食料品(しょくりょうひん)をはじめとした諸物価(しょぶっか)の高騰(こうとう)で、いやあ、苦(くる)しい苦(くる)しい。
ニッポン国(こく)から見捨(みす)てられたみたいになっている、可処分(かしょぶん)所得(しょとく)が著(いちじる)しく低下(ていか)した老(ろうじん)人としては、外出(がいしゅつ)、外食(がいしょく)もままならないので、引(ひ)きこもって図書館(としょかん)から借(か)りて来(き)た本(ほん)を読(よ)んでいる。
いま読(よ)んでいるのは、宗教(しゅうきょう)学者(がくしゃ)の島田裕巳(しまだひろみ)さんが書(か)いた「捨(す)てられる宗教(しゅうきょう)」。
読(よ)みはじめたばかりだけど、興味(きょうみ)深(ぶか)い内容(ないよう)で面白(おもし)く読(よ)み進(すす)めそうだ。
もう一冊(いっさつ)、同(おな)じ著者(ちょしゃ)で「宗教消滅(しゅうきょうしょうめつ)」という本(ほん)も借(か)りてきているので、いま読(よ)んでいる本(ほん)を読(よ)み終(お)えたら、続(つづ)いて読むつもり。
こちらは、“資本主義(しほんしゅぎ)は宗教と心中(しんじゅう)する“”という副題(ふくだい)がついている。
わたしは、従来(じゅうらい)の宗教を滅(ほろ)ぼしているのはマルキシズムに基(もと)づいた社会主義(しゃかいしゅぎ)や共産主義(きょうさんしゅぎ)というより、資本主義そのものだと考(かんが)えているので、どのような内容(ないよう)なのか、気(き)になるし楽(たの)しみでもある。
どちらも大活字本(だいかつじぼん)なのでありがたい。
読書三昧(どくしょざんまい)、とはいっても引(ひ)きこもってばかりでは健康(けんこう)に悪(わる)いので、たまには外(そと)の空気(くうき)を吸(す)うために散歩(さんぽ)に出る。
一昨日(おととい)の夜(よる)6時(ろくじ)頃(ごろ)、図書館(としょかん)近(ちか)くの公園(こうえん)を散歩(さんぽ)していて目(め)についたのが、伐採(ばっさい)された樹木(じゅもく)の古(ふる)い切(き)り株(かぶ)。
公園(こうえん)に限(かぎ)らず、 このところ道(みち)を歩(ある)いて
いると、伐採(ばっさい)された木(き)の多(おお)いことに気(き)づく。
伐採(ばっさい)された木の株には切(き)り込(こ)みが入(い)れられたり、除草剤(じょそうざい)が塗(ぬ)られたりして再(ふたた)び芽(め)が出ることのない処理(しょり)がほどこされている。
伐(き)った木の切り株というのは、けっこう厄介(やっかい)なものらしい。
しかし、わたしみたいな老人からすれば、何十年も生きてきた木が切られるのはチト悲(かな)しい。
いま切り倒されている公園の木や街路樹(がいろじゅ)は、わたしくらいの年齢(ねんれい)なのかなァ、それとももっとお年寄(としよ)りかな、と。
メディアやSNAで老人バッシングがあたりまえのように行(おこな)われ、それに応(おう)じて老人を冷遇(れいぐう)する政治(せいじ)が行われている昨今(さっこん)のこの国(くに)の状況(じょうきょう)であってみればなおさら。(笑)
生命(せいめい)よりも何(なに)よりも資本主義的(しほんしゅぎてき)合理性(ごうりせい)が優先(ゆうせん)する現代(げんだい)にあって、
年老いて生産性のなくなったわたしなどは、お役所(やくしょ)に伐採(ばっさい)された木々(きぎ)にも自分(じぶん)の運命(うんめい)を思(おも)ってしまうのだ。
そんな沈(しず)んだ気持ちで公園を歩いていたら、
お、
かなり前(まえ)に切られて、完全(かんぜん)に死(し)んでいたような古(ふる)い切り株から芽(め)が出て成長(せいちょう)している・・・。
人間は心臓(しんぞう)が止(と)まって〇んでしまえば、二度(にど)と生命(せいめい)が戻(もど)ることはないが、樹木(じゅもく)はすべての機能(きのう)が停止(ていし)したように見えても、こんな再生(さいせい)した姿(すがた)を見せることがある。
人間にも〇から生(い)き返(かえ)った話(はなし)が伝(つた)えられてはいるけれど、それらはまさに宗教(しゅうきょう)の領域(りょういき)の話(はなし)だろう。
帰(かえ)り道(みち)、家(いえ)の近(ちか)くの小(ちい)さな公園(こうえん)を通(とお)ったら、白(しろ)い山茶花(さざんか)の花(はな)が満開(まんかい)だった。
木(き)の上(うえ)にはこのところひときわ鮮(あざ)やかに輝(かがや)いている木星(もくせい)。
46億歳(よんじゅうろくおくさい)の木星(もくせい)と71歳のわたし、そしてたぶんわたしより年下の(^^)山茶花の木が、いま同(おな)じ空間(くうかん)に存在(そんざい)している。
木星もわたしも、山茶花もこの宇宙(うちゅう)の歴史(れきし)の結果(けっか)としてここにあるのだ、と考えると、気持(きも)ちが少(すこ)し安(やす)らぐ。
現代(げんだい)において"神(かみ)"のようにふるまっている資本主義、資本主義社会(しほんしゅぎしゃかい)、そしてよしんば世界(せかい)の富(とみ)の大半(たいはん)を握(にぎ)っているような大資本家(だいしほんか)がいたとしても絶対的(ぜったいてき)なものではなくいずれ滅(ほろ)ぶのだ。
無常(むじょう)の一瞬(いっしゅん)の美(うつく)しさ、静寂(せいじゃく)、安(やす)らぎ。
それ以上(いじょう)のものがどこにあるだろうか。
希望(きぼう)があるわけではないが、絶望(ぜつぼう)もない。
そして、生命はどこまでも平等(びょうどう)。
そんなことを木星さんが教(おし)えてくれた(?)ような気がする。
・・・・・・・・、
それにしても、政治家(せいじか)、官僚(かんりょう)、資本家(しほんか)といった今(いま)の日本(にほん)の支配層(しはいそう)の人たちを見て思うのだけど、
人間(にんげん)、傲慢(ごうまん)になるほどつまらないことはない。