2022年10月も昨日(きのう)で終(お)わり。

今年の10月は急激(きゅうげき)な気温(きおん)の変化(へんか)に身体(からだ)がついて行かず、少し体調(たいちょう)を崩(くず)してしまった。

 

1週間ほど前から風邪気味(かぜぎみ)なのだけど、昨日一日(きのういちにち)食事(しょくじ)を玄米(げんまい)がゆと梅干(うめぼし)だけにして大人(おとなし)しく静養(せいよう)していたら今日(きょう)は朝から体調がいい。

 

昨日はハロウィーンだった。

 

大台(おおだい)に乗った記念(きねん)に、じいさんマスクを被(かぶ)って

  杖(つえ)をつきながら渋谷を“徘徊(はいかい)“してやろう、などと考えていたのだけれど、それは儚(はかな)い夢(ゆめ)と消(き)えてしまった。(笑)

 

youtubeで渋谷や大阪(おおさか)道頓堀(どうとんぼり)の風景を眺(なが)めるだけ。

 

しかし、これが案外(あんがい)面白かった。(笑)

温度や臭(にお)いはわからないけど、臨場感(りんじょうかん)はすごくあって雰囲気(ふんいき)が伝(つた)わってくる。

 

 

    

                                   (^^)

見ていて、全然(ぜんぜん)飽(あ)きなかった。

 

わたしはこういうのはありだな、と肯定的(こうていてき)にとらえているのだけど、「公的(こうてき)」な行事(ぎょうじ)ではないためか、メディアやSNSではかなりバッシングされている。

 

今年は特(とく)に10月30日に韓国(かんこく)の人気(にんき)観光地(かんこうち)である梨泰院(イテウォン)で、人が密集(みっしゅう)しすぎたことによる多くの人の圧死(あっし)事件(じけん)が起きたことで、批判(ひはん)が厳(きび)しかったようだ。

 

しかし、公的行事ではなく多くの人が自(みずか)ら望(のぞ)んでいるものだから、人は集(あつ)まる。

それは厳(きび)しくつらい日常(にちじょう)からの一時的(いちじてき)な脱出(だっしゅつ)であり、また、儚い人生(じんせい)のつかの間(ま)の楽しみでもあるだろう。

 

梨泰院という、ドラマでも有名(ゆうめい)な観光地で亡(な)くなった人たちも、当地(とうち)を楽(たの)しむということと仮装(かそう)を楽しむという違(ちが)いはあれ、その思いは同じだったのではないだろうか?

 

もちろん、人生の半(なか)ばで不測(ふそく)の事態(じたい)によって命を落(お)とすことはこの上(うえ)なく痛(いた)ましい。

 

しかし、それによって多くの人たちが楽しみにしている渋谷のハロウィーンを中止(ちゅうし)させる、厳(きび)しく取(と)り締(し)まる、というのは違(ちが)うと思う。

梨泰院で犠牲(ぎせい)になった人たちもそんなことは望(のぞ)んでいないのではないだろうか?

 

テレビなどでは渋谷でも梨泰院と同じ人の密集による事故が起きるのではないか?

と心配する報道(ほうどう)も多かった。

しかし、仮装(かそう)していればむしろ他者(たしゃ)との距離(きょり)をとろうとするだろうし、渋谷では仮装している人と観客的(かんきゃくてき)な人たちが混(ま)ざってしまっているので、とくに観客による密集ということも考えられないような気がする。

 

それでも、どうしても危険(きけん)というのであれば、渋谷の車道(しゃどう)を一部ホコ天にすればいいだけの話だと思う。

ホコ天(てん)にしたほうが警備(けいび)もやりやすいと思うし。

 

来年(らいねん)以降(いこう)のハロウィーンは渋谷の一部車道のホコ天化を検討(けんとう)してもらいたいものだ、と個人的(こじんてき)に思っている。

 

今日はニューヨークのハロウィーンを見た。

ニューヨークでは車道を解放(かいほう)してのパレードなんだね。

 

日本のハロウィーンではこの規模(きぼ)のパレードはムリだと思うので、やはりホコ天がいいよう。

 

これ(パレード)でやると日本では百鬼夜行(ひゃっきやこう)になってしまうしね。(笑)

 

                                  (^^;)

 

それにしても、インドネシアでのサッカー場での惨事(さんじ)といい、韓国での悲劇(ひげき)といい、百数十人(ひゃくすうじゅうにん)規模(きぼ)の若者(わかもの)の大量(たいりょう)〇亡(ぼう)事故(じこ)が連続(れんぞく)していて気(き)にかかっていたら、今度はインドでつり橋(ばし)の落下(らっか)事故(じこ)が起こった。

インドも〇亡が130人以上だという。

 

日本でもそのような大量〇亡事故が起きる可能性(かのうせい)を考えて注意(ちゅうい)、対策(たいさく)しておくことが必要(ひつよう)だろう。

(知床遊覧船事故(しれとこゆうらんせんじこ)を思い出した。〇者26名。)

 

・・・、

徹底的な原因究明で、すべてがあきらかになることが、犠牲になられた方々の「供養(くよう)」になると思う。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

体調が悪いとなかなか眠(ねむ)れない、ということがある。

そういうとき、わたしは寝床(ねどこ)で本を読(よ)む。

読んでいるうちに、ポテッと寝落(ねお)ち。(^^)

 

それでも、

「あ、ここのところいいな、と思って付箋(ふせん)をつけているところがあって、

ひとつは

カルロ・ロヴェッリ「時間は存在しない」中の

『時間はすでに、一つでもなく、方向もなく、事物(じぶつ)と切っても切り離せず、「今」もなく、連続でもないものとなったが、この世界が出来事(できごと)のネットワークであるという事実に揺(ゆ)らぎはない。

時間にさまざまな限定(げんてい)があるいっぽうで、単純(たんじゅん)な事実(じじつ)が一つある。

事物は「存在(そんざい)しない」、事物は「起(お)きる」のだ。』

 

ふたつめは、「般若心経(はんにゃしんぎょう)」のサンスクリット語からの訳(やく)。

『この世においては、物質的現象(ぶっしつてきげんしょう)には実体(じったい)がないのであり、実体がないからこそ物質的現象で(あり得(う)るので)ある。

   ~

感覚(かんかく)も、表象(ひょうしょうも)も、意志(いし)も、知識(ちしき)も、実体がないのである。

シャーリプトラよ

この世(よ)においては、すべての存在するものには実体がないという特性(とくせい)がある。』

 

みっつめが、金剛般若経(こんごうはんにゃきょう)の漢訳(かんやく)のこの部分(ぶぶん)。

 

『 是法平等無有高下。(ぜほうびょうどうむゆうこうげ。)

 

  是名阿耨多羅三藐三菩提。(ぜみょうあのくたらさんみゃくさんぼだい。)』

 

サンスクリット語

「実に、その法は平等であって、そこにおいてはいかなる差別もない。

 

それだからこそ、《 この上ない正しい覚(さと)り(=阿耨多羅三藐三菩) 》と言われるのだ」)

 

だからね~。今のところ希望(きぼう)もないかもしれないけど、絶対的(ぜったいてき)な絶望(ぜつぼう)なんてものもないわけよ。

 

すや~。(-。-)。о Ο 

 

            早く体調戻そ。(笑)