下段右。

中央のユニークな形をしたホテルだけは現在も某大学の図書館、事務棟として残っているようだ。(地元の人たちから残してほしいという強い要望があったからだとか。)

 

つまり、M社長の作り上げたものは、砂上の楼閣のごとく、ほとんどがその姿を消してしまったのだ。

 

M社長一代限りの壮大な夢だった、ということか。

 

ただ、東と西のDランドは21世紀になってもしばらく継続していたようなのだが、これはスーパーDのN社長が経営を受け継いだからだろう。

 

ネットで見るとN社長はM社長と盟友のような関係だったとか。

 

N社長はM社長の夢を引き継ごうとしていたのだろうか?

 

しかし、それが成功したとは言い難く、Dランドはけっきょく閉園し、日本一と言われたN社長のスーパーDも今は無い。

 

実は、奇妙なご縁でというべきか、わたしはスーパーDのN社長にも2度お会いしたことがある。

一般のイメージとはとは違って、非常にシャイな人という印象だった。

いつも手帳を持ってメモを取っていて、いかにもやり手の熱心なビジネスマンといった風情だったが、冷酷さのようなものはなく、むしろ不器用な純情さといったものを感じるくらいだった。

秘書のような中年の女性にことあるごとに相談していた。(笑)

 

こちらの社長も人間をモノ扱いできる人のようではなかったなァ。

 

けっきょく、M社長もN社長も資本家?(事業家)が夢を見れた、人間的な理想を求めることができた古い時代に属していたのではないか、と、わたしは勝手に思う。

 

カネ、利益がすべてで人間をモノ扱いする、いまの社会、世界とは相いれない部分があったのかもしれない。

 

なんて、わたしのような人間がそんなことを言ってみてもどうしようもないのだけれど、、、

ほとんどの「社会的成功者?」や大金持ちに対しては、「地獄に落ちろ」くらいの気持ちしかないわたしが(汗・笑)、心からご冥福を祈りたい人に含まれるお二人であった、ということだ。

 

(しかし、いま思い返してみると、ヒドイ世の中とはいえ、ほんとうにいい人、立派な人もけっこういたなァ・・・。

人間、二種類?三種類?

まァ、どちらにしろ、現代の政、官、財、メディアはどうしようもない?(笑)

なんとかなっているのは先人のエライ人たちのおかげなのかも。)

 

うーん、話がおかしな方向に行ってしまった。(笑)

 

次回、印象深かった思い出のひとつに触れて、この話を終えよう。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

いまや「今だけ、カネだけ、自分だけ」の時代だものなァ。

 

あからさまな偽善者の時代。

 

「鉄の信念、鉄の意志」というのはそういうところからは出てこない言葉だということにフト気づいた。

 

貧富の差を拡大させつつ、火星ロケットなどにカネをジャブジャブ使うなんてのが資本家の「理想?」になっちゃってんだから、資本主義は終わっている。

 

(99%の?)人間に敵対する現代資本主義。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 













 

 

さて続きを書こうかなと思って、

前回の日記でお借りした動画を見ていると、Sデパート火災で亡くなった人たちの遺体を安置したお寺のご住職が、

「新緑になると思い出しますよね・・・。」

と話しておられて、

 

え?新緑?ではこの季節だったのか、と思って、ウィキぺディアを見てみると、

ナント、

火災があったのは48年前のきょう、5月13日ではないか!

 

なんで?

こんな偶然ってありー?(泣)

 

今日が118人の方々のご命日。

 

動揺。。。

何を書いていいのかわからない。

 

火災の補償と、慰霊碑について簡略に書いて、

そのあとは118人の方々のご冥福を祈ろう。

 

火災から3年後の1975年、この年はわたしがアルバイトをしていたのだけれど、この年の10月31日に裁判所ですべての証拠調べが終了。12月26日に遺族と会社側の双方が和解している。

 

賠償金は2040万円。

大卒の初任給が8~9万円くらいのころだから、いまの金額では4700万円~4800万円くらいか?

生前の収入とか正規非正規に関わらず、一律同一金額が補償されたという。

 

ただ、94あったテナントとの交渉は難航。

M社長が亡くなっても裁判は続いたようだ。

 

じつは今日はわたしが働いていたホテルのその後の「運命」やM社長が経営していたDランドのことなどについて書こうと思っていたのだけれど、それはまた、ということで、今日は鎮魂。祈りの夜としたい。

 

この火災による犠牲者の慰霊碑はS日前当地にではなく、高野山の大霊園にあるのだとか。

わたしもなんだか、そのほうがいいような気がする。

f:id:hibi333zakkan:20200513232105j:plain

 

こちらはSデパートを立て直したビルの一角にある千日前光明地蔵尊

 

f:id:hibi333zakkan:20200513232309j:plain

 

わたしはもう大阪には行かないかな?

 

でも、高野山には一度行ってみたいと思っているので、機会があれば、そちらの慰霊碑に手を合わさせていただこう。

 

なにはともあれ合掌。

 

48年前も、今も、庶民は必死に生き、災難に遭っているのです。

 

人間として大切なことを忘れてはいけない。

 

南無・・・・・。

 

前の続きなんだけど・・・

わたしがホテルでアルバイトを始める3年前に起きたSデパート火災。

これについてわたしはほとんど知らない、わからない、

というか、SデパートがM社長の会社の所有だったことさえ知らなかった。

 

ホテル内でそのことに触れる人はいなかったし、M社長にもまったく暗い影がなく、ごく自然というかふつうに日常が過ぎて行っていたからだ。

無理して隠していたということも無い。

 

今から考えると不思議なのだが、社長もホテルの人たちも、どこまでも真っ直ぐだった、と、そういう言い方しかできない。

 

しかし、あれほどの惨事だから、当然、Sデパート火災のことは知っていた。

 

(火災そのものについてはウィキぺディアが詳しい。)

 

実は、火災が起きる数カ月前、わたしはSデパートの前を通ったことがあった。

その時は夜で、ナント、デパートの前でお化けの扮装をした人が数人、(地下にあった?)お化け屋敷の呼び込みをやっていた。

 

信じられない光景だった。

なんでそんな時間にそんな場所で?

 

怖(こわ)がらせるのではなく明るい感じの呼び込みだったのだが、少し動悸(どうき)がするほどにショックだったのは、明るい照明に満ちているのに、その間(あいだ)間(あいだ)に暗黒があるというか、真っ暗な部分(と見えた)がいくつかあったからだ。

 

少し胸が締め付けられるような気持がして、 あわててその場所から逃げた。

 

Sデパート火災のニュースを見たとき、最初に浮かんだのはあのお化け屋敷とお化けの?呼び込みさんのことだった。

 

これはウィキなどを見て最近知ったのだが、Sデパートとその周辺は江戸時代には墓場で、刑場や火葬場もあったところなのだという。

f:id:hibi333zakkan:20200508004959j:plain
f:id:hibi333zakkan:20200508004820j:plain

 

(刑場には新撰組隊長・近藤勇の首が京都にさらされたあと、ここでさらされ、それから後は行方がわからなくなった、という話も伝わっているとか。)

 

なぜそんな場所にM社長がSデパートを建てたのか、不思議だったが、そこは大手映画会社の創業者の事業を引き継いだものらしい。

もともとは歌舞伎座だったのだが、やはり縁起が良くないと思ったのか、歌舞伎座新歌舞伎座として別の場所に建設、

その跡地に建てられたのが雑居ビルの先駆けというべきSデパートだったのだ。

 

しかし、大きな墓場と刑場と火葬場が同じところにあったなんてのは、いかにも大阪らしいディープさというか、ちょっと想像を絶する。

 

明治になって墓場、刑場、火葬場は移転。

しかし、繁華街(ミナミ)の一角であるにも関わらず、土地の買い手がいなかったために大阪市は興行を誘致。

そこで建てられたのが歌舞伎座だった。

 

ちなみに吉本興業の本拠地もここだとか。

 

火災の後、この一帯は多くの怪談話が語られ、今でも尾を引いているようだけれど、それは大阪の人たちの集合無意識か?

 

わたしは20~30年くらい前に何かの読んだ雑誌か本?で読んだ、7階にいて助かった人の体験談が最も怖かった。

 

それは、火災で多くの人がパニックに陥(おちい)って逃げまどっていた時、

ある方向から「こちらだ」としっかりした声が聞こえて、周りの人たちは一斉にそちらのほうに走って行ったのだが、

その人だけは、(その声が)なにかおかしい、と感じてその声から逃げるように逆の方向に走ったのだという。

結果、声のした方に行った人たちは全員死亡し、その人は助かったのだとか。

 

この話を読んだときはさすがにゾッと・・・・、

 

おっと、窓もドアも閉(し)めているのに居間との間のふすまがガタガタと・・・、

 

話の方向を変えよう。(笑)

 

このデパート火災で亡くなったのは118人。

その多くが7階にあったアルサロ(アルバイトサロン)の女性や従業員だった。

 

アルサロというのは、素人女性がアルバイトホステスとして接客をする、いまのキャバクラに似た形態の店だった。

 

ただ、今のように若い未婚の女性ばかりというわけではなく、その多くは子どもを抱えたシングルマザーだった。

 

火災後の記者会見で、気丈に応対していたM社長も、記者からそのことを指摘されるとたまらず泣いたという。

 

Sデパートは多くのテナントが入る、雑居ビルの先駆けのような建物だったのだけれど、もっとも多くの死者を出した7回のアルサロはM社長の会社の直営だった。

 

そのアルサロは客が店に支払う料金は驚くほど安かったらしい。

 

わたしがそれで思ったのは、

その店もチップ制だったのかな?

ということ。

 

お客が店内で女性やボーイにチップを渡すことが認められていたのではないか?

 

これはあくまでもわたしの想像にすぎないが・・・。

 

もしそうなら、その店もお金儲けのためだけではなく、従業員の生活も考えたものだったと思う。

 

サービス業に携わる従業員にとって、(店が干渉しない)そういうチップ制はほんとうに有難いから。

 

ただ、お上(かみ)にとっては面白くないだろう。(ZEIKINの問題ね。)

 

火災の原因はデパートに入っていた大手衣料品スーパーの工事に伴うもの(煙草の火の不始末?工事の火花?)といわれたが(出火元はそのスーパーの階)、タバコの火の不始末がいわれた現場監督も裁判の結果無罪となり、出火原因は不明となっている。

 

                 ・・・・・長くなった。続きは次回に。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

ネットにこんな動画があった。

 

[http://:title]

                 ・・・やはりチップを認めていたんだなァ。



 

 

 

 

 

 

 

わたしがホテルで働き始めたのはその火災の3年後。

社長にとっては苦しい時期だったと思うのだが、そんなそぶりは全くなかった。

 

しかし、ほんとうに楽しかった思い出なんて

胸の奥にそっとしまっておくもので、文章にしたり他人に話すものではない、

ということに気づいた。

 

文章はピリッとしないし、他人に自分の幸せ話などしてもいやがられるだけ。(笑)

 

いや、ほんとうにそのホテルでのアルバイト時代は楽しかったから。

仕事も楽しいし、収入も満足過ぎるものだったし、余暇も映画、外食(結構お高いところ)に、ジャズのライブ、ディスコ(時代だなァ(笑))に、と遊び倒していた。

 

対人関係もよく、不幸のかけらも感じなかった稀有な期間だった。

(社会に出てから思いっくそバチが当たったが。)

 

大学は5年生(つまり1年留年)になっていたので、親は学費だけを払う、ということになったのだが、仕送りのあった時より、数倍リッチな生活になった。

 

大学には週に一回行けばよく、こちらも楽勝~♪

 

と、このころの楽しい話を始めれば、またキリがなくなるので、ここはいったん気を引き締めて?M社長の陰(かげ)の部分(と感じたもの)に触れてみたい。

(M社長、ゴメンナサイ。)

 

気持ちよく働かせてもらいながらも、心の片隅にちょっぴり社長に対するネガティブな気持ちがあったのは、社員の人から、M社長の容赦ない労組つぶしの話を聞いていたからだ。

これはけっこう有名らしく、今でもネットでそれに関する話を見ることができる。

 

4年生の時に学費値上げ阻止の闘争に参加したわたしにとってこの話はどうにも気持ちの中で解消しがたく、

じつは、卒業時に支配人からウチの会社に来ないか?と誘われたときに、心は動いたものの、断ってしまったのは、それがあったからだ。

 入社したらどうせわたしは労組側についちゃうだろうから、社長にイヤな思いはさせたくないな、という気持ちだった。

 

しかし、実際に社会に出てみると、学生時代に抱いていた労組のイメージとはまったく違う労組の実態を見るにつけ、

うーーん、そっちの方面でも社長の気持ちがわかるかな~、と、今ではネガティブな感情は無くなっている。

 

実際、ホテルやレジャー施設で働く人は非正規労働者が多いわけだから、給料が保証されている社員がストをやって仕事ができなくなれば困ってしまうわけだし・・・。

 

ま、内側の詳しいことはわからないけれど、労組と社長の厳しい対立はかなり長く続いていたようだ。

 

だから左翼陣営からは嫌われていた?

 

のちに社会党の委員長になる、横浜市長飛鳥田一雄さんが宿泊したことがあった。

 

その都市には皇族や大物政治家の宿泊する、そのホテルよりやや格式の高いホテルがひとつあったのだが、そこが満室だったため、こちらに来たようだった。

 

飛鳥田一雄さんは経営者と労組の対立の歴史知っていたのだろう。終始一貫、キビシイ表情だった。

朝、迎えの車が遅れて、かなりの時間ロビーの椅子に座って待っていたときも、杖を前に背筋をピシッと伸ばして口を真一文字に結んで身じろぎもしない。

 

近寄りがたい雰囲気だった。

 

ボーイの先輩は、

「オレ、あの人は尊敬しているんだよなー。」

とつぶやき、フロントも好意に満ちていたんだけど。

 

車が来ると、杖をついて大またで?力強く歩いて行かれたが、わたしはそのときはじめて飛鳥田さんが足に障害を持っていることを知った。

 

飛鳥田さんも信念の人、という感じだったなァ。

 

 

もうひとつの陰といえば、Sデパート火災だろう。

日本人はチップを渡したり受け取ったりすることに

抵抗があるというのだけれど、WHY(ホワ~イ)?どうして?

 

それって日本人が単にケチなだけ、

あるいは官僚主義に完全に毒されているからではないだろうか?

 

ん?それって乞食(こじき)さん※みたいじゃん、かえってサービスをする人をバカにしているんじゃない?

人間は平等なんだから、

って?

 

どうしてそういう発想になるかねえ。

 

1年ちょっとの間とはいえ、チップを受け取って生活していたわたしから見ると、それはむしろ差別の裏返しのように見える。

日本人の差別意識はホント根強いんだよなあ。自覚できていない差別意識も含めて。

 

と、いっても、

これはあくまでもわたしの経験に基づく個人的見解であって、深く考えたものではない。

ナニ勝手なこと言ってんだ、くらいに思っていただいて結構。

 

でもまあ・・・、とにかく、

チップはウレシイよ~、楽しいよ~、(笑)

 

みじめな気持ちにならないか、って?

いや、全然、まったく。

 

そういう人も子どものころお年玉をもらった経験があるんじゃないかな?

お年玉もらってみじめな気持ちになった?

 

日本人がチップのようなものに対してネガティブな感情を抱くようになったのは、そう古いことではないと思う。

昔から「心付(こころづ)け」「ご祝儀(しゅうぎ)」というものがある(あった?)んだから。

 

そのころわたしはそのホテルがチップオーケーであるのはM社長が外国のホテルの真似(まね)をしているのだ、と思っていたが、

もと役者だったM社長の経験もあったのかもしれない。

 

とはいっても、ホテルが大っぴらにチップを認めていたわけではない。

あくまでも、

もらってもとがめだてはしないよ、というスタンス。

 

だから、チップの話題はホテルではタブーだった。

あくまでも、暗黙の了解、ボーイのひそひそ話の世界。

 

それでも、チップを渡してくれるお客さんの比率は80%を超(こ)していたと思う。

 

しかも心得た?お客さんばかりで、チップを渡すのはエレベーターでか、部屋の中。

ロビーや廊下でいただいたことは一度もない。

 

外人のお客さんの多かったホテルとはいえ、半数は日本人なのだから、みなさんよく知っていたなァ、と、いま思い出しても不思議な気がする。

 

旅行会社が「暗黙の了解」を説明していたのかな?(笑)

 

しかし、だからと言って、チップを渡すか渡さないかでサービスに影響があるわけではない。

チップを要求するようなことはなかったし(それは許されない)、無いからといってサービスやボーイの表情・接客態度に変化があるわけでもない。(中にはそのあたりちょっと怪しい人もいたような・・・(笑))。

 

だから、いただいても、感謝の表現を強く現わすことはなく、さりげなく感謝の気持ちをこめて、外人さんにはサンキュー、日本人にはありがとうございます、と言って軽く会釈するくらいのものだった。

 

内心はまったく別だったのだけど。(笑)

 

こう書くと、ちょとややこしいホテルだな~、と思って敬遠したくなる人もいるかも知れないが、

ホテルの評判は意外なほど良かった。

 

リピーターも多く、旅慣れた女性から「このホテルは(いい意味での)穴場なのよねー」と言われたことがあった。

クレームもほとんどなかった。

 

これはサービスの内容もさることながら、ホテルに人の血が通っていた、というか、アットホームな雰囲気のあったことが大きかったのではないだろうか?

 

そしてそれは、従業員の自由度が高かったことに支えられていたと思う。

 

M社長、仕事に対して非常に厳しい姿勢の人であったかも知れないけれど、ウルサイ人、細かい人ではなかった。

仕事は各自の自主性を尊重する、というか、人をモノ扱いする人ではなかったんだなァ。

 

そのころはまだそんな経営者が存在していた。

 

それだけに、イヤイヤで義務的に仕事をするような人にはかえってつとまらない職場であったかもしれない。

今ではどの企業でも重宝されるような?上だけを見る偽善的、他罰的な要領のいい人も浮いてしまう環境だったように思う。

 

 

↓これは、わたしが働き始める3年ほど前に、学校を卒業してそのホテルにコックとして就職した人がブログでUPしていた、当時のレストラン厨房の様子の写真なのだけれど、みなさんいい表情をしている。

 

f:id:hibi333zakkan:20200502201618j:plain

            (写真お借りしまーす。元ボーイより。(笑))

 

それにしても、今はもう無いホテルの記憶というか、記録をこうして見ることのできるネットのすごさに改めて驚く。

 

こんな画像も見つけた!

f:id:hibi333zakkan:20200502203125j:plain

 

これは実は映画のワンシーン。背景に写っているのがそのホテルだ。

この時はまだ工事中でホテルの開業は翌年。わたしは田舎の中学一年生だった。

 

写っているのは戦前戦後を通じて長く俳優として活躍した藤原釜足さん。

 

映画は加山雄三さんの「若大将シリーズ」のひとつ。※2

 

まだ現役ばりばりといった感じの加山雄三さんだけれど、芸歴はおそろしく長いんだなー。(笑)

 

 

 

うーーん、当時のことを思い出していると、とりとめがない、というか次から次へと記憶が蘇(よみがえ)ってくる。

 

ということで、次回もホテルでのアルバイトの話。なんだか続きそう。(笑)

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ちなみに、わたしは「乞食」という「職業」を認めている。

 

※2

こちらの映画。いまはもう見ることのできない懐かしい風景がてんこ盛り。DVD買おうかな?

[http://:title]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

眠いのだけれど眠れない。

そんなちょっと嫌(いや)な状態のまま、昔の記憶をたどっている。

 

いま思い出しているのは、前回も書いたホテルのボーイ時代のこと。

そのアルバイトをはじめて2、3週間経ったくらいの時だったかな、

その日は夜勤で早朝5時前、ロビーにいるのはわたし一人。

夜勤のときボーイは交代で仮眠をとることになっていたので、わたしはまだ寝起きという感じで、背中を壁につけてうつらうつらしていた。

 

すると、正面のエレベーターがスーッと開いて、小柄(こがら)な老人というか、おじいちゃんという感じの人が出てきた。

 

「こんな朝早くにどうしたんだろう。老人だから朝早く目が覚めてしまってうろうろしているのかな。」

と思っていると、そのおじいちゃん、しばらくロビーを見渡していたが、わたしに気づくと、まっすぐこちらに歩いてきた。

田舎のおじいちゃん風だが、姿勢がよくて足取りもしっかりしている。

 

そしてその老人、わたしの正面に来ると、いきなり、

「こらっ!」

 

大きな声で一喝。

 

「な、なんだ、心当たりないよー。」

と思いながらも居住まいを正して「はッ」という感じになると、その老人。

「なにをダラダラしてるッ。」

 

あ、見苦しい、ということかな、とかしこまったが、老人は緩(ゆる)めず、スゴイ剣幕でしばらく叱り続けた。

「ひでーじいさんにつかまてしまったな」と思ったが、悪意とか嫌味な感じは全くなかったので、直立不動で叱られていたのだが、その様子がおかしかったのか、老人は「は?」という感じで一瞬口を閉じると笑顔になった。

 

そのあとは柔らかな表情になったのだけれど、説教はしばらく続いた。

 

最後は、親し気に、

「いいか、元気だ。元気がないと社会で生きていけんぞ。元気を出せ。」

というと、またすたすたと歩いてエレベーターのところに戻り、そのまま上階に上がっていった。

 

「あれ?あんなじいさん泊まっていたかなあ?それにしても変わったじいさんだったなァ。」

と思ったが叱り方がからっとしていたので、それが尾を引くことはなかった。

 

その日のお客さんのチェックアウトが一段落して、夜勤と昼勤の引継ぎをしていると、その老人がこちらのほうに来た。

支配人がその後をついて歩いている。

 

老人はわたしたちの横を通るとき、ニヤッと笑って、

「元気でやってるか。」

先輩のボーイたちが頭を下げた。

 

その老人がホテルのМ社長だと、先輩が教えてくれた。

 

М社長はそのホテル以外にもいくつかのホテルやレジャー施設などを経営しているので、ここにはあまり来ない、ということだった。

 

「はァ、それで。納得。」

 

しかし、あまり圧迫感とかは感じなかった。

 

フロントや事務所の社員の人たちの話だと、とても厳しい人だということだったので、ちょっと拍子抜けがしたくらいだった。

 

ただ、ボーイやアルバイトなど、今でいう非正規労働者を叱るようなことはなく(わたしは叱られたが・・・)、社長の前でピリピリしている社員さんや支配人などの幹部とは違って、アルバイトたちはわりとリラックスしていたようだった。

 

今から思うと、下に厚い人だったのだろう。

わたしもM社長にはいいおじいちゃんという印象しか残っていない。

 

旅役者の子役から身を起こしたというだけあって(これは最近ネットで知った)、下層の人たちの苦しさを知る人だったのだろう。

 

ということで、そのアルバイトはおいしかったー。(笑)

 

時間給はふつうの金額だったのだが、ナント、そのホテルはチップオーケーだったのだ。

このチップが時間給でもらう給料よりも2倍、3倍、ときにはそれ以上の金額になった。

 

 

・・・あ、眠くなった、この続きはまた明日書こう。zzZZ

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

それでも厳しいことはキビシイ社長だったんだろうなァ。

ネットを検索していると、横浜の某レジャー施設の事務所に掲げられていたというM社長自筆の「社訓」の写真があった。

f:id:hibi333zakkan:20200501060156j:plain

そのホテルの事務所にも同じような額が掲げられていたが、文面は少し違っていたようだ。

 

たしか、「鉄の信念、鉄の意志」という言葉があって、「うへっ」とちょっと引いた記憶がある。

(ダメ人間だからね、わたしは。

豆腐の信念、豆腐の意志 ・・・・とまでは言わないけれど。(笑))