2023年4月もあとわずか。

気(き)持(も)ちよく晴(は)れた27日、木陰(こかげ)で本を読もうと公園(こうえん)に出かけた。

 

公園の入(い)り口(ぐち)で上を見ると青(あお)い空(そら)に月が浮(う)かんでいる。28日が今月(こんげつ)の上弦(じょうげん)の月。

 

野外(やがい)のテーブルも木陰の具合(ぐあい)?も読書にちょうどいい感じ。

                                  (^^)

            

 

最初(さいしょ)は仏教(ぶっきょう)関係(かんけい)の本を読んでいたのだけど、なんとなく雰囲気(ふんいき)というか気分(きぶん)にそぐわなかったのでもう一冊(いっさつ)持(も)ってきていたパスカルの「パンセ」にチェンジ。

 

緑(みどり)豊(ゆた)かな公園の木陰でパンセを読んでいるなんて・・・むふふ。

悩(なや)み多(おお)き青年(せいねん)の頃(ころ)に戻(もど)ったようでウレシイ。(←何(なん)のために読書をしている?)

 

よそ見(み)をしながら拡大鏡(かくだいきょう)を使ってポチポチ読んでいて、気(き)がつくと午後(ごご)四時(よじ)半(はん)になっていた。

公園に来たのが午後三時頃だったから、いつのまにか1時間半経(た)ったことになる。(それなりに集中(しゅうちゅう)していたのかな?」

 

上空(じょうくう)を飛行機が通(とお)り過(す)ぎて行く。

 

せっかく公園に来たのだからと、本をたたんで散歩(さんぽ)。

 

桜の花はかなり前に散ってしまったと思うのだけど、まだぽつぽつと花をつけている木がある。

 

 

満開の桜もいいけど、こうやって葉(は)の陰(かげ)でひっそりと咲いている桜の花も風情(ふぜい)があって、いい。

 

しかし、景色(けしき)はすっかり初夏(しょか)。

 

 

傾(かたむ)いた日(ひ)の光(ひかり)で影(かげ)が長(なが)く伸(の)びる。

足(あし)が長(なが)く見えるのがうれしくてついパチリ。(笑)

          

 

そろそろ帰ろうか、と思っていると、

ん?

 これはナンダ?

 

もしかして・・・。さ、サクランボ?

     

 

いけない、いけない、と思いつつ、摘(つ)んでしまった。(^^)

   

 

そして、パクリ。

うん。甘(あま)さはなくて少し酸(す)っぱいだけだったけど、味(あじ)と香(かお)りはたしかにサクランボだった。

              

 

そして、さらにいけないと思いつつ、3粒(つぶ)ほど摘(つ)んでポケットへ。

                                (^^;)

夕食(ゆうしょく)後(ご)のデザート。

まったく甘くないとはいえ、高価(こうか)なフルーツであるサクランボが夕食のデザートなんて、ぜいたくなものだ。

 

貧(まず)しい老人への自然(しぜん)?からの恵(めぐ)み。

 

なんて考えていると、ふと、

小学生(しょうがくせい)の時(とき)、学校(がっこう)からの帰(かえ)りに悪(わる)ガキ仲間(なかま)といっしょに寄(よ)り道(みち)をして山間(やまあい)にある瓜畑(うりばたけ)に行って瓜を食(た)べていたことを思い出した。※

 

あれはおいしかったなァ。(^^;)

 

一度(いちど)だけ畑の持(も)ち主(ぬし)のおじさんに見つかって「コラー」って怒鳴られたことがあったけど、いや、そのときの逃(に)げ足(あし)の速(はや)かったこと。

わたしの小学生の時の最高(さいこう)速度(そくど)だったと思う。(笑)

 

もう亡(な)くなっていると思うけど、追(お)いかけようとはせず、家(いえ)に苦情(くじょう)も言ってこなかった、あのときのおじさん、ありがとうね。合掌(がっしょう)。

 

こんなわたしが言うのも何(なん)なのだけど。

自然の恵(めぐ)みというのはありがたい、というか、人間は自然の恵みで生きている、存在(そんざい)しているものなんだなァ、と思う。

 

そのことを現代(げんだい)に生きる我々(われ、われ)、というか、近(きん)現代(げんだい)の人類(じんるい)は忘(わす)れているのではないだろうか?

 

わたしは、学生時代から今に至(いた)るまで、マルクスの「労働価値説(ろうどうかちせつ)」というものがどうにも理解(りかい)できないでいる。

 

人間の労働が全ての価値(かち)を生み出すという考えだと思うのだけど、これはまさに資本主義(しほんしゅぎ)を前提(ぜんてい)として言えることであって、それ以前(いぜん)のというかそれ以前から、厳然(げんぜん)として人間を産(う)み、生かしている、自然の恵みということが度外視(どがいし)されているのではないか、と考えるからだ。

 

だから、大富豪(だいふごう)という存在に対(たい)しても、労働者(ろうどうしゃ)の搾取(さくしゅ)(資本主義ではたしかにそうだ)によるもの、ということだけではなく、

古代(こだい)の中国(ちゅうごく)思想(しそう)のように、

本来(ほんらい)、天(てん=自然?)が人間に平等(びょうどう)に与(あた)えているものである富(とみ)を独(ひと)り占(じ)めしている、つまり、天や他の人たちから富を盗(ぬす)んでいるのが大富豪(必要(ひつよう)以上(いじょう)の富を蓄積(ちくせき)している人)なのだ、という観点(かんてん)で考えることも必要(ひつよう)なのではないだろうか。

 

(現代(げんだい)の共産(きょうさん)主義(しゅぎ)運動(うんどう)では、否定(ひてい)すべき私有財産(しゆうざいさん)とは労働者を搾取できるほどの資産(しさん)、ということになっているらしい。)

 

平等(びょうどう)、公平(こうへい)ということは、古代(こだい)以前(いぜん)?の人間にとっては集団(しゅうだん)を維持(いじ)する大原則(だいげんそく)であって、それを破(やぶ)る、破(やぶ)ろうとする者に対しては制裁(せいさい)が加(くわ)えられたという。

 

ちなみに、「平等」「公平」については、こんなイラストがあった。

 

うーん、なるほど・・・。

 

と、まあ、貧(まず)しい老人(ろうじん)が人目(ひとめ)を盗(ぬす)んで?道端(みちばた)?の木から3個のサクランボをいただいた?ことから、なんだかヘンな?方向(ほうこう)に話が行ってしまった。(^^;)

 

でも、いまや死語(しご)、あるいは官(かん)が民(みん)を抑圧(よくあつ)するために使(つか)われるだけのようになっている平等と公平を有効的(ゆうこうてき)に実現(じつげん)するには、西洋(せいよう)のヘーゲル的な思考(しこう=マルクスヘーゲル左派(さは)から始(はじ)めた。)だけではなく、中国(ちゅうごく)思想(しそう)?も取(と)り入(い)れていかなくてはいけないんじゃないかな?

と思っている。

 

・・・うん。

木陰での読書や散歩はなかなか健全(けんぜん)な??思考(しこう)に導(みちび)かれて心(こころ)にも身体(からだ)にもいいような気がする。(笑)

 

資本主義やマルクス主義ファシズムとの葛藤(かっとう)はここで書くべきテーマではないので、裏(うら)のブログ「何のために生きている?」でまたやろうと考えている。

 

ということで、

 

人間(にんげん)社会(しゃかい)ではクソ面白(おもしろ)くもないことばかりだったのだけど、また自然に癒(いや)されたこの月(つき)が終(お)わる。

 

・・・、 人は苦しみ、花は咲く。(泣)

2023年4月ちゃんバイバ~イ \(^^)

 

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瓜畑といえば、中国の古典(こてん)にこんな格言(かくげん)があった・・・。

 

『瓜田(かでん=瓜畑(うりばたけ)。※2)に履(くつ)を納(い)れず、李下(りか)に冠(かんむり)を正(ただ)さず。』

 

これは、

瓜の畑の中に足をふみ入れると瓜を盗むと疑(うたがわ)われる。

また、李(すもも)の木の下で冠を被(かぶ)り直(なお)せば、李を盗むと疑われる、

から、人に疑われるような行為(こうい)をしてはいけないよ。

という意味(いみ)。

らしい。(笑)

 

大昔(おおむかし)から変(か)わらない光景(こうけい)だったんだなァ。

                               (^^;)

改(あらた)めて、         合掌。

 

ほんとうにおいしかったです。ありがとうございました。(泣)

 

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※2

「畑」は和製(わせい)漢字。