春雷(しゅんらい)の後(あと)、

本当(ほんとう)に本格的(ほんかくてき)な春(はる)が来た。

 

日差(ひざ)しの強(つよ)い昼間(ひるま)は初夏(しょか)を思わせるほど。

 

4月に入(はい)ってすぐの晴(は)れた日に、小用(しょうよう)があって都電(とでん)で出かけた。

 

その日はダイヤが乱(みだ)れていたようで、遅(おく)れて来た電車はキツキツの満員(まんいん)だった。

それでも何人(なんにん)かの人(ひと)は押(お)し入(い)って?行ったのだけど、わたしは恐(おそ)れをなしてパス。

 

そして、そのすぐあとに来た電車はガラガラだった。(ラッキー(^^)V)

 

都電はいつも混(こ)んでいて、わたしは座(すわ)った記憶(きおく)がないのだけど、その日はもっとも景色(けしき)のよく見える最後部(さいこうぶ)の座席(ざせき)をとることができた。

 

空(す)いている都電というのはいいもので、一人用(ひとりよう)の席(せき)に座(すわ)っていると、少(すこ)しのイヤなことなど忘(わす)れるくらいに心地(ここち)よい。

(わたしは還暦(かんれき)から10年目だから、10歳児(さいじ)みたいなものなんだな。   ←カワイクない10歳児 (^皿^))

 

ということで、気分(きぶん)を良(よ)くして途中(とちゅう)途中で動画(どうが)を撮(と)っていた。

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     ↑ 新庚申塚(しんこうしんづか)から庚申塚を経(へ)て巣鴨新田(すがもしんでん)への途中(とちゅう)まで。

 

運転手(うんてんしゅ)さんいい声(こえ)だね。

 

 ↓ こちらは学習院下(がくしゅういんした)から面影橋(おもかげばし)。

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東京に住(す)みついて30年ちょっと。

ロクなことのなかった東京だけど、空(す)いた都電に揺(ゆ)られたりしていると、まあ、それほど捨(す)てたものではないのかな、という気(き)もちょっぴりはする。

ちょっぴりね。(笑)

 

そういえばこんな歌(うた)があったっけ。

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いいカバー。

 

こちらが本家。

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この歌がリリースされた1974年はわたしは東京ではないトコで学生(がくせい)をしていた。

別段(べつだん)、東京へのあこがれもなかったので、この歌を聞いてもフーンと思ったくらいのものだった。

それより、同(おな)じ年(とし)に出た「わたしは泣(な)いています」のりりィのハスキーボイスに痺(しび)れていた。(^^;)

 

東京に住(す)み着(つ)いたのは中年(ちゅうねん)になってからなのだけど、振り返って思うのは、

東京というのは罠(わな)や落(お)とし穴(あな)に満(み)ちた危険(きけん)なところだったなあ、ということ。

これまでの人生(じんせい)でわたしが痛(いた)い目(め)にあったのは大阪と東京、この二つの都市(とし)でだけ。それ以外(いがい)のところでは至(いた)って平穏(へいおん)無事(ぶじ)だった。(笑)

 

巨大(きょだい)都市の華(はな)やかさの裏(うら)には深(ふか)く暗(くら)い闇(やみ)があって、それが若者の夢(ゆめ)や希望(きぼう)、憧(あこが)れを食(く)いつぶしているというのが現実なのであってね、超一流(ちょういちりゅう)企業(きぎょう)の安定(あんてい)したサラリーマン生活をしている人か、正規(せいき)採用(さいよう)公務員(こうむいん)でもない限(かぎ)り闇に飲(の)み込(こ)まれる恐(おそ)れがある、

なんてのは、まあ、誰(だれ)もが知っている「常識(じょうしき)」。(笑)

 

それでも、東京が今も多くの人を引きつけているのはそれを超(こ)える魅力(みりょく)がこの数千万人都市にあるからだろう。

この年(とし)になって妙(みょう)に沁(し)みるこの「東京」という歌もそれを歌っているのだと思う。

 

この歌はYouTube動画でいくつかUPされているが、その中の一つにこんなコメントが書かれてあった。

 

「東京へ行っては夢(ゆめ)破(やぶ)れて故郷(こきょう)へ帰(かえ)る歌ばかりの中(なか)、この歌が出たとき東京者(とうきょうもの)の私は本当(ほんとう)に嬉(うれ)しかった。」

 

故郷に帰る歌ばかりではないと思うけど、

なるほど。

 

 

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この歌を作詞作曲した森田貢(もりたみつぎ)さんは去年、68歳で亡くなったとのこと。

ご冥福を祈ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年3月(さんがつ)もあとわずかになった。

このところずっと天気(てんき)が悪(わる)く、いまも雨(あめ)がじとじと降(ふ)っている。

「しとしと」ではなく「じとじと」なのはわたしの気持(きも)ちも湿(しめ)っているから。(^^;)

今年(ことし)の3月(さんがつ)は社会(しゃかい)にも個人的(こじんてき)なことでも理不尽(りふじん)な思(おも)いを抱(いだ)くことの多(おお)い不調(ふちょう)の月(つき)だった。

 

「理不尽」という言葉(ことば)を辞書(じしょ)で引(ひ)くと、

「物事(ものごと)のすじみちが通らないこと。理屈(りくつ)にあわないこと。無理(むり)なこと。また、理屈にあわないことを無理に押(お)し通(とお)そうとすること。」

とあるけど、個人的(こじんてき)には「理屈(りくつ)に合(あ)わないこと、あるいはすじみちが通(とお)らないことを無理(むり)強(じ)いされて泣(な)き寝入(ねい)りさせられること」という一節(いっせつ)を付(つ)け加(くわ)えてほしい、

と、まあ、個人的(こじんてき)なものはそういうこと。(笑)

生活(せいかつ)にも影響(えいきょう)があるしね。(具体的(ぐたいてき)な内容(ないよう)は言えない。(笑)))

 

辞書(じしょ)の説明(せつめい)の後半(こうはん)にある「理屈(りくつ)に合(あ)わないことを無理(むり)に押(お)し通(とお)そうとすること」というのは、昨今(さっこん)の政治(せいじ)に言(い)えることかも。

国会(こっかい)なんかを見(み)てもね、希望(きぼう)のきの字(じ)も見(み)いだせない。

昨日(さくじつ)の政府(せいふ)与党(よとう)による予算案(よさんあん)の強行採決(きょうこうさいけつ)に抗議(こうぎ)して、ひとり牛歩(ぎゅうほ)戦術(せんじゅつ)で抵抗(ていこう)したれいわ新選組(しんせんぐみ)の姿(すがた)に涙(なみだ)した国民(こくみん)が多(おお)かったのは、やはり理不尽(りふじん)な思(おも)いをしている人たちが多(おお)いからだろう。

国民(こくみん)の苦労(くろう)を理解(りかい)している国会議員(こっかいぎいん)が少(すく)ない。

多(おお)くの国民(こくみん)の目(め)には、選挙(せんきょ)も「不条理(ふじょうり)※」なものとして映(うつ)っているのではないだろうか。

              ( ※不条理=理不尽の類語(るいご)\(^^))

この国(くに)は弱(よわ)い立場(たちば)の人、庶民(しょみん)の泣(な)き寝(ね)入(い)りで成(な)り立(た)っているように見える。

 

ともあれロクでもなかった3月。早(はや)く行(い)っちまえー。(WBC(ワールドベースクラシック?なんか知(し)るかー。← 非国民(ひこくみん)?(笑))

 

とまあ、鬱々(うつうつ)として楽(たの)しまず、といった状態(じょうたい)だったのだけど、

それでも自然(しぜん)の「条理(じょうり)?」で咲(さ)く花々(はなばな)には心(こころ)慰(なぐさ)められた。

 

感謝(かんしゃ)の気持(きも)ちをこめて3月の花(はな)や自然(しぜん)を振(ふ)り返(かえ)って、心を落(お)ち着けよう。(笑)

 

3月の初め頃。モクレンかな?

 

   

このころは何事(なにごと)もなくまだ気持ちが落ち着いていた。(^^)

 

今年(ことし)ツブされて歩道(ほどう)になった花壇(かだん)から逃(に)げた?花(水仙(すいせん)の一種(いっしゅ)?)がひとりぽつんと?去年(きょねん)の花壇(かだん)を見ているような様子(ようす)にちょっぴり同情(どうじょう)していたり。

     

  

 

左(ひだり)が今年の花(上(うえ)の写真(しゃしん)の拡大(かくだい))

で右側(みぎがわ)が去年のもの。一見(いっけん)おなじところに咲(さ)いているようだけど、右側の花が咲いていたのは歩道になっている場所(ばしょ)。

 

中旬(ちゅうじゅん)。

「あーあ・・・(泣)」なことが重(かさ)なって落(お)ち込(こ)んでいた。

 

気(き)晴(ば)らしで自然(しぜん)のある公園(こうえん)へ。

 

 途中(とちゅう)。菜(な)の花(はな)が咲(さ)いていた。

 

暖(あたた)かかった。水(みず)ぬるむ春(はる)、という言葉(ことば)が実感(じっかん)できる風景(ふうけい)。

 

水(みず)の音(おと)。 

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鳥(とり)の鳴(な)き声(ごえ)と飛行機(ひこうき)の音(おと)が・・・(^^;)

 

自然の中(なか)でポケッとしているとほんとうに癒(いや)される。

夕(ゆう)暮(ぐ)れ。  帰(かえ)りたくない。

 

で、一昨日(おととい)。

肌(はだ)寒(さむ)い曇り空(くもりぞら)の下(した)、久々(ひさびさ)に外出(がいしゅつ)。

(少(すこ)しやつれたかな?   ←体重(たいじゅう)は増(ふ)えた(笑))

 


マンサクの花が満開(まんかい)だった。(花がピンクだったのでこれはトキワマンサク。ふつうのマンサクの花は黄色(きいろ)。)

 

しばらく見(み)上(あ)げていた。(やっぱり外(そと)に出なくちゃなァ。)

 

桜(さくら)は満開(まんかい)になり、

 

花壇にはチューリップが咲いていた。

(上手(うま)く咲かせるものだ。)

 

まだ3月だというのに、ツツジも満開(まんかい)、というか、花が散(ち)りかけている。

(寒(さむ)い中(なか)、ご苦労(くろう)さまでした。中旬(ちゅうじゅん)頃(ころ)の暖かい天気にダマされたかな?(笑))

       

 

 日(ひ)が沈(しず)むころ、空(あ)き地(ち)?のベンチに腰(こし)をかけて桜の花を見上げていると、

 

桜の木の上を飛行機(ひこうき)が飛(と)んで行った。

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旅客機(りょかくき)だから平和な光景で、満開(まんかい)の桜ともなんとなく調和(ちょうわ)している。音(おと)も許(ゆる)せるかな、と思うけど、これが爆撃機(ばくげきき)だったら怖(こわ)いだろうな。

 

何(なに)はともあれ平和であるのはありがたいことだ。

不運(ふうん)だ、といっても命(いのち)まで取(と)られるわけではなし(取られることもあるかも?※(^^;))

 

逆境(ぎゃっきょう)のときはじたばたせずに最低限(さいていげん)のやるべきことをやっていればいいのだと思う。

不運(ふうん)だって災難(さいなん)だっていつまでも続(つづ)くことはないのだから。

 

しかし、それにしてもしんどいな、と思いながら入力(にゅうりょく)していると、外(そと)で雷(かみなり)が2度(にど)鳴(な)った。

 

春雷(しゅんらい)。

 

本格的(ほんかくてき)な春を呼(よ)ぶという春の雷(かみなり)。

この肌(はだ)寒(さむ)さも今日(きょう)までなのだろうか。

明日(あした)の天気予報(てんきよほう)は、晴(は)れ。

 

わたしは横着(おうちゃく)せずに明日(あした)やるべきことをしっかりやろう。(笑)

 

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

〇亡(しぼう)者(しゃ)数(すう)の異常(いじょう)な増加(ぞうか)を政府やメディアが無視(むし)しているのは怖い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     

     

    

 





















 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3月の初旬(しょじゅん)にしては

暖(あたたか)かい日(ひ)が続(つづ)いている。

 

わたしがいくら寝(ね)ても眠(ねむ)いのは、

春眠(しゅんみん)暁(あかつき)を覚(おぼ)えず

というこの春(はる)の気候(きこう)のせいか、

それとも、

このあいだ人生(じんせい)にプチ絶望感(ぜつぼうかん)を抱(いだ)くような出来事(できごと)があって、少(すこ)し体調(たいちょう)を崩(くず)しているからだろうか?

(何歳(なんさい)になっても嫌(いや)なことはついてまわるものでね・・・。)

 

いずれにせよ、朝(あさ)なかなか起(お)きられないときは、けっこうな時間(じかん)までカーテン閉(し)めっぱなしという状態(じょうたい)になる。

 

こんなとき、少し前まではこのあたりをテリトリーにしている一羽(いちわ)のカラスがベランダに来て、“どうしたの~“という感じで何回(なんかい)か鳴(な)く、ということがよくあった。

 

のだけど、今回(こんかい)は一度(いちど)もない。

 

それだけではなく、この10日(とおか)ほどはまったく鳴(な)き声(ごえ)を聞(き)かず、この近(ちか)くにいる気配(けはい)さえない。

 

この2年ほどは毎日(まいにち)そのカラスが鳴かない日がなく、声(こえ)も覚(おぼ)えてしまっているほどなのだけど。

 

なんだかヘンだな、と思っていたら、このあいだ近くのスーパーで買い物をしていた折(おり)に、店内放送(てんないほうそう)があって、

"お買(か)い物(もの)を自転車(じてんしゃ)のカゴに入れたたままにしておくとカラスに取(と)られますのでお気(き)をつけください“

 

これを聞いてご近所(きんじょ)カラス(そう呼(よ)んでいた)が姿(すがた)を見せなくなった理由(りゆう)がわかった気がした。

 

たぶん、悪(わる)いカラスが出張(でば)ってきているのだ。

それで、一羽でこのテリトリーを守(まも)っていたご近所カラスは姿(すがた)を消(け)した、と。

 

カラスも人間と同じで悪い奴(やつ)といい奴(やつ)がいる。

 

ご近所カラスはいい奴。

これは長年(ながねん)の付き合いがあるわたしが保証(ほしょう)する。(笑)

以前(いぜん)はベランダに遊(あそ)びに来たら魚肉(ぎょにく)ソーセージをやったりしていたのだけれど、途中(とちゅう)からパートナーらしき雄(おす)カラスが一緒(いっしょ)に来(く)るようになって(ご近所カラスはメス)、これが結構(けっこう)な悪党(あくとう)カラスだったので(いろいろあって(笑))エサをやるのはやめた。

 

それでもご近所カラスはあいかわらずたまに遊(あそ)びに来(き)て、夏(なつ)の暑(あつ)い日など器(うつわ)に水を入れてやったりしていると、こちらの気(き)もちを汲(く)んで?水でくちばしを洗(あら)うような仕草(しぐさ)をする。

 

自由(じゆう)カラス(わたしは野生(やせい)と言わず「自由」という)に人間の気持ちがわかるのか、と思われるかもしれないけれど、長年(ながねん)同じ自由カラスとつきあっていると、そういう面(めん)ではカラスも人間もそう大差(たいさ)はないな、と思えてくる。

 

悪党の多いカラスだけど、なかにはカラスの異名(いみょう)である「慈鳥(じちょう)」という名(な)にふさわしいカラスもいる。

慈鳥というのはカラスが年老(としお)いた親(おや)カラスにエサを持っていって養(やしな)うという言(い)い伝(つた)え?からきたものらしいが、なるほど、ほんとうにそういうこともあるのかな?と思わせるものがこのご近所カラスにはある。

 

たとえば、足(あし)を何本(なんぼん)か失(うしな)ったメスのカブトムシを高(たか)い階(かい)にある私の家のベランダに置(お)いてわたしに飼(か)わせたのはこのカラスの仕業(しわざ)だと思っている。

(だから、このカブトムシが死んだとき、近くに来て悲しい声で鳴いた?)

 

 

 

またベランダから黒い子ネコがふらふらと道を歩いているのが見えたとき、ご近所カラスがすぐ横(よこ)のフェンスにとまって子ネコを見下(みお)ろしていたことがあった。

「ひょっとして子ネコを食(た)べるんじゃないだろうか」

と思っていると、

子ネコはフェンスの近(ちか)くまで行ってカラスを見上(みあ)げて、そのまましばらくいたけれど、やがて歩(ある)いて去(さ)って行った。

その子ネコは成長(せいちょう)して、今(いま)もこの近所で見かける。

とまあ、とにかくこのご近所カラスは「いい奴」なのだ。(^^)

 

これ、わたしの思(おも)い込(こ)みでそう見えているだけではないのか?

と思われるかもしれないが、案外(あんがい)、人間と動物(どうぶつ)の差(さ)は人間が考(かんが)えているほどには大(おお)きくないのかもしれない。

 

昔の人はそのあたりのことがよくわかっていたようで、「列子(れっし)」にこんな一文(いちぶん)がある。

 

『禽獣(きんじゅう)の智(ち)自然(しぜん)に人と童(おな)じき者(もの)有(あ)り。その斉(ひと)しく生(せい)を摂(せっ)せんと欲(ほっ)する、亦(また)智を人(ひと)に仮(か)らず。

牝牡(ひんぼ)相(あい)偶(ぐう)し、)母子(ぼし)相(あい)親(した)しみ、平(へい)を避(さ)けて険(けん)に依(よ)り、寒(かん)を違(さ)りて温(おん)に就(つ)く。

居(い)れば則(すなわ)ち群(ぐん)有(あ)り、行けば則ち列(れつ)有り。

小者(しょうしゃ)内(うち)に居(お)り、壮者(そうしゃ)外(そと)に居(い)る。飲(の)めば則ち相携(あいたずさ)え、食(くら)えば則ち鳴き群(ぐん)す。』

 

=「禽(とり)や獣(けもの)の知能(ちのう)も、おのずから人と同じものがある。それらがひとしく自己(じこ)の生命(せいめい)を養(やしな)おうとする場合(ばあい)も人間に知恵(ちえ)を借(か)りることはない。

雌雄(しゆう=オスとメス)がつがい、母子(ははこ)が親(した)しみ、(敵を避(さ)けるために)平地(へいち)を避けて険処(けんしょ=けわしいばしょ)に棲(す)み、寒(さむ)いところを去(さ)って暖(あたた)かいところに行く。

(木などに)止(と)まるときは群(む)れをなし、進(すす)むときは列(れつ)をなし、幼(おさな)いものを列の内側(うちがわ)にして、強(つよ)い者(もの)が外側(そとがわ)に立つ。水を飲むときは連(つ)れ立(だ)って行(い)き、エサを食(た)べるときは鳴(な)いて群(む)れを呼(よ)び集(あつ)めるではないか。」

 

なるほど。

傲慢(ごうまん)と偏見(へんけん)を取(と)り去(さ)って、人間(にんげん)本来(ほんらい)の素朴(そぼく)な目で見れば、動物のほんとうの姿(すがた)がよく見えてくる、ということだろう。

そして、この文章(ぶんしょう)は、こう続(つづ)く。

 

『太古(たいこ)の時は、すなわち人と同じく処(お)り、人と並(なら)び行(ゆ)く。

帝王(ていおう)の時、始(はじ)めて驚駭(けいがい)散乱(さんらん)す。末世(まっせ)に逮(およ)んでは、隠伏(いんぷく)逃竄(とうざん)し、以(もっ)て患害(かんがい)を避(さ)く。』

 

=「太古(たいこ)の昔(むかし)には禽(とり)や獣(けもの)も人と同(おな)じ場所(ばしょ)にいて、人と並(なら)んで歩(あゆ)んでいた。

しかし、三皇五帝(さんこうごてい=中国(ちゅうごく)伝説(でんせつ)上(じょう)の皇帝(こうてい))の時代(じだい)になると彼らは人を恐(おそ)れて逃(にげ)げ散(ち)るようになった。さらに下(くだ)って末(すえ)の世(よ)になると、彼らは山野(さんや)に身(み)を隠(かく)して逃(に)げ回(まわ)り、それで危害(きがい)を避(さ)けるようになったのである。」

 

これは、時代が進(すす)むにつれて、動物たちに人間の恐ろしさがわかってきた、ということか?それとも人間がだんだんと残酷(ざんこく)になってきた、ということか?

ここ(列子)ではそこまでは書いてくれていないが、動物たちにとって人間が最(もっと)も厄介(やっかい)な存在(そんざい)であることは間違(まちが)いないだろう。

 

ということで、今(いま)わたしが心配(しんぱい)しているのは、他(ほか)の悪党(あくとう)カラスの悪(わる)さのおかげで、もし役所(やくしょ)がカラスの駆除(くじょ)を始(はじ)めた場合、ご近所カラスも一緒(いっしょ)に駆除されてしまわないか、ということ。

 

お役所にとっては「善いカラス」も「悪いカラス」も関係(かんけい)ないだろうからねえ。

やられる時は一網打尽(いちもうだじん)。

しかし、

罠(わな)にかかるのは人間をそれほど疑(うたが)っていない、どちらかといえば「善いカラス」のほうで、人間なんてまったく信用(しんよう)していない「悪いカラス」はまんまと逃(に)げ延(の)びるような気がする。

 

これ、人間(にんげん)社会(しゃかい)にも言えることのような・・・。

1人(ひとり)、あるいは少数(しょうすう)の者(もの)が悪さをするからと言って、その階層(かいそう)の人たち、あるいは民衆(みんしゅう)全体(ぜんたい)を締(し)め上(あ)げる、ということを日本の権力者(けんりょくしゃ)、お役所は当然(とうぜん)のことのようにやるからね。※

その場合も本当(ほんとう)のワルはうまくやって、苦(くる)しんでいる庶民(しょみん)が小(ちい)さな瑕疵(かし)で罰(ばっ)せられたりする。

(しょせんは力関係(ちからかんけい)なのだ。)

 

この点は「善いカラス」もわたしのような弱(よわ)い立場(たちば)の庶民(しょみん)も「危険(きけん)」は共有(きょうゆう)している。(^^;)

 

というか、時代は末世を越(こ)えてずんずん進(すす)んでいるのであって、ほぼ完全に家畜化(かちくか)されたわれわれ被支配層(ひしはいそう)の人間は支配階級(しはいかいきゅう)の人間を、かつての禽獣(きんじゅう)が人間を恐れたように恐れ、その危害(きがい)から逃(のが)れなくてはいけないような時代を迎(むか)えているかも知れないのだ。

 

と、・・・話が逸(そ)れた・・・か。(笑)

 

何(なに)はともあれ、ご近所カラスが無事(ぶじ)で、この先(さき)も生(い)きてカラスなりの寿命(じゅみょう)を全(まっと)うすることを願(ねが)っている。(^^)

 

 

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※ 前漢(ぜんかん)の武帝(ぶてい。在位・紀元前141年から紀元前87年)の頃(ころ)に書かれた「淮南子(えなんじ)」にこんな記述(きじゅつ)がある。

 

「たべものをノドにつめて〇(し)んだものがあるからといって、天下(てんか=人民(じんみん)にたべものを禁(きん)じたり、車(くるま)がもとで失敗(しっぱい)したのがいたからといって、天下に乗車(じょうしゃ)を禁(きん)じるのは、道理(どうり)にはずれている。」

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

ついでに、同じ前漢のときに劉向(りゅうきょう)によって書かれた「説苑(ぜいえん)」に古代(こだい)中国(ちゅうごく)の人たちが「理想(りそう)の帝王」(三皇五帝のひとり)聖人(せいじん)として崇拝(すうはい)した「堯(ぎょう)」について書かれてあったので、載せておこう。(すぐに忘れちゃうので。(笑))

 

「堯は、天下(てんか)のために心(こころ)をつかい、貧(まず)しい人々(ひとびと)に関心(かんしん)をよせていた。

人民(じんみん)が罪(つみ)せられることを苦痛(くつう)に思い、すべての(い)き物(もの)が生(せい)を全(まっとう)うできないことを悲(かな)しんだ。

ひとりでも飢(う)えた者(もの)がいると、『わたしが飢えさせたのだ』と言った。

ひとりでも凍(こご)えた者がいると、『わたしが凍(こご)えさせたのだ』と言った。

ひとりでも罪(つみ)をおかした者がいると、『わたしがそこへ落(お)とし入(い)れたのだ』と言った。

そこには仁(じん)が顕現(けんげん)され、義(ぎ)が確立(かくりつ)していた。徳政(とくせい)が広(ひろ)まり、教化(きょうか)が行(い)きわたっていた。

そこで人々は賞(しょう)されなくても善行(ぜんこう)につとめ、罰(ばっ)することがなくても秩序(ちつじょ)を守(まも)った。

先(さき)に寛容(かんよう)をもってし、後(のち)に教誨(きょうかい=教(おし)えさとすこと。)するのが、堯の方法(ほうほう)であった。」

 

もちろん、これはあくまで「理想(りそう)」。

このような理想の皇帝=「堯」が存在したかどうかは疑わしい。

しかし、こういう「理想の帝王像」を持てた古代の人々は素晴らしいと思う。

 

今の日本の政治、行政はこの理想とは逆の方向に向かっているように感じられる。

 

中国の古典を読んでいると、人類が「進歩」しているのか、「退化」しているのかわからなくなってくる。

まあ、「進歩」という概念自体が怪しいのだが。(笑)

 

さて、もう寝よう。

また、あのカラスが姿を見せてくれればいいのだけど。(-.-)。。о Ο 〇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年も、もう2月。

いやあ、早(はや)い、早い

 

『 門松(かどまつ)や冥土(めいど)の旅(たび)の一里塚(いちりづか)めでたくもありめでたくもなし 』

 

という一休(いっきゅう)さんの歌(うた)があるけれど、

 

今(いま)こんな写真(しゃしん)を載(の)せても、

     え~? ナニコレ~

と思(おも)われるくらいの「過去(かこ)」の事(こと)?になってしまった。(今年(ことし)の門松なんだけどね。)

 

わたしくらいの年齢(ねんれい)になると、冥土に向(む)かって疾走(しっそう)しているよう。

なんという健脚(けんきゃく)。

まあ、誰(だれ)も同(おな)じなんだけど。(笑)

 

三週間ほど前に咲きかかっていたアロエの花

 

                が、満開(まんかい)になっている。

                  

 

12月から3月にかけて咲くアロエの花も「冬(ふゆ)の花」のひとつ。

 

こちらは、キカラスウリ(黄烏瓜)の実(み)かな?

閉(と)ざされた小(ちい)さな町工場(まちこうば)?の庭(にわ)にある木に巻(ま)きついた、

枯(か)れたつる草(くさ)からぶら下(さ)がっている。

 

カラスウリの実は鳥(とり)たちのいいエサになる。 

                     

厳寒(げんかん)の夜(よる)に黄色(きいろ)く目立(めだ)つ色(いろ)をしてぶら下(さ)がっている実(み)を見ると、

こんな季節(きせつ)でも生(い)き物(もの)に食料(しょくりょう)を与(あた)えてくれる自然(しぜん)とはありがたいものだなァ、と思う。

 

この場合(ばあい)の自然は「天(てん)」と言(い)い換(か)えることができるかな?

というのは、以前(いぜん)読(よ)んだ中国(ちゅうごく)の古典(こてん)に

“大金(おおがね)持(も)ち、富者(ふしゃ)というのは天から盗(ぬす)んだものたちである。“

 

というようなことが書(か)かれていたことを思い出したから。

 

これは、大金持ち、富豪(ふごう)というのは天(自然)から多(おお)くのものを盗んでそれを独(ひと)り占(じ)めしている者(もの)たちだから、それをさらに盗んで人民(じんみん)に与(あた)えることはべつに差(さ)し支(つか)えない、というような内容(ないよう)

だったか、な・・・?

 

うーーーん。記憶(きおく)が曖昧(あいまい)で、ほんとうにそんなことが書かれていたかどうかわからないのだが・・・、(^^;)

 

書かれていたとしたら、「列子(れっし)」?

 

ということで、帰(かえ)って「列子」(学研・中国の古典)を引(ひ)っぱりだして、見たけど、それらしい話は見つけられない。

結構(けっこう)な量(りょう)があるので、見つけられないのは当然(とうぜん)だし、そんな話もないのかもしれない。

 

いつもながら自分(じぶん)のスカスカの記憶力(きおくりょく)には失望(しつぼう)する。

 

代(か)わりに、全然(ぜんぜん)関係(かんけい)ないけど、こんな話を見つけた。

 

「人(ひと)生(う)まれてより終(お)わりに至(いた)るまで、大化(たいか)に四(し)有(あ)り、嬰孩(えいがい)なり、少壮(しょうそう)なり、老耄(ろうもう)なり、死亡(しぼう)なり。」

で始(はじ)まる一節(いっせつ)で、内容(ないよう)はこういうもの。

 

「人間が生まれてから死ぬまでの間に四つの大きな変化がある。

それは、嬰児(えいじ)期(き)、少壮(しょうそう)期、老衰(ろうすい)期、死(し)期である。

 

嬰児期には精気(せいき)が外(そと)に分散(ぶんさん)することなく気(き)は純一(じゅんいつ)で柔和(にゅうわ)さが保(たも)たれている。だから、外のものに損(そこ)なわれることがなく、その徳(とく)はこの上(うえ)ないものだ。

 

少壮期(少青年(しょう・せいねん)期、中年(ちゅうねん)期)には血気(けっき)が横溢(おういつ)し、欲望(よくぼう)が沸(わ)き起(お)こるため外のものに攻(せ)められ、いためつけられる。

そのため徳は衰(おとろ)えてしまう。

 

老衰期に入ると、欲望が減衰(げんすい)して体(からだ)は休息(きゅうそく)しようとするため、外のものはこれと争(あらそ)おうとしなくなる。これは嬰児期には及(およ)ばないけれど、少壮期より、はるかにいい。

 

そして死亡で安息(あんそく)を得(え)て、究極(きゅうきょく)の道(みち)に帰(かえ)る。」

 

わたしは、老耄(ろうもう)期、だね。

この年(とし)になると、なるほどな、と思う。

 

生活(せいかつ)上(じょう)の苦(くる)しみ、不便(ふべん)は残(のこ)る(寒さが身にしむねえ。(笑))

 

けど、欲望が減衰(げんすい)した分(ぶん)、心(こころ)は軽(かる)くなって以前(いぜん)のような苦悩(くのう)や焦燥(しょうそう)といったものは無(な)くなってくる。

 

ま、世間(せけん)ではそれをボケというのだろうけど。(それはその通(とお)り。(笑))

 

老荘(ろうそう)系(けい)のこの考(かんが)え方(かた)は好(す)きだなァ。

 

「死」そのものについては、何といっても荘子「大宗師(だいそうし)第六」にあるこの言葉。

 

「(死は)これ、~いわゆる県解(けんかい)なり。」

 

「県解」とは、

人間が生きているということは逆(さか)さづりにされているようなものなので、

その苦刑(くけい)からの解放(かいほう)をいう。

 

「自(みずか)ら解(と)く能(あた)わざる者(もの)は、物(もの)之(これ)を結(むす)ぶあればなり。」

人間存在(にんげんそんざい)への執着(しゅうちゃく)が(逆さ吊りの)結(むす)び目(め)を強(つよ)くしているわけだけど、死がそれを解(と)いてくれる、という意味(いみ)。

 

こういう考え方には、賛否(さんぴ)、好(す)き嫌(きら)いがあるだろうけど、わたしは、なるほどと思う。

そして、

執着にとらわれた自分を「逆さづり」、と認識(にんしき)することで絶望(ぜつぼう)からも救(すく)われる。

「死は、これ、県解なり。」

この言葉(ことば)が頭(あたま)の片隅(かたすみ)にあれば、冥土への一里塚をたどる旅(たび)もそう厭(いとわ)わしいものではなくなる。

 

なるほど。

めでたくもありめでたくもなし。(笑)

 

そして、トシを取ってこうやって中国の古典を読めるというのも幸(しあわ)せなことだ。

 

孔子(こうし)、孟子(もうし)、老子(ろうし)、荘子(そうし)、列子(れっし・・・)、そして史記(しき)・・・、漢詩(かんし)等々。

たまらない。

コウモリのように逆さづりの状態を楽(たの)しめるのが老耄期なのかもしれない。

 

 

 

 

                

 

 

 

        

 

 

                  

             

 

 

子どもの頃(ころ)は

正月(しょうがつ)の三(さん)が日(にち)が長(なが)く感(かん)じられて、

正月は三日(みっか)もあるからいいいな~

 

なんて思っていたけど、

 

今は、あっという間(ま)。

三日が一日(いちにち)くらいの感覚になっている。

 

そして、三日が過(す)ぎれば、

あれ?

もう七草(ななくさ)がゆの1月7日。

 

年(とし)が明(あ)けてここまでは穏(おだ)やかな天気(てんき)が続いていて、それはいいのだけど、こうも日(ひ)が過ぎるのが早いと、

こりゃあ、あっという間(ま)に“”お迎(むか)えがきちゃうなァ、と心細(こころぼそ)くなってくる。

 

買い物で外に出ると、自治会(じじかい)の掲示板(けいじばん)に、また新(あたら)しく「ご逝去(せいきょ)のお知(し)らせ」が貼(は)られていた。

 

きょねんのお盆(ぼん)前(まえ)くらいから気になってこの「訃報(ふほう)」を数(かぞ)えているのだけど、これで10枚(まい)目(め)?・・・!

このご近所(きんじょ)、というか自治会内(じじかいない)だけで?

 

いくらなんでも〇に過(す)ぎでしょう。(涙)

 

亡(な)くなっているのは80歳以上か80歳に近(ちか)いお年(とし)寄(よ)りばかりなので、

まあ、仕方(しかた)ないといえば仕方ないのかもしれないけど・・・。

なかにはわたしと同年齢(どうねんれい)の人も。

 

そんな訃報を見ていると、

「一生懸命(いっしょうけんめい)なんとか生(い)きてきて、ここでお亡くなりになったんだねえ」と、

しみじみとした気持(きも)ちになる。

 

それでも、まだ生きているわたしの目の前(まえ)に広(ひろ)がるのは「生(せい)」の世界(せかい)。

 

正月(しょうがつ)明(あ)けの穏(おだ)やかな景色(けしき)だ。

 

ドウダンツツジの葉(は)は散(ち)る間際(まぎわ)まで赤(あか)いまま。
そして次(つぎ)の緑(みどり)の葉(は)へと繋(つな)いで行く?

(わたしは落(お)ちたらそれっきり~。(^^;))

ささやかだけど、立派(りっぱ)な姿(すがた)だなァ。

 

モチノキが赤い実をつけている。

これは鳥(とり)たちの有難(ありがた)いエサ。

 

赤い実を見ると、どうしてもこの童謡(どうよう)を思い出す。

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でも、これまで一度(いちど)も赤い色(いろ)をした鳥は見たことがないんだよなァ・・・。(笑)

 

桜(さくら)がもう芽(め)をつけている。

 

ホームセンターで炭(すみ)を買う。

電気代(でんきだい)節約(せつやく)のためにネットで中古(ちゅうこ)の小さい火鉢(ひばち)を買ったのだけど、果(は)たして節約になるかどうか?

格安(かくやす)の炭?3㎏398円。

 

帰(かえ)ってベランダで見たこの雲(くも)。

なんとなく、ほっこりする。(^^)

 

でも、ベランダで気になるのは朝(あさ)からあるこの糞(ふん)。

乾(かわ)かして片付(かたづ)けようとそのままにしているのだけど、

鳥の血便(けつべん)?

 

こんな黒(くろ)くて大きめな(1cm~1.5cm)糞(ふん)をする鳥なんているのかな?と思って調(しら)べてみたら、

どうやらイエコウモリ※

 ?       のフンのよう。

 

黒くて崩(くず)れやすそうな糞という特徴(とくちょう)は合(あ)っているけど、

糞の周(まわ)りのシミはどうなんだろう?

鳥も消化器官(しょうかきかん)の病気(びょうき)などで血便を出すことがあるらしいから、このコウモリも病気なのかもしれない。

(コウモリは哺乳類(ほにゅうるい)だけど・・・、まあ似(に)たようなものということで。(^^;))

 

生きている限(かぎ)り、動物(どうぶつ)も虫(むし)も病気やケガ、飢(う)え、環境(かんきょう)の変化、そして天敵(てんてき)などの災厄(さいやく)に苦(くる)しめられ、命も奪(うば)われる恐(おそ)れがある。

人間も同様(どうよう)なのだけど、人間には金銭(きんせん)の問題や大量破壊兵器(たいりょうはかいへいき)を使(つか)った戦争(せんそう)など、さらに複雑(ふくざつ)なものが加(くわ)わって来る。

 

生きるということはほんとうにタイヘンなことなんだよなあ。

 

それでも、わたしがこれまで生きてこれたのは多くの人の支(ささ)え、助(たす)けがあったから。

人間は互(たが)いに助け合うことで個人(こじん)の長寿(ちょうじゅ)と社会(しゃかい)の繁栄(はんえい)を実現(じつげん)してきたわけで、わたしがこうやって綺麗(きれい)な風景(ふうけい)を楽(たの)しむことができるのも、他者のおかげ、人間のおかげだ。

 

そのことを忘(わす)れず、他者(たしゃ)への感謝(かんしゃ)の気持ちを持って、1年を過ごして行きたい。

 

人間、エゴイズムに陥(おちい)ることなく、己(おのれ)を空(むな)しくしていれば、死(し)も怖(こわ)いものではなくなる。

 

「執着(しゅうちゃく)」を脱(だっ)することの大切(たいせつ)さが、やっと解(わか)りかけて来た、70歳。(^^)

 

他者への感謝や無償(むしょう)の愛(あい)は「執着」ではないんだよなあ。

 

「愛は死よりも強(つよ)し。」

というのも、そういうことなのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

いま2022年、12月31日

21時30分。

 

もう少しで2022年が終(お)わる

 

今年の大晦日(おおみそか)は穏(おだ)やかに晴(は)れた。

    

 

椿(つばき)も満開(まんかい)。

      

 

今年は椿が良(よ)く目(め)につく。

寒い(さむ)い冬(ふゆ)に咲くので、花も"根性(こんじょう)"があるのか、

道路(どうろ)わきのあまり手入れされていない土地(とち)のフェンスの角(かど)からも必死(ひっし)に?美(うつく)しく顔(かお)を出(だ)していたりする。

      

あれ?葉(は)を見ると、椿ではなく山茶花(さざんか)、かな?

うー、わからん。(笑)

 

椿の花は冬に咲いて、初春(しょしゅん)まで咲いていて、山茶花は晩秋(ばんしゅう)に咲いて二月頃(にがつごろ)まで咲いている。

 

まあ、どちらも“冬の花"ということで。(^^;)

 

別(べつ)の種(しゅ)なのによく似(に)ている、ということは植物(しょくぶつ)でも動物(どうぶつ)でもままあることだけど、椿と山茶花の見分(みわ)けはほんとうに難(むつか)しい。

 

去年までに比(くら)べると、今年の年末(ねんまつ)はどの店(みせ)もわりと繁盛(はんじょう)しているように見えた。

冬至(とうじ)にゆず湯(ゆ)に入った温泉施設(おんせんしせつ)まで歩(ある)いたのだけれど、芋(いも)の子(こ)を洗(あら)うような混雑(こんざつ)なんだろうな、と思って入館(にゅうかん)はしなかった。

 

 駐車場(ちゅうしゃじょう)もぎっしり。

 

道路(どうろ)向(む)かいのカフェ

でコーヒーを飲(の)んで帰途(きと)についた。

(70爺(じい)がひとり屋外(おくがい)のテーブルでコーヒーを飲んでいるというのもなかなか絵(え)に・・・・・    はならないなァ。(笑))

 

家(いえ)の近(ちか)くのスーパーで年越(としこ)し蕎麦(そば)と天(てん)ぷらを買(か)った頃(ころ)には、もう日が暮(く)れていた。

少し雲の出た夜空(よぞら)に半月(はんげつ)と木星(もくせい)。

 

木星を見ていると、心(こころ)が落(お)ち着(つ)く。

 

わたしは、最近(さいきん)、人間(にんげん)を含(ふく)めた生命(せいめい)は地球(ちきゅう)の生命体(せいめいたい)というよりも太陽系(たいようけい)の生命と考(かんが)えたほうがいいのではないかと思っている。

 

月をはさんで反対側(はんたいがわ)には火星(かせい)。

なかなか平和(へいわ)にならない地球を見つめているよう。

 

帰って食べた年越しそばは美味(おい)しかった。

(去年(きょねん)はカップそばだったかな?)

 

この後(あと)は、ネットで各地(かくち)のライブカメラを見たり、音楽を聞いたりして過(す)ごすつもり。

 

そして、23時45分からはEテレの「2355年越(としこ)しをご一緒(いっしょ)にスペシャル」を見て年を越し、そのまま毎年(まいとし)の恒例(こうれい)となっている「あけましてねほりんぱほりん」を眠(ねむ)くなるまで見る予定(よてい)。

今年はどんな内容(ないよう)かな?

 

(しかし、制作(せいさく)する方(かた)たちはタイヘンだろうな。(笑)

有難(ありがと)うございます。)

 

では、みなさん、よいお年(とし)を。

 

2023年がいい年でありますように。

 

 

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ということで、

明けましておめでとうございます。(^^)

 

少し外の空気を吸ってきたけど、思ったほど寒くない。

今年は天候に恵まれたいい正月になりそうだ。       

 

うーーーん。

「2355」も「ねほりんぱほりん」も数年前に比べてパワーダウンしているかな?

残念。

テレビの限界、あるいは日本社会の限界?

 

ということで、トシのせいか眠くなってきた。

youtubで那智の滝ライブカメラを見ながら眠ろう。

やはり、時代はネットなんだなァ。

 

Eテレの奮起を期待しつつ、

 

おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

、一昨日(おととい)の夜(よる)、買(か)い物(もの)

からの帰(かえ)りに、古(ふる)いマンションの庭先(にわさき)にあった大きな常緑樹(じょうりょくじゅ)を見上(みあ)げると、その少し上に金星(きんせい)があった。

 

     

 

これを見て、

クリスマスツリーの頂点(ちょうてん)に飾(かざ)るベツレヘムの星(ほし)

 

          

          (有名なUSJのクリスマスツリー)

 

は金星(きんせい)なんじゃないかな?

と思ったんだけど、

帰(かえ)って調(しら)べて見ると、この時期(じき)、金星を夜空(よぞら)で見ることはできないらしい。 (^^;)・・・

 

いま最(もっと)も明(あか)るく見えるこの星は木星(もくせい)だった。

 

そういえば金星にしては光(ひかり)がかなり弱(よわ)くて穏(おだ)やかだったもんね。

 

金星はこの月(つき=12月)の下旬(げじゅん)あたりから西(にし)の空(そら)の非常(ひじょうに)に低(ひく)い位置(いち)に見ることができるようなのだけど?

宵(よい)の明星(みょうじょう)としてはっきり見えるのは来年(らいねん)の3月からだという。

 

そうなんだあ。(^^;)

 

でも、

ベツレヘムの星(日本ではクリスマスの星?)というのはやはり金星ではないかと思う。

 

ベツレヘムの星というのは、イエスキリストの誕生時(たんじょうじ)にやってきた東方(とうほう)の三博士(さんはかせ)

を導(みちび)いたといわれる星のことなのだけれど、

その星が何であったかは、ハレー彗星(すいせい)だとか惑星(わくせい)の合(ごう=集まること)だった、など、諸説(しょせつ)あってはっきりしていない。

 

とはいうものの、

まあ・・・、隠(かく)れた常識(じょうしき)として最(もっと)も有力(ゆうりょく)なものとしては、「マタイによる福音書(ふくいんしょ)」の著者(ちょしゃ)による創作(そうさく)というのがあって、

わたしもこちらが本当ではないか、と思っている。

 

ベツレヘムの星、東方の三博士、、三博士にユダヤの王が生まれると聞(き)いて行われたというヘロデ王による赤(あか)ちゃんの皆(みな)〇し、

という一連(いちれん)の話(はなし)はすべて“マタイによる福音書の著者による創作だったようだ。

 

それでもわたしはベツレヘムの星は金星だと思う。

 

30年ほど前(まえ)の黄昏時(、たそがれどき)、わたしが神奈川県(かながわけん)のある町(まち)を歩(ある)いていた時(とき)、前方(ぜんぽう)にぽつんと立(た)っている70歳(さい)くらいの老婦人(ろうふじん)がいて、

わたしが近(ちか)づくと、

「あのう」

と声(こえ)をかけてきた。

わたしが立ち止(ど)まると、老婦人はわたしの後(うし)ろの方(ほう)を指(ゆび)さして

「あれは何(なん)でしょう。」

と、言う。

わたしが振(ふ)り返(かえ)って老婦人の指さした方向を見ると、遠(とお)い山並(やまな)みの上に明るく輝(かがや)く宵(よい)の明星(みょうじょう)、金星があった。

「ああ、あれは金星ですよ。」

とわたしは言ったが、

老婦人はわたしの言葉(ことば)が聞(き)こえていないかのように、不思議(ふしぎ)そうな表情(ひょうじょう)で西(にし)の空を見続(みつづ)けていた。

 

ということがあったほど、宵の明星は明るい。

 

この時は、空飛ぶ円盤(UFO)でも出たかな、と思って振(ふ)り返(かえ)ったんだけど、どう見ても金星。

それでもその大きさ、輝きは今でもわたしの記憶(きおく)に残(のこ)っているくらいのものであったので、老婦人が不思議に思うのは別段(べつだん)おかしなことではなかった、と思う。

 

中東(ちゅうとう)あるいは福音書の書かれたギリシアで宵の明星、がどう見えるかは知((し)らないけれど、西の空に輝く金星がマタイ福音書ベツレヘムの星のモチーフになった、ということは十分(じゅうぶん)に考(かんが)えられるのではないだろうか?

 

実際(じっさい)、キリスト教では金星はとくに重要(じゅうよう)な星とされていて、

ヨハネの黙示録(もくしろく)には、イエス

「わたしは、ダビデの子孫(しそん)、その一族(いちぞく)、輝(かがや)く明(あ)けの明星である。」

と語った、という記述(きじゅつ)がある。

 

ヨハネの黙示録はイエスが〇んで、70年~80年くらい経(た)って書かれた文書(ぶんしょ)だけど、キリスト教会にイエスと金星を同一視(どういつし)する考えがあったということだと思う。

 

金星は愛(あい)の星と言われているから、愛を教義(きょうぎ)の中心とするキリスト教でイエスと金星を同一視するようになったのは自然(しぜん)な流(なが)れなのかもしれない。

 

この金星が太陽(たいよう)から見て地球のひとつ内側(うちがわ)にあるわけだけど、一方(いっぽう)ひとつ外側(そとがわ)には赤(あか)い光(ひかり)であるが故(ゆえ)に?戦(たたか)い、戦争(せんそう)の星とされる火星(かせい)がある。

 

地球の歴史(れきし)を通(つう)じて、膨大(ぼうだい)な量(りょう)の物質(ぶっしつ)がこの火星と金星からやってきたとされている。

(もちろん、地球からも火星や金星に多くの物質が行っている。)

われわれ地球に住(す)む人間が、愛と戦いの間(あいだ)を行ったり来たりしているのは、そのためかもしれない?

なんて言ったら、火星に気(き)の毒(どく)かな? (^^;)

 

いずれにせよ、戦い、戦争を克服(こくふく)して愛ある平和(へいわ)な世界を実現(じつげん)することが人類(じんるい)の課題(かだい)、目標(もくひょう)であることを信(しん)じたい。

 

クリスマスも愛と平和に満(み)ちた気分(きぶん)で楽(たの)しみたいよね。(^^)

 

日本政府(にほんせいふ)のように防衛費倍増(ぼうえいひばいぞう)なんておバカなことを言っている場合(ばあい)ではない。

 

ウクライナにも早く平和が訪(おとず)れますように。

 

ということで、今年のクリスマスは、やはり、ジョンレノンの

“”ハッピークリスマス“”

 

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       ↑こちらの動画、画像(がぞう)も素晴(すば)らしい。