毎年(まいとし)、真(ま)っ赤(か)に紅葉(こうよう)し

わたしの目を楽しませてくれていたドウダンツツジだったのだけれど、今年は半分くらいが夏枯(なつが)れしていて、淋(さみ)しいものになりそうだ。

      

 

それほど今年の夏の暑さが異常(いじょう)だった、ということなのだろう。

 

暑さも行(い)き過(す)ぎると人間(にんげん)だけではなく動物(どうぶつ)にとっても厳(きび)しいようで、一昨日(おととい)、駅前(えきまえ)の歩道(ほどう)ではじめてカラスの死骸(しがい)を見た。

        

死骸といっても見ての通り、羽(はね)と足(あし)だけ。他(ほか)の部分(ぶぶん)は食(た)べられてしまったのだろう。足を見ると幼鳥(ようちょう)から少し大きくなったところといった子どもの鳥?だったので、骨も食べつくされてしまったのかもしれない。

昔、ハトが食べられてしまったものを見たことがあるのだけれど、それは骨がけっこうしっかり残っ(のこ)ていた。

・・・、このカラスを食べたのはカラスかな?周(まわ)りにいくつかのカラスの糞(ふん)の痕跡(こんせき)があった。

 

街中(まちなか)では滅多(めった)にみることのできないものだと思うのだけど、ほとんど、というか全(すべ)ての人が関心(かんしん)も示(しめ)さず通り過ぎて行く。

 

なんだかとても殺伐(さつばつ)とした景色(けしき)に見えたのはわたしだけか?

 

ふと、以前(いぜん)読んだ手塚治(てつかおさむ)さんの、

戦後(せんご)すぐの頃(ころ)、復員(ふくいん)した兵隊(へいたい)さんが餓死(がし)して、その死骸が放置(ほうち)され、骨になってもそこにあって、それをなんとかしようとする人もいなかった、という実(じつ)体験(たいけん)に基(もとづ)づいた漫画(まんが)を思い出した。

 

まあ、人間とカラスでは比較(ひかく)にならないだろうけど、日本人に余裕(よゆう)がないのは敗戦時(はいせんじ)も今もあまり変わりがないのかもしれないな、とフト思った次第(しだい)。

 

戦後(せんご)78年。

今なお日本人が幸(しあわ)せでない、ということは否定(ひてい)しうべくもない事実(じじつ)であって、一部(いちぶ)のカネと利権(りけん)、権力(けんりょく)によって人間性(にんげんせい)の麻痺(まひ)した者(もの)たち以外(いがい)の人にはよくわかることだろう。

 

この絶望(ぜつぼう)の国で急速(きゅうそく)に数(かず)を減(へ)らしながらも、日本人はよくやっているなァ、とは思う。

 

 

2023年8月も終わりの

暑(あつ)い夜(よる)。

 

大きな柳(やなぎ)の木(き)の下(した)に佇(たたず)んでみた。

 

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少し風は吹(ふ)いていたが、涼(すず)しいというほどではない。

 

でも、いまこうして見ると、柳の葉が揺(ゆ)れるさまは涼しげに見える。

 

これで白(しろ)いものでもフワッと通(とお)ってくれたら暑さを忘(わす)れることができたかも。(笑)

 

9月に入(はい)ったが、うんざりする暑さはそのままだ。

 

明日からは雨が続(つづ)くそうなので、多少(たしょう)は気温(きおん)が下(さ)がるかもしれない。

 

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動画。幽霊さんは来たらず、だったのだけれど、全開(ぜんかい)にして見ていると眠(ねむ)くなるようなので、よろしければ入眠(にゅうみん)にお役(やく)立(だ)てください。(^^)

おとといの夜(よる)、

遠(とお)くで雷(かみなり)が鳴(な)っていたので、ベランダに様子(ようす)を見(み)に出(で)ると、花火(はなび)だった。

今年(ことし)も花火を見に行(い)くことはないだろうな、と思っていたので、サプライズ。

ヘンなところで(?)いいことがあるものだ。(笑)

 

今年(ことし)になって、な~んにもいいことがなく、打(う)ちのめされた気分(きぶん)でこの暑(あつ)い夏(なつ)を過(す)ごしていたのだけれど、こうやって建物(たてもの)越(ご)しにでも花火を見ていると、一瞬(いっしゅん)でもイヤなことを忘(わす)れる。

花火の効果(こうか)には不思議(ふしぎ)なものがあるようだ。

 

ピンボケ動画(どうが)を撮(と)ってジャズの曲(きょく)をつけてみたら、案外(あんがい)これがよく合(あ)った。(^^;)

 

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花火が止(と)まって、少(すこ)し間(ま)が開(あ)いたので、YouTube動画(どうが)でこの花火大会(はなびたいかい)を中継(ちゅうけい)していないかな、と思ってパソコンで探(さが)してみると、

ナント、この花火大会とおぼしきものの動画に映(うつ)っていたのは、火事(かじ)。(笑)

 

 

ナイアガラという花火が河川敷(かせんじき)の草(くさ)に燃(も)え移(うつ)ったらしい。

いや、レアなものを見ることができるものだ、と、しばらく中継動画(ちゅうけいどうが)に見入(みい)っていた。

けが人(にん)はいなかったよう。

 

きのうは夕方(ゆうがた)から雨(あめ)だったのだけれど、雨の降(ふ)る二時間(にじかん)ほど前(まえ)に珍(めずら)しいものを見た。

 

虹(にじ)

これまた、建物(たてもの)越(ご)しに。(笑)

(写真(しゃしん)では薄(うす)くなってしまったけど、実際(じっさい)はもっと太(ふと)くはっきり見えた。)

 

東京(とうきょう)に来(き)て30年(ねん)以上(いじょう)になるけど、こんな大(おお)きな虹(にじ)を見るのは初(はじ)めてではないかなァ。

 

鬱々(うつうつ)と楽(たの)しめない日々(ひび)だったけど、二日(ふつか)連続(れんぞく)で珍(めずら)しいものを見ることができた。

これは何(なに)かいいことのある前兆(ぜんちょう)なのかな?(笑)

 

・・・・・、しかし、火事はいいものではないよなァ・・・。

 

マア、耐(た)えていれば変化(へんか)もある。それがいいものであるかそうでないかはその時(とき)の運(うん)次第(しだい)、と、前向きに(?)とらえておこう。(笑))

 

今日(きょう)はちょっぴり涼(すず)しい。

 

 

2023年7月(がつ)の月(つき)

この写真は7月に入(はい)って間(ま)もないころの風も吹かない暑(あつ)苦(くる)しい夜(よる)に撮(と)ったもの。

7月は月も暑苦しい。(笑

 

高血圧(こうけつあつ)の薬(くすり)をもらいに病院に。

診察(しんさつ)は午後(ごご)からの予約(よやく)なのだけれど、わざと2時間(じかん)早(はや)く行った。

 

お目(め)当(あ)ては待合室(まちあいしつ)なんて昔(むかし)の言(い)い方(かた)が恥(は)ずかしくなる、

ソファーや高級(こうきゅう)な?椅子(いす)が置(お)かれてある病院のロビー。

 

そこでソファーのような椅子に身(み)を持(も)たせかけて、ぼんやり、ウトウト。

何(なに)よりも適度(てきど)に効(き)いた冷房(れいぼう)が嬉(うれ)しい。(笑)

外(そと)の植(う)え込(こ)みも美(うつく)しく見える。

 

病院からしたら結構(けっこう)な不審者(ふしんしゃ)だけど、これでも患者(かんじゃ)なんで。(笑)

 

高血圧(こうけつあつ)は気楽(きらく)な病気(びょうき)ときたもんだ~♪ なんて思っているとお医者さんに叱(しか)られるかも。(笑)

 

いや、たしかにお医者さんに来(く)る前(まえ)、血圧(けつあつ)が240や250を越(こ)える日(ひ)が続(つづ)いていたころはタイヘンだった。

 

フラフラして頭(あたま)の調子(ちょうし)も悪(わる)くてね。

血圧が上(あ)がって寝(ね)ているときなんかも、外(そと)のちょっとした音(おと)でウワーってなっていた。

 

あるとき家電(かでん)量販店(りょうはんてん)の血圧計(けつあつけい)売(う)り場(ば)のサンプルで血圧を計(はか)ると300近(ちか)くになっていて、これはシヌと思ってこちらの病院へ。

 

それから3年くらい経(た)つのかな。

いまは処方(しょほう)していただいている薬のおかげで150から160あたりで安定(あんてい)している。

 

元々(もともと)はわたしは病院(びょういん)嫌(ぎら)いだったのだけれど、やはり適切(てきせつ)な医療(いりょう)はありがたい。

以前(いぜん)のひどい高血圧のころを思い出すとゾッとするものね。

 

ということで、こんな不埒(ふらち)な患者が出来(でき)上(あ)がった、と。(笑)

 

しかし、ナ高級な椅子はほんとうにイイわ~。

ひとつほしいけど、絶対(ぜったい)にムリ。

 

わたしは特(とく)にお金(かね)持(も)ちがうらやましいとは思わないのだけど、すごく心地(ここち)のいいソファーや椅子があるとしたら、ウ~ン。(笑)

それはうらやましいかもしれない。(笑)

 

 

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なんて気持ちよく帰っていたら、道端(みちばた)にアゲハ蝶(ちょう)の死骸(しがい)。

誰(だれ)かに踏(ふ)まれたのかアスファルトにへばりついていて、羽(はね)が風(かぜ)に吹かれていた。

たぶん、今日(きょう)も美(うつく)しく舞(ま)っていたんだろうにね。

一瞬(いっしゅん)の先(さき)は闇(やみ)。

それは人間も同じ。

 

諸行無常(しょぎょうむじょう)。

 

だから、常(つね)に心は空(むな)しくしていなければならないのだけれどね。

 

なかなか、そうはいかない。(笑)

 

 

 

 

 

6月もあと一日(いちにち)でおしまい。

今日(きょう)は今年(ことし)一番(いちばん)の蒸(む)し暑(あつ)さ。

 

夜(よる)、雷雨(らいう)があったので、涼(すず)しくなったかな、と思って外(そと)に出たのだが、まったくの無風(むふう)で蒸し暑い。

 

部屋(へや)の中(なか)と変(か)わらないな、とうんざりしたけど、出(で)ちゃったのでそのまま散歩(さんぽ)。

アジサイ

良(よ)く咲(さ)いているように見えるけど、あまり勢(いきおい)いがないというか、半分(はんぶん)枯(か)れた感(かん)じ。

なぜか、去年(きょねん)と今年(ことし)はアジサイの花(はな)が元気(げんき)がないというか、冴(さ)えないように思える。

気候(きこう)が悪(わる)いのかわたしがアジサイを見る地域(ちいき)が悪いのか。この二年、以前(いぜん)のように心(こころ)惹(ひ)かれるアジサイを目にしていない。

 

しばらく歩(ある)いたけど、汗(あせ)をかくだけなので帰(かえ)る。

 

外も家(いえ)の中(なか)も変(か)わらないだろう、と思っていたけど、ドアを開(あ)けると、むわ~。(笑)

やはり家の中の方(ほう)が暑い。

 

いちおう、今年(ことし)はエアコンを使(つか)わないという目標(もくひょう)を立(た)てているので、扇風機(せんぷうき)で我慢(がまん)しているのだけど、

う~ん。

ツライ。アツイ。(笑)

寝転(ねころ)がっていてもじんわり汗(あせ)をかく。

気をまぎらせようと、いま凝(こ)っている狂歌(きょうか)の本をぱらぱらとめくる。

 

『 長生(ながい)きを すれば苦(くる)しき 責(せ)めを受(う)く めでた過(す)ぎたる 御代(みよ)の静(しず)けさ 』

 

御代は現代(げんだい)では「時代(じだい)」くらいの意味(いみ)で受(う)け取(と)ればいいのかな?

昔も今もこの国は変わらない。(笑)

トシをとればとるほどキビしさが増(ま)して行く国なんて希望(きぼう)がないでしょうに、と思っていると、

天(てん)からの声(こえ)。

「カネがあると年取(とし)ってからも楽(たの)しいよ。」

 

なるほど。

しかし、カネがあるからといってほんとうに楽しいのかどうかはワカラナイ。

まあ、アッチイケ シッシ、とはいわれないだろうな。(笑)

カネがあれば人も寄(よ)ってくるだろうし、

「楽(たの)しみ」というようなものもあるかもしれない。

 

カネの無(な)いじいさんは今(いま)の日本では最(もっと)もミジメな存在(そんざい)なんだよなあ。

 

なんて、イジケつつ本を読んでいると、

昔の人は大らかだねえ。

 

こんな狂歌?があって、笑った。

 

酒飲(さけの)みのじいさんなんだろう

 

『われ死なば 備前(びぜん)伊部(いんべ)の 土(つち)となり 徳利(とくり)となりて 酒(さけ)を入(い)れたい 』

 

備前焼(びぜんやき)は昔は伊部焼(いんべやき)と言った。

今でも伊部地域が備前焼の中心となっている。

 

「歌」に続(つづ)く本の解説(かいせつ)はこう書かれている。

 

「あるところに酒好(さけず)きの爺(じじ)があって、辞世(じせい)の歌を右(上)のように詠(よ)んで、婆(ばあ)さんに聞(き)かせた。すると、婆(ばば)も、私もひとつ詠もうといって、負(ま)けずに詠んだ歌は、

我(われ)死なば 備前伊部の土となり 尿瓶(しびん)となりて ちんぽ入れたい。  」

 

これは「大山(だいせん山麓(さんろく)の昔話(むかしばなし)」にある話らしいが、昔の年寄りの明るさおおらかさがうかがわれる。

そういえば、わたしの子どものころの年寄りは明るい顔をしていた人が多かった。

今の年寄りのように委縮(いしゅく)した感じはなかったなあ。

 

これは、年寄りが今ほど邪魔者(じゃまもの)扱(あつか)いされず、貧富(ひんぷ)の差(さ)も小(ちい)さかったためではないかと思う。

現代ほど分断(ぶんだん)されてはいなかったのだ。

 

しかし、お年寄りの自殺(じさつ)は多かった。

 

今はどうなのだろう?

最近は政府の出す統計(とうけい)もあてにならなくなっているのでわからないけど、やはり、昔も今も、ということではないだろうか。

 

自殺は全世代(ぜんせだい)で増えているような気がする。わたしらの子ども時代は子どもが自殺するなんて考えられもしなかったのだけど。

 

ともあれ、この昔話は今でもインパクトがある。(笑)

 

気になって、昔の尿瓶はどんなものだったか調(しら)べてみると

なるほど、

        

 

ちなみに「備前焼」で尿瓶がないか探(さが)して見たけど、ない。(笑)

婆さん、残念(ざんねん)。 (笑)

 

それにしても、昔の陶器製の尿瓶は現代のもの

     

よりも安定(あんてい)がよくて使(つか)いやすそうだ。

 

寄(よ)る年波(としなみ)に備(そな)えて尿瓶の研究(けんきゅう)もしておこうか。(笑)

 

備前焼の徳利はアマゾンなんかでもたくさん出ている。

 

      

 

爺さんの徳利、名品(めいひん)になっているといいね。(笑)

 

さて、いま午前4時。

少し気温が下がったようなので扇風機(せんぷうき)をタイマーにして、眠(ねむ)ろう。

 

がんばるぞ。熱中症(ねっちゅうしょう)で死なないように。(小声)

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 


   

 

 

 

 

 

 

2023年5月ももう終わるけど、

いやー、この5月も良(よ)くない。

 

この3月、4月、5月は酷(ひど)かった。ヒドイ。

不運(ふうん)、不幸(ふこう)は仲間(なかま)を連(つ)れてやってくる、というけれど、まさにその状態(じょうたい)。

 

こういうときは人生(じんせい)という川(かわ)の急流(きゅうりゅう)、激流(げきりゅう)に差(さ)し掛(か)かっているようなものなので、あわてたり、無理(むり)をしたり、じたばたしたりすると、さらに状況(じょうきょう)が悪化(あっか)するので、静(しず)かにして不運(ふうん)が過(す)ぎ去(さ)るのを待(ま)つしかない。

 

ということは(失敗(しっぱい)の(笑))経験上(けいけんじょう)わかっているのだけど、ガマン、隠忍自重(いんにんじちょう)というのもね、なかなか辛(つら)いもの。

 

それでも、若(わか)いころならその苦労(くろう)がいい経験(けいけん)、教訓(きょうくん)、糧(かて)になって、後(のち)の安穏(あんのん)、幸(しあわ)せに結(む)びつく、ということにもなるのだろうけど、

70歳(さい)にもなっての苦労というのはね、

何(なん)にもならんわ~。(笑)

 

不運のときは、極力(きょくりょく)外出(がいしゅつ)を控(ひか)えて、本を読んだり、ブログを書いたりして過(す)ごすしかないな、と考(かんが)えて、そうしようとしたのだけれど、

これがさらに気分(きぶん)を落(お)ち込(こ)ませることになってしまった。

 

本を読んでも内容(ないよう)が頭に入(はい)ってこず、文章(ぶんしょう)もまったくまとまらないのだ。

 

まるで脳(のう)みそがスカスカの繊維質(せんいしつ)になっていて、そこに虫(むし)が湧(わ)いているような・・・、(笑、えない)

 

聖書(せいしょ)に、

「逆境(ぎゃっきょう)の時は考えよ。」

という言葉(ことば)があったのを覚(おぼ)えているのだが、

考えるだけのエネルギーがないのは、

やはりトシのせいか。

 

と、

とにかく、年(とし)をとってからの苦労はどうしようもない。

 

だから、いまはとにかく何も考えないようにして、不運のときが過ぎ去って心(こころ)の安定(あんてい)が戻(もど)って来(く)るのを待(ま)つだけ。

 

どうしても精神的(せいしんてき)にツラいときはアスピリンロキソニンといった市販(しはん)の鎮痛薬(ちんつうやく)を飲(の)んで眠(ねむ)ることにしているのだけど、これってクスリへの逃避(とうひ)なのかな?(^^;)

 

これも若いときには考えられなかったことなんだけど、

 

仕方(しかた)ないね。

 

2023年4月もあとわずか。

気(き)持(も)ちよく晴(は)れた27日、木陰(こかげ)で本を読もうと公園(こうえん)に出かけた。

 

公園の入(い)り口(ぐち)で上を見ると青(あお)い空(そら)に月が浮(う)かんでいる。28日が今月(こんげつ)の上弦(じょうげん)の月。

 

野外(やがい)のテーブルも木陰の具合(ぐあい)?も読書にちょうどいい感じ。

                                  (^^)

            

 

最初(さいしょ)は仏教(ぶっきょう)関係(かんけい)の本を読んでいたのだけど、なんとなく雰囲気(ふんいき)というか気分(きぶん)にそぐわなかったのでもう一冊(いっさつ)持(も)ってきていたパスカルの「パンセ」にチェンジ。

 

緑(みどり)豊(ゆた)かな公園の木陰でパンセを読んでいるなんて・・・むふふ。

悩(なや)み多(おお)き青年(せいねん)の頃(ころ)に戻(もど)ったようでウレシイ。(←何(なん)のために読書をしている?)

 

よそ見(み)をしながら拡大鏡(かくだいきょう)を使ってポチポチ読んでいて、気(き)がつくと午後(ごご)四時(よじ)半(はん)になっていた。

公園に来たのが午後三時頃だったから、いつのまにか1時間半経(た)ったことになる。(それなりに集中(しゅうちゅう)していたのかな?」

 

上空(じょうくう)を飛行機が通(とお)り過(す)ぎて行く。

 

せっかく公園に来たのだからと、本をたたんで散歩(さんぽ)。

 

桜の花はかなり前に散ってしまったと思うのだけど、まだぽつぽつと花をつけている木がある。

 

 

満開の桜もいいけど、こうやって葉(は)の陰(かげ)でひっそりと咲いている桜の花も風情(ふぜい)があって、いい。

 

しかし、景色(けしき)はすっかり初夏(しょか)。

 

 

傾(かたむ)いた日(ひ)の光(ひかり)で影(かげ)が長(なが)く伸(の)びる。

足(あし)が長(なが)く見えるのがうれしくてついパチリ。(笑)

          

 

そろそろ帰ろうか、と思っていると、

ん?

 これはナンダ?

 

もしかして・・・。さ、サクランボ?

     

 

いけない、いけない、と思いつつ、摘(つ)んでしまった。(^^)

   

 

そして、パクリ。

うん。甘(あま)さはなくて少し酸(す)っぱいだけだったけど、味(あじ)と香(かお)りはたしかにサクランボだった。

              

 

そして、さらにいけないと思いつつ、3粒(つぶ)ほど摘(つ)んでポケットへ。

                                (^^;)

夕食(ゆうしょく)後(ご)のデザート。

まったく甘くないとはいえ、高価(こうか)なフルーツであるサクランボが夕食のデザートなんて、ぜいたくなものだ。

 

貧(まず)しい老人への自然(しぜん)?からの恵(めぐ)み。

 

なんて考えていると、ふと、

小学生(しょうがくせい)の時(とき)、学校(がっこう)からの帰(かえ)りに悪(わる)ガキ仲間(なかま)といっしょに寄(よ)り道(みち)をして山間(やまあい)にある瓜畑(うりばたけ)に行って瓜を食(た)べていたことを思い出した。※

 

あれはおいしかったなァ。(^^;)

 

一度(いちど)だけ畑の持(も)ち主(ぬし)のおじさんに見つかって「コラー」って怒鳴られたことがあったけど、いや、そのときの逃(に)げ足(あし)の速(はや)かったこと。

わたしの小学生の時の最高(さいこう)速度(そくど)だったと思う。(笑)

 

もう亡(な)くなっていると思うけど、追(お)いかけようとはせず、家(いえ)に苦情(くじょう)も言ってこなかった、あのときのおじさん、ありがとうね。合掌(がっしょう)。

 

こんなわたしが言うのも何(なん)なのだけど。

自然の恵(めぐ)みというのはありがたい、というか、人間は自然の恵みで生きている、存在(そんざい)しているものなんだなァ、と思う。

 

そのことを現代(げんだい)に生きる我々(われ、われ)、というか、近(きん)現代(げんだい)の人類(じんるい)は忘(わす)れているのではないだろうか?

 

わたしは、学生時代から今に至(いた)るまで、マルクスの「労働価値説(ろうどうかちせつ)」というものがどうにも理解(りかい)できないでいる。

 

人間の労働が全ての価値(かち)を生み出すという考えだと思うのだけど、これはまさに資本主義(しほんしゅぎ)を前提(ぜんてい)として言えることであって、それ以前(いぜん)のというかそれ以前から、厳然(げんぜん)として人間を産(う)み、生かしている、自然の恵みということが度外視(どがいし)されているのではないか、と考えるからだ。

 

だから、大富豪(だいふごう)という存在に対(たい)しても、労働者(ろうどうしゃ)の搾取(さくしゅ)(資本主義ではたしかにそうだ)によるもの、ということだけではなく、

古代(こだい)の中国(ちゅうごく)思想(しそう)のように、

本来(ほんらい)、天(てん=自然?)が人間に平等(びょうどう)に与(あた)えているものである富(とみ)を独(ひと)り占(じ)めしている、つまり、天や他の人たちから富を盗(ぬす)んでいるのが大富豪(必要(ひつよう)以上(いじょう)の富を蓄積(ちくせき)している人)なのだ、という観点(かんてん)で考えることも必要(ひつよう)なのではないだろうか。

 

(現代(げんだい)の共産(きょうさん)主義(しゅぎ)運動(うんどう)では、否定(ひてい)すべき私有財産(しゆうざいさん)とは労働者を搾取できるほどの資産(しさん)、ということになっているらしい。)

 

平等(びょうどう)、公平(こうへい)ということは、古代(こだい)以前(いぜん)?の人間にとっては集団(しゅうだん)を維持(いじ)する大原則(だいげんそく)であって、それを破(やぶ)る、破(やぶ)ろうとする者に対しては制裁(せいさい)が加(くわ)えられたという。

 

ちなみに、「平等」「公平」については、こんなイラストがあった。

 

うーん、なるほど・・・。

 

と、まあ、貧(まず)しい老人(ろうじん)が人目(ひとめ)を盗(ぬす)んで?道端(みちばた)?の木から3個のサクランボをいただいた?ことから、なんだかヘンな?方向(ほうこう)に話が行ってしまった。(^^;)

 

でも、いまや死語(しご)、あるいは官(かん)が民(みん)を抑圧(よくあつ)するために使(つか)われるだけのようになっている平等と公平を有効的(ゆうこうてき)に実現(じつげん)するには、西洋(せいよう)のヘーゲル的な思考(しこう=マルクスヘーゲル左派(さは)から始(はじ)めた。)だけではなく、中国(ちゅうごく)思想(しそう)?も取(と)り入(い)れていかなくてはいけないんじゃないかな?

と思っている。

 

・・・うん。

木陰での読書や散歩はなかなか健全(けんぜん)な??思考(しこう)に導(みちび)かれて心(こころ)にも身体(からだ)にもいいような気がする。(笑)

 

資本主義やマルクス主義ファシズムとの葛藤(かっとう)はここで書くべきテーマではないので、裏(うら)のブログ「何のために生きている?」でまたやろうと考えている。

 

ということで、

 

人間(にんげん)社会(しゃかい)ではクソ面白(おもしろ)くもないことばかりだったのだけど、また自然に癒(いや)されたこの月(つき)が終(お)わる。

 

・・・、 人は苦しみ、花は咲く。(泣)

2023年4月ちゃんバイバ~イ \(^^)

 

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瓜畑といえば、中国の古典(こてん)にこんな格言(かくげん)があった・・・。

 

『瓜田(かでん=瓜畑(うりばたけ)。※2)に履(くつ)を納(い)れず、李下(りか)に冠(かんむり)を正(ただ)さず。』

 

これは、

瓜の畑の中に足をふみ入れると瓜を盗むと疑(うたがわ)われる。

また、李(すもも)の木の下で冠を被(かぶ)り直(なお)せば、李を盗むと疑われる、

から、人に疑われるような行為(こうい)をしてはいけないよ。

という意味(いみ)。

らしい。(笑)

 

大昔(おおむかし)から変(か)わらない光景(こうけい)だったんだなァ。

                               (^^;)

改(あらた)めて、         合掌。

 

ほんとうにおいしかったです。ありがとうございました。(泣)

 

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※2

「畑」は和製(わせい)漢字。